10話 アステルの素顔
リュネットは、帳簿の数字が食い違っている報告書を、そっと前に出した。
「この件です」
「……理由を聞こうか」
「まず、盗難と暴行は優先しなくていいと思います」
アステルの目が、わずかに細くなる。
リュネットはそのまま続けた。
「盗まれた人も、殴られた人も、自分から声を上げます。放っておいても、いずれ誰かが問題にするでしょう」
そして、帳簿の報告書を指先で叩く。
「でも、数字は何も言いません」
「表に出にくいから危険だと言っているのか?」
「いえ、それだけではありません」
リュネットは首を横に振った。
「これは、国どうしの問題に広がる可能性があります」
アステルは黙って続きを待っている。
「たとえば、同盟国から綿を百箱運び込んだと申告されているのに、実際は九十八箱しかない。そんな小さなズレが、最近何度も起きています」
「単なる記入ミスではないと?」
「はい。私は、試されているのだと思います」
「どういう意味かな」
「どこまでなら、この国は見逃すのか。どのくらい数字をずらせば気づくのか。どの部署が止めに来るのか。それを調べているんです」
アステルの表情が、少しだけ変わった。
リュネットはさらに書類をめくる。
「それに、このズレが増えたのは、同盟諸国友好法ができてからです。
国どうしの行き来が増えた分、制度の穴も増えます。そこを狙っている人間がいるのかもしれません」
リュネットは、まっすぐアステルを見る。
「今は小さな数字のズレでも、ここで見逃したら、次はもっと大きなものを通そうとするはずです」
「たとえば?」
「人です」
リュネットは即答した。
「物資でも、武器でも、兵士でも。最初に小さな穴が見つかれば、次はもっと危険なものを通そうとするでしょう」
部屋が静かになる。
実際、一度目の人生では、友好法ができたあと、違法薬物や密輸、それに他国の間者が増えて問題になった。
(未来を知っているのは、ちょっとずるいかもしれないけど……)
それでも。
今度こそ、使えるものは全部使う。
アステルが静かに尋ねる。
「では、君なら次にどうする?」
「まず、王国側が気づいていると相手に知らせます。
数字のズレが続いているため調査を始める、と正式に通達します」
リュネットは少し身を乗り出した。
「こちらは見ている。気づいている。これ以上やれば見逃さない、と最初に伝えるべきです」
「犯人を捕まえる前に? なぜ?」
「大きな事件にさせないことの方が大切だからです」
その言葉を聞いた瞬間。
アステルの口元が、はっきりと上がった。
先ほどまでの冷たい顔とは違う。
ほんの少しだけ。
楽しそうに笑っている。
「……なるほど」
アステルは椅子の背にもたれた。
そして。
「合格だ」
「……え?」
一瞬、意味を理解するのが遅れた。
「君は合格だ、リュネット」
「本当ですか?」
「ああ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていた緊張が一気にほどけた。
「ありがとうございます!」
思わず声が大きくなる。
慌てて緩んだ口元を押さえると、アステルが小さく笑った。
「さっきまでの強気な顔はどこへ行った?」
「……緊張していたんです」
「そうは見えなかったが」
「必死に隠していました」
「なるほど。演技もお上手なことで」
少しだけからかうような口調だった。
(……こんなふうに笑う人なのね)
リュネットは、少しだけ驚いた。
噂では冷血、無表情、人を寄せつけない。
そんな話ばかりだった。
けれど、目の前にいるアステルは思っていたより感情を表に出す人のように見える。
しかも。
(……笑うと、すごく綺麗)
そう思ってしまった瞬間。
リュネットは慌てて視線をそらした。
「……あの」
「なんだ?」
「どうして、私を合格にしてくださったのですか?」
アステルは少し考えるように目を細める。
そして。
「君は剣を振らなくても、敵を葬れる人間だと思ったからだ」
「……」
「中央局に必要なのは、そういう人間だ」
リュネットは、ゆっくり頷いた。
「でしたら、必ずお役に立ってみせます」
勢いよく立ち上がり、深く頭を下げる。
「よろしくお願いいたします!」
「……ああ」
リュネットは、ふうっと大きく息を吐いた。
(これで、一歩進めた)
爵位を継ぐための第一歩。
自分の力で生きるための第一歩。
そして。
(絶対に実績を作る)
今度こそ。
誰かに捨てられる前に。
自分から人生を選ぶ。
(そして、私から婚約を終わらせるのよ)
そう心の中で決意しながら顔を上げると。
アステルが、いつの間にか机の横にしゃがみ込んでいた。
「……殿下?」
床に落ちていたものを拾っている。
先ほどリュネットが外した、シルヴァレン家の紋章。
王太子の婚約者の証。
それらを一つずつ丁寧に拾い上げていた。
「これだけのものを投げ出して、ここへ来た人間は初めてだ」
アステルは立ち上がる。
「ずいぶん思い切ったことをするな」
「あ……勢いでやってしまって」
今になって恥ずかしくなってくる。
「床まで散らかしてしまって、申し訳ありません」
「気にしなくていい」
そう言って、アステルは拾った紋章を、リュネットの手のひらにそっと戻した。
指先が触れた。
ほんの一瞬。
それだけなのに。
「……っ」
リュネットの肩が、わずかに跳ねた。
アステルは気づいたのか、黄金の瞳で、じっとこちらを見る。
「どうした?」
「い、いえ。なんでもありません」
アステルはそれ以上追求せず、扉に向かった。
「さて。
せっかくだ。中央局の中を少し案内しよう」
「殿下がですか?」
「不満か?」
「い、いえ! ありがたいことだと思っただけです」
「そうかーー何も気にするな、早くおいで」
アステルは自然にリュネットの背中へ手を添えた。
ほんの軽いエスコート。
それなのに。
距離が近い。
ふわりと、花のような淡い香りがした。
(近い……)
一度目の人生、牢の中で感じた、あの優しい温かさを思い出す。
胸がとくん、と鳴った。
(……なによこの気持ち)
リュネットは、自分でもよくわからないまま耳が熱くなるのを感じた。
冷静に試験で力を図ってくると思えば、こんなふうに自然に手を添えてくれたり。
(本当に、よくわからない人だわ……)
少しだけ落ち着かない気持ちのまま。
リュネットは、アステルと一緒に面接室をあとにした。




