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12話 月白朔と湖山澪の話1


 あの夜から何度目かになる、閉店前に照明を落とした店内で、二人だけの時間。

 話を重ね、澪とは同い年だということも知った。澪の誕生日は12月だということも聞けた。

 少しづつ、彼女に関するメモが増えていく、この距離感が俺には未だ奇跡のように思える。

 その日もカウンター越しに澪がふと、アイスコーヒーのストローをくるくる回しながら言った。

「ねえ」

「はい?」

「“さくくん”ってさ、なんか呼びにくいかも」

「……そうですか?」

 唐突に言われ、一体なんの話だろうかと少し慎重に返事を返した。

「“く”が並んでるからかなぁ?なんか距離あるような気もするし」

 

「……僕の方は、別に呼び捨てでも構いませんよ」


 言った。言ってしまった。


 あくまで提案だ。言いにくいなら呼び捨てで良いよと。

 余裕を持って言えたはずだ。

 

 澪は「え?」と目を丸くする。

 

「じゃあ……朔って呼ぶね」

 

 数秒沈黙した後、戸惑うことなく呼び捨てで俺の名前を呼んだ。

 まるで前からそうだったみたいにあまりにも自然に呼ぶものだから、思考が一瞬止まってしまう。


(待って)

(今名前……)

 

 自分でどうぞ、と差し出した提案だったのに、勝手に戸惑ってしまう。

 澪はいつも通りだ。

 

「朔はさ、なんでそんな落ち着いてるの?同い年なのに全然私と違うよね」

 

(この人は本当に……)

 人の情緒を壊す天才だ。

 こっちは何年も名前すら知らなくて、想いを募らせてるだけだったのに。

 彼女は、数秒で飛び越えてくる。

 怖くないのか。いや、きっと怖いはずなのに、それでも踏み込んでくる。

 

「……落ち着いて見えるだけですよ」

 

 やっと言葉を返す。少し声が掠れてしまったが、澪は全く気づいていない。

「そうなの?どんな時に慌てたりするの?想像つかないなぁ」

 そう言って楽しそうに身を乗り出すもんだから、カウンター越しとはいえ、いつもより距離が近い。

 

 俺はゆっくり息を吐く。

(ここまで来たなら)

 少しだけ。ほんの少しだけ、距離を詰めてもいいかもしれない。

 

「澪さん」

 

 名前を呼ぶと澪が顔を上げる。


 俺はカウンター越しにほんのわずかだけ前へ身を傾けた。澪も身を乗り出していた分、確実に近い。

 

「……澪」

 

 柔らかい声を意識して、あえて丁寧さを落とす。


 澪の喉が小さく動いた。さっき自分がやったことの意味を、少しだけ理解したような顔だった。

 

「呼び方が変わると、印象も変わりますね」

 

 澪と視線を絡めたまま笑みを浮かべた。


 正直、心臓が破裂しそうなぐらいに動いてる。気を抜くと抑え込んでいたものが溢れてしまいそうだった。

 

(可愛い)

(好きだ)

(触れたい)

 

 でも触れない。触れない代わりに、距離だけ詰める。

 

 澪が小さく息を吸うと、桜色の唇からまた小さく名前が紡がれた。

 

「……朔」


 その響きを聞いた瞬間、胸の奥で何かが完全に落ちる。

(ああだめだ)

 もう、戻れない。

 

 澪が、呼び捨てで自分を呼ぶその響きが、まだ胸の奥で反響している。

 視線はずっと絡んだまま、逃げない視線と無防備な距離。

 

……ずるい。

 

「澪は、ずるいですね」

 

「え?」

 澪の目が瞬くと不思議そうに丸く開かれる。俺は視線を外さないまま小さく笑った。

 

「どれだけ、こっちの情緒を乱せば気が済むんですか」

 

 冗談みたいな言い方をするが、本音が漏れた。

 

 カウンター越しにそっと手を伸ばす。

 触れるか、触れないか、ほんのわずか。

 澪の指先……爪の先に、軽く触れる。


「名前も、距離も……急に飛び越えてくるでしょう」

 

 何年も貴女との再会を待っていた。今は、翻弄される距離にいる。


――――――

 

 朔のその顔を見て、胸がきゅっと鳴った。

 優しいのに少しだけ困ったような、ほんの少しだけ拗ねたみたいな顔。

 

(わ……なんか可愛い)

 

 そんな表情、初めて見る。

 いつも余裕なのに、自分のせいで彼が揺れてる。

 その事実が、妙に嬉しいと思ってしまった。

 

 そっと、私の爪先に触れている朔の指に、自分の指を軽く絡めた。

……逃げ道を塞ぐみたいに、そっと。

 ずっと、鼓動が落ち着かなくて、でも、なんとなく、離したくなかった。


――――――――


 澪が絡めた指先に熱が集まってくる。一瞬、呼吸が止まった。

 

(……だめだ)

 

 心臓がうるさい。俺、このまま死ぬんじゃない?

 

 澪が俺の目をまっすぐ見て、少しだけ首を傾ける。

「じゃあ……朔は、どうしたいの?」 


 絡められた指が熱い。振りほどけない……振りほどきたくもない。

 何年も抱えてきた想いが、喉元まで上がりかける。

 でも、勢いでは言うのは違うと必死で飲み込んだ。

 小さく深呼吸をして、ほんの少しだけ澪との距離を詰める。

 

「……澪が……ここに来なくなるのは、嫌です」

 

 それがまず本音。せっかく会えたのに、また俺の前からいなくなってしまうなんてもう耐えられる気がしない。

 

「他の誰かに、こんな風に笑うのも、正直、面白くない」

 これはただの独占欲。だけどこれも本音だ。

 自分で思ってたより低い声が出た。


「どうしたいか、ですか?」

 

 ほんのわずかに指に力が入り、澪の指先にもう少し自分の指先を絡めた。

 

「……澪が許すなら隣にいたい」

 

 それは告白の一歩手前……というかほとんど告白だった。

 静かで、重くて、真っ直ぐな願いを祈るように零した。

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