2話 処刑宣告
『ごめん、リュネット。僕はラヴェーナと結婚する』
『え……どうして……?』
人生で一番つらい日は、あの日だと思っていた。
これ以上、つらいことなんてない。
ずっと、そう思っていた。
リュネットは自邸の中庭で一人、芝生の上に横になりながら昔のことを思い出していた。
シルヴァレン家の中庭は、リュネットが一番落ち着ける場所だ。
きれいに手入れされた芝生の中央には、大きな木が一本立っている。
その根元には、銀色の剣が深く突き刺さっていた。
シルヴァレン家に代々伝わる、聖剣。
かつてシルヴァレン家が民を守るため戦いに出た際、聖女から授けられたと伝えられている剣だ。
持ち主の魂の強さによって、その力を変える。
そんな言い伝えも残っている。
もっとも、それが本当なのか確かめた者はいない。
なぜなら、この剣は何百年もの間、一度も抜かれたことがないからだ。
「本当に必要なときにだけ、正しい持ち主が扱える」
そう伝えられてはいるものの、聖女の剣などただの昔話だと言う者も多い。
それでも、リュネットはこの聖剣の力を信じていた。
ここにいると、不思議と胸の奥があたたかくなる。
まるで見えない何かに、そっと守られているような気がするのだ。
ーーエリオスとラヴェーナの結婚式を見たあとは、思っていた以上に心が傷ついていた。
だからリュネットは、いつものように中庭へやってきて、聖剣のそばに横になった。
けれど目を閉じると、思い出したくない記憶ほど浮かんでくる。
……エリオスと初めて会ったのは、五歳の頃だった。
それから十二年間。
リュネットはずっと、自分は彼の妻になるのだと信じて生きてきた。
『リュネットの銀色の髪には、太陽のブローチがすごく似合うね!』
『リュネットとお揃いでダンスパーティーに出るんだって。どの衣装にする?』
『君が僕のお嫁さんになってくれるのが、本当に嬉しいよ!』
あの言葉が、すべて嘘だったとは思いたくない。
初めてのダンスも。
初めての抱擁も。
初めてのキスも。
全部、エリオスとだった。
これから先も、たくさんの「初めて」を彼と一緒に重ねていくはずだった。
けれど今、彼の隣で笑っているのは自分ではない。
天使のように美しくて。
誰にでも優しくて。
少しおてんばで。
人を妬むことなんて、一度もなかったような純粋な少女。
自分よりずっと、エリオスに似合う、本物のお姫様。
十二年かけて積み重ねてきたものは、一瞬で崩れた。
ずっと自分のものだと思っていた場所は、本当は違ったのだろうか。
それなら、自分はこれからどこへ行けばいい?
他に何が残っている?
そう考えると、どれほど我慢しても胸が痛んだ。
涙が次々とこぼれてくる。
『ごめん、リュネット。僕はラヴェーナと結婚する』
『え……どうして……?』
それは、十七歳の春だった。
突然告げられた言葉に、リュネットは何も考えられなくなった。
王宮にあるリュネットの部屋へやってきたエリオスは、何の前触れもなくそう言ったのだ。
『これからの同盟国との関係を考えるなら、王位継承権第一位の僕がラヴェーナと結婚するべきだと思っているんだ』
『……でも、それはあなたのお兄様でもできることではないの?』
エリオスには、腹違いの兄がいる。
ただ、兄は王妃の子ではない。
先に生まれてはいるものの、王妃の子であるエリオスより王位継承の順位は低かった。
もともと、ラヴェーナと結婚する予定だったのはエリオスではなく、その兄だった。
だからこそ、リュネットにはエリオスの言葉が理解できなかった。
『そうかもしれない。でも、国のためだけじゃないんだ』
エリオスは少しためらったあと、続けた。
『僕は彼女のことを、心の底から愛してしまった』
『こんな気持ちは、きっともう他の人には抱けないと思う』
その言葉を聞いた瞬間。
足元が崩れていくような感覚に襲われた。
体中の血が一気に冷たくなったようで、息もうまくできない。
『ど……うして』
やっとのことで、声を出す。
『私のことを愛しているって、ずっと……。この十二年は……?』
これから先も、ずっと彼と一緒に生きていくと思っていた。
その未来からエリオスだけが消えるなんて、考えたこともなかった。
『もちろん、僕だって君のことが好きだった。でも……ラヴェーナは特別なんだ』
エリオスは真剣な顔で言った。
『彼女といると、胸が苦しくなるくらいドキドキするんだ……』
『それにリュネット、君は僕なんかよりずっとしっかりしてる。僕がいなくても生きていける』
『でも彼女は、僕がいないとだめなんだ。そう思える人なんだ』
いっそ、国のためだと言ってくれたほうがよかった。
そのほうが、ずっとましだった。
他の女性を愛したから。
だから自分を捨てるのだ。
そう言われるより、ずっと。
リュネットは何も言い返せなかった。
エリオスは、恋をしていた。
そんな顔をする彼を、リュネットは今まで一度も見たことがない。
そして分かってしまった。
十二年かけて二人で育ててきたと思っていた愛は、もう彼の中には残っていないのだと。
王太子との婚約が破棄されてから、リュネットの立場はひどく中途半端なものになった。
本来なら、十五歳を過ぎた貴族の娘は宮中に仕えるか、結婚して家を出る。
けれど、「婚約を破棄された令嬢」という印象はあまりにも悪かった。
どんな理由があったとしても、
――何か問題のある娘だったのではないか。
そう疑われてしまう。
名門シルヴァレン伯爵家の娘であっても、新たな縁談を申し込む者はいなかった。
――そしてリュネット自身も、もう誰かの妻になりたいとは思えなかった。
王太子の婚約者として王宮で暮らしていたリュネットは、十七歳で婚約を破棄されたあと、王宮を離れることになった。
それからは実家に戻り、静かに暮らしている。
「気が休まるまで、家にいなさいね」
母はそう言って微笑んだ。
「屋敷のことや、領地の仕事を手伝ってくれればいいのよ」
王太子妃になるために受けてきた教育は、意外なほど屋敷の仕事に役立った。
帳簿を確認したり、使用人に指示を出したり。
領地の事業計画に目を通し、改善提案をする。
忙しくしている間だけは、余計なことを考えずに済む。
リュネットにとって、それはありがたいことだった。
家族も、リュネットを気遣うように夕食の時間を大切にしてくれた。
手の込んだ料理を囲み、家族みんなで同じ食卓につく。
十歳で王宮暮らしを始めてから、こんな時間はほとんどなかったので、こんなに幸せなことがあるのかと、不思議な感覚だった。
夕食の温かいスープを口に運びながら、リュネットはそっと両親を見る。
「……ごめんなさい、お父様、お母様」
自分でも分かるほど、声が震えた。
「私がうまくやれなかったばっかりに……。お荷物の娘を、こんな年まで家に置くことになってしまって……」
母はすぐに立ち上がった。
そしてリュネットの頭を、ぽん、と軽く叩く。
「何を言うの」
そのまま、優しく髪を撫でた。
「小さい頃から、あなたはずっと忙しかったでしょう。今は、その分を取り戻しているだけよ」
父も穏やかに頷く。
「ずっとここにいて構わないよ。君は、私たちの大事な娘だからね」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
涙がこぼれそうになるのをこらえながら、リュネットは小さく笑った。
――このまま家族を大切にして、穏やかに暮らすのも悪くない。
そう思えたことが、少しだけ嬉しかった。
だからリュネットは決めた。
(絶対、絶対に二人へ恩返しをしよう)
(今そばにいてくれる家族を大切にして、もう恋なんてしない)
そうして少しずつ、前を向こうとしていた。
けれど。
そんな穏やかな日々は、突然終わりを告げる。
「――ここに宣告する」
冷たい声が響いた。
「シルヴァレン家当主、エドリック・シルヴァレンは、その娘リュネット・シルヴァレンの婚約破棄を恨み、ラヴェーナ王太子妃殿下の命を狙った」
「この行為は、王家に対する重大な反逆であり、王国の秩序を著しく損なうものである」
「よって、一家を斬首刑とする」




