2076年5月15日金曜日、10時00分、新所沢。倉庫。ハルが背中を守る
埼玉県所沢市。見渡す限りの道路と荒野、少しの倉庫やパチンコ屋。根性ある草がちらほら生えている程度の計画的な死の土地だ。
トラックが走る機会は少なく、すべてを掌握するのも十六女警視正どのならお茶の子さいさいだ。しかし確定にはもうひとつ足りない。一部の事業者がデータを提供せずに走らせている。別件の問題は後日にして、まずは目星をつけた。たったの七件まで絞り込めたのだから上々だ。
必要なのは周囲との関係性だ。ご丁寧にも連帯を築いていたり、あるいは玄庭会で固まっていたら、牙城は容易に崩せない。そこで槙田が当たった。営業トークで取り入り評判を探る。各倉庫を使う事業主向けに本物の依頼を黒部警視監が用意してハルがオペレーター役を担った。あわよくば契約を取り付けられたら大助かりだ。
これらが5月13日と14日の話だ。今日は15日、午前10時。周囲の人影は去った。十六女警視正どのが上空から確認した。この日は誰もが忙しいと槙田が聞き出していた。誰かが忘れ物をとりにきても大丈夫、数分後には仕事が終わる。
運転席はもちろんハルだ。黒部警視監から借りた高級車で彼の地へ向かっている。慣らし運転でクラッチの感触を覚えた。エンジンは温まっている。間違いない走りを見せられる。「戸吹ちゃん、心の準備は」「当然だ」「ヤスくんは」「バッチリすぎて怖いくらいだ」「今は喜びなよ。戸吹ちゃんみたいにさ」この軽口も今日が最後かもしれない。命が残る保証はないのだ。自分の手足で切り開く。所沢駅を離れるにつれて周囲の車は減ってきた。窓の先には景色だけが動いている。東京都心から遠ざかり、ベッドタウンを越えて、田舎を越えて、ど田舎を越えて、荒野へ。
時計を合わせた。ハルの時計は助手席の戸吹が。全員が左手首で同じ時刻を見る。計画通りなら小時間の仕事になるが、ハルは長時間の仕事が染み付いているし、戸吹は店長の趣味で映画を見ていた。「ハル、ひとついいか」「どうぞ」「今夜はハンバーグカレーを食べたい」生きて帰るから生きて帰れ。戸吹はそう言っている。「最高のを作る。背中は任せなね」残りは表情筋で語った。言葉よりも雄弁に。
シートベルトを外した。さあ、突入だ。
屋外資材置き場の中央に車を置いて遮蔽物とする。戸吹と槙田が左側から出て入り口へ走る。ドアで止まる瞬間が最高の狙撃タイミングなので車体で隠す。ハルがいる運転席は右側だが、サイドブレーキを乗り越えて左から出る。狙撃手の位置は十六女警視正どのが見ている。寸分の狂いもない位置に駐めた。右のドアが凹んだ。あわよくば抜ける車だと願ったようだが、残念だった。こちらはそんなに甘くない。「はるるん、5分で着く。位置は送るね」「りょーかい、頼りにしてる」
ハルには背中を守る役目がある。戸吹と槙田が入った建物にいるのは霧島だけで、別の建物に部下たちがいる。ちょうど狙撃手がいた建物だ。いくらか時間稼ぎをする間に挟み撃ちにする腹積りが丸見えで、現に我々でなければ有効な手だが、こちらには十六女警視正がいて、特殊な眼鏡がある。
今日のハルは赤い眼鏡と首周りに立体スピーカーをつけている。どちらも十六女警視正からのデータを受け取る特注品だ。仕組みはただの拡張現実だが、透明ディスプレイと無線による受信を小型化したらまともな駆動時間を確保できないため、他では到底みられない。
戸吹と槙田は建物に消えた。周囲には誰もいない。一瞬だが久しぶりにハルと十六女警視正が二人きりで話せる時間だ。「彩、ひとつ聞きたい」「何さはるるん。いや、今なら陽菜でいいか」「どこまで仕組んだ? 戸吹ちゃんはこっちもお気に入りだが?」「偶然だよ。全部。あたしにだって予想外はあるんだから」「どうだか。こんな車で飛び込んで言い訳できる準備があるのに?」「そんなの楽でしょ。言い訳ならあたら屋のほうが大変だもん」
二人の関係は陽菜が小学生の頃まで遡る。
当時の彩は義肢喫茶でのアルバイトをしていた。キャストたちがかわいい服と義肢で着飾りゲストと軽い話をする。義肢を理由に働き口がなかった少年少女のコンプレックスを取り去り、魅力として発信した。義肢職人が披露する場でもあった。熱心なゲストはもちろん、SNS越しに話題を見ただけの人も義肢への意識がかわり、奇妙な人物だと思っていたところを、かっこいいとか綺麗といった印象になった。彩は意識改革を成し得たのだ。彩は新しい義肢の被験体でもあり、高性能な義肢を用いて日常の裏で事件を追う役目も担っていた。
小学生の陽菜はそんな話をつゆ知らず義肢喫茶を訪れた。当時は右腕を失ったばかりで義肢を選ぶところから参考にするつもりだった。彩と出会い、どちらも珍しい苗字だったのですぐにわかった。十六女と阿多良には縁がある。
さらに遡って彩が幼稚園児で陽菜が産まれる少し前。黒部長命刑事を中心に不可解な事件を追うチームがあった。彩の母親が弁護士として、陽菜の両親が外部顧問として。陽菜の両親が当時を覚えていたおかげで、義肢喫茶での話は大いに盛り上がり、その縁で良くも悪くも危ない橋を渡り続けてきた。特に陽菜は義肢の扱いで彩を頼る機会が多かったために、最も踏み込んでしまった。都市伝説の領域までも。
今更さらに危ない橋を渡るくらい大した話ではない。陽菜と彩は歳こそ離れていたが今では等しく親世代の親友だ。「陽菜こそさ、やばたんを気に入ってるのはなんで?」「ああ見えて仕事熱心だ。勉強もする。しかもハングリー精神旺盛ときたら、私らみたいな前作主人公が応援したくなるに決まってるでしょ」「本当に主人公になれるかはまだわかんな「あいつはなる」「最高。そしたら前作主人公のあたしたちは横槍役を独占しよっか。来るよ」
眼鏡の拡張現実が地面を塗った。危険になる位置を赤く示して隠れるべき範囲を教えてくれる。立体スピーカーから拡大した足音が聞こえる。位置と距離は彩から届く。上空のドローンから見て、彩のコンピュータが処理して、ハルの目と耳でわかる形にする。
陽菜の機械の右手がMP7を握った。E字のボディで小型さと戦闘力を両立した得物だ。ちょうど縦書きなら半角のEがそのまま横から見たシルエットになる。ビン・ラディン殺害作戦ではヘリから降下し四〇分で豪邸を制圧した逸話つきだ。扱えるのは専用弾だけの世話が焼ける高級品なため、誰も買い手がつかず、あたら屋の死蔵品を私物化している。もちろん金は払っていない。サイレンサーとチューブ型ドットサイトをつけて近距離戦向けにした。長丁場を想定して長いマガジンを三つガムテープで互い違いに連結して合計九〇発だ。
車体を遮蔽物にしていつでも飛び出せるよう構えた。陽菜は父親譲りのおとなしい側のつもりだったが、巻き込まれ具合は母親譲りらしい。「あたしは産みの親も育ての親もおとなしかったけど今はこれだよ」「彩の前ではおとなしかったのか?」スピーカーの足音がさらに大きくなる。まずは二人、先見隊が様子を見るつもりらしい。
一応、叫んでおく。「警告! きみらに勝ち目はないから投降しなさい。死んだふりでいいから。途中でもいいから」同じ内容を霧島以外の各人へもメールでも送っている。彩の細工だから開いたかどうかは微妙でも、とにかく送った上で投降しなかった形が意味を持つ。
入口 資材資材資材
資材 陽菜 車体
資材 車体
資材
資材 拳銃士
資材 拳銃士
このような位置関係になった。陽菜の姿は車体で隠れるのに対し、敵のシルエットは眼鏡越しなら大まかに見える。しゃがんでいるらしき円柱がふたつ。全員が一気に来ないのなら、後続は拳銃ではないものを用意している。射程の違いが出なくても当たった後が違う。ライフル弾は手脚であっても骨を破壊し、すなわち動脈を破り、速やかに失血死へ向かう。緊縛止血の準備はない。そもそもが助けを待てない環境なので生死を左右するのは回避だけだ。
削っておきたい。身軽な拳銃に気を取られてる間に横から来るのが最悪だ。たったひとりで何人も相手しては勝ち目はない。一瞬だけでも一対一の対等になる状況を作っては勝ち続けるだけが勝ち筋だ。基本は夢物語だが、彩だけの目と陽菜の手を最大限に活用したら夢が現実になる。
足跡が左右へわかれた。ガンロックしている動きだ。何もない車体の際をまずは狙うだけで、少しでも動くものを見つけたら直ちに撃つ。人間は急な出来事への反応には時間がかかるが、出来事を予想した上で待っていれば反応できる。格闘ゲーマーが六〇分の一秒単位で兆候を見つけては操作できるように。
だからと言って動かなければ思う壺だ。時間稼ぎの役目をまんまと果たされてしまう。姿を見せてはいけないが、姿を見せずには攻撃できない。クイックピークでも間に合わない。見せても大丈夫な部分があればいいのだが、陽菜には怪我の功名がある。機械の右腕だ。
利き腕を失っていいことなんかない。かっこよさは実益には程遠い。せめてもの慰めとか不幸中の幸いであって、大元の不幸が無いほうがよほどいい。面倒な争いに巻き込まれるし、その割に常に手袋をしている人という特徴がつきまとう。日常は不便で秘密活動には不向きで、唯一の得意技がこれだ。
右腕と銃だけを車体の陰から出し、撃つ。ソマリア撃ちに近いが陽菜は眼鏡で障害物越しに狙っている。もちろん一発で当てる。サイレンサーで隠した音は銃声なのかどこかで足でもぶつけたのか微妙な音になる。珍しい弾なので聞き覚えもない。直接見た男だけが銃の正体に気づく。冥土の土産にちょうどいい。赤い円柱形がさらに短く太くなった。倒れたのだ。反射的に人差し指を曲げたようだが、背後で資材を覆うブルーシートに穴を開けた。
眼鏡の存在は誰も知らない。男たちから見れば当てずっぽうが幸運にも当たったのと同じだ。人間は判断ができない。三〇分後の夕飯を決めるのさえ簡単にはいかないのに、ましてやプレッシャーの中で三秒以内の判断など。事前の計画を強引に進めるか、気が向くままに暴れる程度が関の山だ。
陽菜から見て左の男が走った。見えるか見えないかが非対称的な今、撃つタイミングを計れるのは陽菜だけであり、先に撃つのももちろん陽菜だ。しかし間違えてはならない。有利であるが、簡単ではない。
陽菜の二発目はアリの巣を作った。見た瞬間に前転で軌道を変えた。寝転がったところを狙うが、男の方が早い。ありったけの連射で小さな銃を破壊せんとする。ブルーシートの虫食いを増やし、車体を叩いて威嚇した。跳弾が陽菜の小指を飛ばした。生身なら銃を落とすだろうが金属と油圧の手は少し揺れただけで、一秒に満たない延命になった。横になった男の胸へ4.6mmの弾が飛び込んだ。
ここで物理の話をしよう。同じ力で動いているならば軽いものほど跳ね返しやすい。身近なところでは、ボウリングの球とサッカーボールが同じ速さで転がっているとき、受け止めるならサッカーボールのほうがずっと簡単だ。速さが同じなら重いほど大きなエネルギーを持っている。横から蹴った場合でもボウリング球はわずかしか曲がらない。サッカーボールなら直角どころか鋭角にさえ軌道を変える。
では銃弾においては何が起こるか。弾頭は錐型だ。前方が細く、後方が太い。見ての通り重心が後ろに偏っている。柔らかい人体を掘り進むとき、前方は軽いので減速しやすく曲がりやすい。後方は重いので減速しにくく曲がりにくい。乱暴にハンドルを切った車のように、あるいは前輪だけブレーキをかけた自転車のように、弾頭の後部が前部を追い抜こうとして回転し、軌道が乱れて荒れ狂うのだ。超音速の運動エネルギーが胸腔で暴れ回り人体を破壊する。貫通してくれれば残りのエネルギーを無駄遣いして壁や地面に傷をつけるだけかもしれないが、銃弾は貫通しないようにできている。
状況を切り出せば護身だが、より大きく切り出せば家で大人しくママのミルクを飲ませていれば必要にならないはずの護身だ。「慣れないね。荒事は」心臓は口ほどにものを言う。銃声を聞いた耳は今この場が異常な危険地帯だと警報を鳴らしている。耳栓をしてもまだ大きいが、あまり強い耳栓では彩の声も聞こえない。深呼吸で落ち着かせる。吸って、止めて、ゆっくり吐く。肺が膨らむほど表面積が広がり効率が増す。「あたしには慣れてるように見えるけどね」「それより情報」「陽菜が怪我でもしたら来週のシカゴが大変じゃんね。ちゃんとやるから安心して」「あちゃー、やっぱり延期なし?」「そりゃそうよ。黒ちゃんのご命令だもん。ブラックバイトも真っ青のブルーワークね」
さて、現実はゲームと違って死体が残り続ける。死体のふりもある。転がった身の頭に念のため一発ずつ入れてダイイングメッセージと最後っ屁を防いだ。残る手がかりはなぜその位置に転がっているかだけだ。サイレンサーのおかげで銃声の質は誤魔化せているからどんな弾かは確認しきれない。「ところでまたホローポイント弾? どこで用意してるの?」「彩はそのフェチをやめたほうがいいし、こいつらが骨太なんだよ」「まあ後で調べるけど、今だとむしろ都合悪いよね」
貫通していればライフルだと考えて取り回しの悪さを突こうとする、あるいは恐れて委縮してくれる。しかしそうでない今では、拳銃だと思って慎重に、拳銃で狙いにくい遠距離から来るかもしれない。結果的に正しい判断をされては読み違えの意味を成さない。相手の現在地がわかっても、相手の装備まではわからない。狙撃銃が少なくともひとつあるのはいいが、重要なのはライフルだ。正規のMP7と正規の弾ならどうにかなる距離だが火薬と銃身の質を加味して念のため近づくのが無難になる。わずかに上回られるのが最も困る。大幅に上回られる分には別の要素で誤魔化しが効く。
「おっと! 陽菜がやったのを気づかれたみたいよ。準備に時間をかけて一気に来る気だ」「彩との楽しいお喋りタイムってわけだ」「本指名ありがとうございます!」「やっぱりやめるか」
「5人と2匹。機械犬が来るから気をつけて」「機械犬って冗談でも暗喩でもないのか。米軍の配備までは聞いたがなぜここに?」「物流の玄庭会だからね。さすがの裏ルートってやつだよ」
地雷にも兵卒にも頼らず拠点を守る未来兵器として発表されたのは2025年の話だ。頭や尾がない四足歩行で、監視や連絡と飛びかかり攻撃ができる。環境負荷や民間人の被害を防ぐ健康的な戦争へ移行する可能性を見せたはいいが、まず戦争が不健康であり誰もが避けようとするから、日の目を見る機会はなかなかない。もちろん軍事機密でもある。
「彩、分析は間に合え」「見た感じ外装はアルミだね。フルオートも検討して。あと偵察役だろうから「人間に情報が割れるって? 見る前に片付けるさ。私は情報屋だから」
入口 資材資材資材
資材 陽菜 車体 犬
資材 車体
資材
資材 犬
資材 人人
人 人
数が増えて眼鏡越しの視認も同時にはできないここからが立体スピーカーの本領発揮だ。首周りの三六〇度のうち必要な方向からのみ音が聞こえる。相手が遠くにいれば小さく、近づくほど大きく。具体的な距離は彩の声で数字を喋る。「やかましいね」「陽菜がいかに重要かわかるでしょ」静かにしてやれば成功、先に静かになれば失敗だ。陽菜は主人公ではない。死んでも戸吹が面倒な目に遭うだけの気楽な役回りだ。
銃を左手に持ち替えて、左からの犬が見えるが早いか、提案通りのフルオートを撃ち込んだ。ダットサイトの赤点の位置はちょうど本物の犬で言うところの首、実際に当たったのは左前脚で、半分が折れ曲がったらバランスを崩して動きが鈍る。今のうちに完全に破壊したい。機械の胸には文字通り心臓部となるアクチュエータか電源か制御チップがあるはずだ。装甲で覆われているだろうが、安全装置があるならいくらかのダメージで動きを止める。
が、ヤクザに安全を期待するのは間違いだ。正しく扱えば安全装置がなくても危険ではなく、危険とは他人に押し付けられる交渉材料だ。被弾による衝撃を感知してか偵察モードから自爆モードへ切り替えたらしい。弾丸は確かに電源を貫いた。リチウムポリマー電池だ。小型かつ高パワーだが衝撃に弱く、外装が破れた今、電解質が急激に反応して炎と有毒ガスを吐き出している。壊れかけだが陽菜へ飛び掛かるくらいの時間は動ける。撃って止めようにも上下左右に動く小さな的を、しかもプレッシャーの中で捉えるのは熟練者でも難しい。サイレンサーが仇になり銃口より奥まで詰められたら間に合わない。
ならば確実な非常手段だ。右手で殴りつけた。相手がアルミフレームだろうが陽菜のステンレスなら打ち勝てる。生身よりは熱に強いし、凹凸による怪我もしない。ニトリルゴムの手袋が少し溶けて張り付いただけだ。指の開閉はまだできる。
犬が三本足になっては起き上がるにも時間がかかり、飛びかかるにはさらに。時間切れだ。機械の犬は煙を吹きだすモードへ切り替わった。
まだもう一体いる。人間も追いついてきた。立体スピーカーがやかましく鳴っている。音量を控えめにと言う余裕もない。機械の犬が付かず離れずの位置で見つめているし、身を乗り出して銃口を向ければ人間の横槍が来る。この世に安定は消えた。全てが賭けだ。倍率もヒントも見えず、何回勝負かもわからず、勝ち負けも教えてくれない、イカサマありのギャンブルだ。初めてではない。珍しくもない。負けた時に今すぐ死ぬのかあとで死ぬのか、すなわち恐怖の源が理性か本能かだけが違うものを繰り返している。たとえ気づかずとも誰もがギャンブラーだ。陽菜はよく知っている。もちろん彩も知っている。戸吹もきっと。「いま見えるのが全部、生きて帰ってよね」彩の声も雑音に紛れた。母親譲りの集中力が陽菜にもあった。秒針は止まっている。
機械の犬ひとつと人間が四人。武装は拳銃と短機関銃で人間の並びは単縦陣だ。撃っても地位が低い一人が弾除けになり奥までは届かない。反面、十分に近づくまでは向こうの弾もない。どうせ有効射程が短いから一気に飛び込んでくる。まず危険なのは犬だ。最も身軽に動けて恐怖心を持たず、何より最もいい位置にいる。位置は往々にして本人以上の価値がある。田舎を歩いてもシンデレラストーリーが始まらないのと同じく、位置の力は何よりも大きい。犬の一挙手一投足が陽菜の判断を左右する。
待てど海路の日和なし。犬から黙らせる。銃は左手でいい。犬の視界に飛び込み、反応して動くから、少し前へフルオートで放った。ダットサイトの赤い点が示した位置、奥の資材に穴を増やすが犬は三発目に飛び込んだ。秒針が動いた。自爆モードはすでに見ているから次に来るであろう軌道へ先回りして撃つ。いかに機械の性能があっても空中では泳げない。チューブ越しに見える赤点に犬が落ち、空中で二発三発と踊りを始めた。残りわずかな寿命もアクチュエータが壊れて動けず、炎と煙で移動の妨げになる障害物が増えた。
ところで、アルミでも角度が悪ければ跳弾しあらぬ方向へ飛んでいく。どこかで窓が割れた。いずれ菓子折りを用意しなければ。秒針が動いた。
まだ残るがマガジンを入れ直した。残弾は60と数発、いちいち数えていない。前半が終わった気がしたら後半用に切り替える。残りはスペアだ。
短機関銃の弾幕が襲った。持ち替えて再び右手だけを出した瞬間だ。向こうにも情報網と頭が回る奴がある。ほとんどの弾は大きな音で怖がらせるだけだが、数撃ちゃ当たると言うので、二発が脅し以上の意味を持った。ダットサイトが割れた。陽菜の右手が折れた。落とした銃を大急ぎで左で拾う。まだ四人も残っている。「陽菜!」彩の声と共に赤い影がぼやけた。ドローンが定位置を離れて体当たりを仕掛けたのだ。観測の役目を投げ出すわけにいかないので時間稼ぎ止まりだがその数秒でできることがある。
中指をやられていた。手首ごとおかしな方向に曲がり、どうにか地面に押し付けて戻したが、関節部から液体が染み出す。秒針が動いた。油圧サスペンションだった油だ。陽菜の右手は親指、人差し指、残りの指に分かれている。接続を整えて動きを確認すると、親指は動く、人差し指も軋むが動く。残りの指は重力に従い落ちるだけになった。秒針が動いた。中指が歪んだ分だけ途中で引っかかって止まる。
一応は本物の手が銃撃を受けたよりはマシな状態とはいえ、思い知っている状態である点を忘れてはならない。違うのだ。失意への回帰は。未知への適応とは。
人間の発明品は障害者を個性的な健常者に戻してくれる。眼鏡により視覚障害者だった者が眼鏡っ子になり、補聴器や人工内耳により聴覚障害者だった者は自転車が苦手な人になった。不完全だったり一時的だったりもするが部分的には困りごとを解決している。その逆で、今の陽菜は義肢を失って片腕がない障害者に戻った。何をするにも頑張ってようやくだ。
眼鏡がずれたのを直すには左右のバランスが重要だ。口に入った髪を取るには左にあるなら左手で、右にあるなら普通は右手で探すが、左手でどうにか取った。どちらも腕一本ではバランスを取るために精密な動きが必要になる。手荷物を拾い直す。手がもうひとつあれば簡単なのに。待てど暮らせど手は生えず、義肢はこの場では直せない。
車の向こうからは野太い驚き声と銃声が聞こえた。「あと五秒だけ!」彩のドローンが曲芸飛行で時間を荒稼ぎしている。弾を使ってくれれば隙ができるかもしれない。振り回すだけで疲労で弱るかもしれない。しかし得られるチャンスに対して失うかもしれないリスクがあまりに大きい。目を失えば数で圧倒され陽菜の人生が終わる。右手がない惨めな状態で。時間稼ぎのおかげで何ができたか。ひとつは覚悟だ。あと五秒もいらない。
「舐めるなァ!」
陽菜は全身を晒した。四人の男たちはバラバラの方向を向いていたが、優先度はドローンより銃だから、一斉に陽菜へ集まった。まずは目が、次いで手と銃だが。遅い遅い遅い。彼らが目を集める前から陽菜は目と手と銃と的の全てを一直線に並べていた。銃が力になるのは撃ってからであり、撃つまでは銀玉鉄砲との区別がつかない。さあ、早撃ち対決だ。
右手の指をL字に伸ばし、フォアグリップのさらに先、銃口付近の高温ガスから手を守る鍔がある。残骸の手はその先を掴み、銃身と指を平行に並べた。レシーバーと手首が照門、人差し指が照星、簡易的なアイアンサイトだ。支点は肩、力点は先端、てこの原理で方向転換が軽くなる。
フルオート射撃で薙ぎ払う。前で体が跳ねれば、あるいは後ろから変な音が聞こえれば、怯んで姿勢が崩れさらに的らしさが増す。彼らに恨みはないが彼らのボスが集めた曰くがいけなかった。ケチな盗人でも彼らにとっては大事なボスらしく陽菜へ一矢報いんと構えている。陽菜もわかっているから胴体より右腕に近く、銃を持つ筋肉を主に狙っている。どんな信念にもマニピュレーターが必要だ。
最後まで食らいつこうと構えた男もいたが、ドローンが飛び出して眼鏡を弾いた。人の意識は本能的に遠くより近く、止まるより動くものへ向く。遺伝子の淘汰が盛んな時期には銃を想定していなかった。生存率を高める遺伝子こそが敗因になり、銃弾は陽菜の背後の扉を汚した。
最後の一人が倒れた。弾も尽きた。ただひとり立っていた陽菜も車体の陰に座り込んだ。普段の癖で右手で髪を払うつもりが熱い金属で頬を焼いた。溶けたニトリルゴムの手袋が髪に絡んだ。「くそっ」何が起こるとも知れないのでマガジンをスペアに交換したいが片手では足りない。銃の設計が左右対称でも今の右手ではマガジンを半回転して細かい位置に差し込むのは難事だった。「もう大丈夫だよ」見かねて彩が言うが、陽菜には聞こえてるんだかいないんだか、とにかく準備を整えてからだ。どうにかこうにかマガジンを入れ直し左手の人差し指でボルトリリースレバーを下げた。再び撃てる準備が整った。残り三十発。
「陽菜、もう撃たないよ」「うるさいな、わからないだろ」「わかる。あたしが空から見てる」赤い影が鮮明に戻った。今度は倒れている位置と姿勢がわかるように。そして建物の中で誰がどこにいるかまで。二人は無事で、一人と向き合っている。「落ち着いて、深呼吸」彩があやすように語り、周囲も静寂を保つから、ようやく陽菜も落ち着いてきた。
落ち着いたら急に、荒げた口ぶりが情けなくなった。八つ当たりだ。しかも超法規的な行いもあった。《《五階》》を笠に着て。戸吹へのお説教が記憶に新しいうちに見せていい振る舞いとはとても言えない。
「悪かった」「赦すよ。あたしにも《《それ》》はわかる」手が再びなくなる恐怖は名状しがたいものがある。初めて失うよりずっと。「新しい右手は明日には渡せるよ」「遅すぎる。私は戸吹ちゃんにハンバーグを作る約束をしたんだ聞いてただろ。明日にできるなら今日にもできる」「わかったよ。ダッシュで持ってく」「恩に着る」
気が抜けたので車を確認した。あちこちが凹んでいるが走るに支障はなさそうだ。走る様子を見られては気になるが、どうせ返すときは自宅じゃない。それより問題は運転手だ。左手だけで運転するほど勇気はないし、槙田はオートマチック限定だ。頑丈な車だから戸吹に任せても死にはしないはずだが、重量車との正面衝突だけは話が変わる。「彩、やっぱり帰りに間に合せられないか?」「陽菜の頼みでも流石に無理。あたしでも30分はかかるよ。しかも昼だし」あまり目立つと都市伝説の陰に隠れられなくなる。ターボババアは夜だけだ。「せめてロリータ仮面って呼んでよ」これは失礼した。
「やばたんの運転で事故らないように祈るしかないね。あたしにも限界はあるからね」陽菜はがっかり半分で、残り半分は不思議な高揚があった。アドレナリンで頭がおかしくなっているのかもしれない。戸吹になら委ねるのも悪くない。「彩、もうひとつ頼みたいんだが、だいぶ昔に一度だけ言ってたあれを」「いいよ、教えてあげる。はなまるハンバーグでしょ」
陽菜の仕事はまだ残っている。今夜はこれ、明日はあれ、明後日はシカゴ。今は助手席で束の間の休息を取った。




