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2076年5月12日火曜日、13時56分、高田馬場、タバコ臭いビル1階。本拠地へのカチコミだっ

 六階建の雑居ビルに配下のサービス業群と堅気のゲームスペース。霧島刃《きりしま・じん》のビルは少し離れて高田馬場にある。学習院と早稲田の学生グループが朝から晩まで賑やかにうろつき、彼らに応えるように雑多な飲食店街が並んでいる。多国籍の雑踏はどんな姿だろうと比較対象がないため誰もが個人として歩けいている。霧島の看板は日本語として怪しく、かつ面白くもないラインを狙っている。単にマーケティングが下手な店に見える。定期的に貼り替えて入れ替わったように見せて、客を避けて、書類上の売上げを供給している。


「どうした眼鏡小僧、情報かよ?」霧島はカレーの湯気の先を不機嫌に睨んだ。眼鏡小僧はノートパソコンひとつを頼りにビル全体の売上からセキュリティまで管理している。彼は霧島の目にも慣れっこで、プレッシャーなんか最初からなかったかのように急ぎの話を始めた。「耳からの情報です。ここへ襲撃しようという三人組がいるとか」「算数を忘れたのか?」「こちらの六人が集るには、届いたばかりのお荷物が汚れるかと」目線の先には霧島が楽しみにしているプラモデルの箱がひとつ。箱まで残すタイプであり、手袋なしの他人には決して触らせない。


 霧島はカレーを飲み物として平らげた。「動くぞ。今すぐにだ。すべて手配しろ」「トラック、行き先、運送屋ですね」「馬鹿、運送屋はお前ら全員だ。荷物はそっちのロッカーの下に入る分だけ持ちだしていい。他は燃やしておけ」「弾き物もありますが」「埋めろ。後で掘り出しに来る。早くしろ!」空になったスチロール容器を投げつけた。眼鏡小僧の服にカレー色の線が増えた。


 ロッカーの下はすでに洗浄前の金とわずかな契約書が詰まっている。六人どころか三人分の手荷物を入れただけでいっぱいいっぱいだ。眼鏡小僧自身はともかく、上にいる連中の不満がまた増える。宥める飴が必要だ。もちろん担当は眼鏡小僧だ。


 もうひとつの拠点とすして確保している倉庫は電子ロックなのでノートパソコンだけで開けられる。眼鏡小僧の荷物はこれだけでいい。銃は誰の私物でもなく霧島のコレクションを借りる形になっている。


 物を燃やした煙は換気扇を通って遥か上空へ飛んでいく。あまり大きな炎では始末も厄介なのでストーブに少しずつ追加する。ほとんどは電子管理なので数が少ない。消える日がいつ来てもいい備えがある。


 上からの荷物が届いた。玄庭会のトラックも着いた。霧島のロッカーをいくつも運びこむ。六人がかりでトラックを満タンにしたら出発だ。銃を埋めて離れる機会は度々あり、一度として見つかったことはない。


 彼らが乱暴な霧島についていきたい理由なんかない。ただ、他に行ける先がないだけだ。


 少し後に。


 運転席に槙田、助手席に戸吹、後部席にハルとドローンと道具類。どこからか情報が漏れていた三人組が池袋から高田馬場へ向かう。徒歩で三〇分程度の距離を車なら三分、というのは信号や注意を無視した話で、実際は安全運転と信号待ちによりもっとかかる。


 アポ無しで敵陣へ乗り込むのだからドローンで目立ってはいけない。当たり前の走りが懐かしく思える。決戦の前には不思議な郷愁があるものだ。こんな現実感の欠如は決してVRだけの話ではない。見えている物体への認識がが変わればいつでも起こる。友人宅の冷蔵庫は自分の冷蔵庫とは異なるし、自分の家でさえ土足で歩き回れば別世界のように感じられる。現実感とは普段のルールに慣れた結果であり、異なるルールで動けば非現実的に感じる。ちょうど堅気から見た裏社会が非現実的なのと同じく。


 ハルがやけにワクワクしている。何があるかと訊ねたら、霧島が溜め込んだであろうお宝だ。そういえばハルが協力的な理由は金になるからだった。二十万を求めたCMAF16に対し平然と百万を出すほどの金の匂いがどこにあるかと考えたら、なるほど火事場泥棒はわかりやすい。どうせ相手は警察への助けを求められないからやりたい放題だ。


 これが当初の予想通りかまでは戸吹には見えない。出会って間もない頃にハルが教えてくれた。まず結論を出し、本当の結果が見えた頃に最初から分かっていたような振る舞いをする。自分の王道を持ち、その王道に持ち込む手段を用意して単純なパターンを成り立たせる。今回の王道とは金、王道に持ち込む手段とは換金ルートだ。何を換金するかは手に入れてから決め直せる。


「なあハル、ひとつ気になった話があるんだけど」戸吹が言い淀む理由は十六女《いろつき》警視正どのの存在だ。表立って言えない話を役職持ちの前でなんて。「言っていいよ。どうせ聞いてる。ヘイCMAF16、今日の戸吹ちゃんのパンツの色は?」「は?」いつも通りスマホが勝手に喋りだした。「はるるんの問いは鋭い観点です! お答えしましょうずばり! 黄緑色でちょっと破れ気味の万乗パンツです! かわいいですね」これには戸吹も顔を赤くして怒りだした。「ふざけるな自称警視正、覗きだぞそれは。しかも生成AIみたいな口ぶりで」通話はすでに切れている。言うだけ言って返事も聞かずに。ハルは知っているが、今の声は本当に生成AIであり本人は休憩中だ。トランスフォーマーを長く扱っているCMAF16だからこその本人を情報源とした自作品をプライベートのデータセンターに持っている。


 仕事には誠実だがプライベートが人格破綻者とも言っていた。戸吹はもう怒るのも馬鹿らしくなって本題へ向かう。「じゃあこれまでも、あたら屋の仕入れはハルが?」「いんやまさか。あれは本当にオーナーの謎ルートがメインで、私のはたまに拾ったやつだけ」こんな話をして摘発しないあたり、十六女警視正どのが本当に仕事に誠実なのかは怪しいが、戸吹よりも付き合いが長いハルが言うなら信用せざるを得ない。


「そういえば戸吹ちゃんがスマホを使ってる所って最近になって初めて見たかも」ハルの何気ない発見は現代の習慣に繋がっている。名前こそ電話だが目を使う文字によるやりとりが増えた。SNSをはじめ連絡アプリはメッセージ機能が中心で、声は特別なときだけだ。例外的に声でしかやり取りをしないのが十六女自称警視正どのだ。「人前では使わない。せっかく人と会うのに画面なんか見てたら不愉快にさせる」「ごもっとも。にしても随分な言い草、あたら屋に来る前にあったんだ。施設で?」


 戸吹が十二から十六まで世話になった施設では年長者にスマホを支給していた。情報へのアクセスは基本的人権に関わると語る口で安い端末に安い回線のちぐはぐさが鼻につくが熱心な子供なら障害をどうにか回避する技術を身につける。教育的側面は確かにあった。戸吹自身も骨身に染みている。熱心すぎるのも考えものだ。部屋の隅に閉じこもる奴らが日増しに増えていった。スマホで目を塞いで、イヤホンで耳を塞いで、見たいものだけを見続けている。課外学習ではバスどころか徒歩の移動でさえ動画かゲーム画面に夢中で、話しかけても早く画面に戻りたい一心が透けた受け答えに終始する。行き先が博物館だったとさえ覚えていなかった。彼らにとっては、みんながバスに乗るらしいから着いていく程度の認識だ。


 いわゆるデジタル引きこもりだ。スマホが手枷となり、目隠しとなり、内心さえ捧げている。受け取るべき新情報を避けてすでに知っている興味だけを見る。興味関心データを元に気になるであろう内容を優先的に表示し、まんまと読み、流し込まれる情報に身を委ねて、事実であってほしい主張を信じ、見たくない出来事を無視している。1863年奴隷解放宣言も1948年世界人権宣言も真っ青な奴隷そのものだ。資本家の元へ金や実績を運び込む役目が彼らのすべてであり、彼らにとって外の世界はすでに現実ではなくなっている。画面の指示に従うと快楽物質を得られる電子ドラッグの中毒者だ。自覚がないだけアナログ引きこもりや化学ドラッグ中毒者よりたちが悪い。売人もいないから誰にも救い出せない。自分で這い出るしかない。


 デジタル技術は現実への侵食も進んでいる。現実での、彼らにとってはアナログワールド上での、行動を記録して送信したらより強力な電子ドラッグを得られる。彼らは仮想敵な友人と繋がっている。実在性さえ定かでないが実在すると思い込んで脳を騙して友人が多いかのように振る舞う。


 ずっと戸吹は彼らに薄気味悪さを感じていた。人間の姿をしていながら異質な思考と文化を持つ。歴史を学べば異教徒への迫害と同じ仕組みだった。勝つのは数が多い側であり、奴隷は資本家の意思によって動く道具なので、電子ドラッグを求めてデジタル引きこもりは増え続ける。戸吹は奴隷に殺される側だ。彼らに気づかれてはならない。彼らと同類だと思われてもいけない。


 戸吹は外が好きだ。初めて外を知った日の高鳴りを忘れるはずがない。現状の狭い壁の外には広大な未知のエリアがある。欲しいものは、ときめきは、いつでも外にあっに。玉石混交の広い世界に誰の意思もなく落ちていた物だけが戸吹を癒してくれる。空想に包まれた牢獄より自由な身がいい。自由があれば豊かさを作れる。


 戸吹は壁を破壊する。捻くれた逆恨みも、自称善良な民の味方も、どいつもこいつも戸吹を束縛せんとする。次の壁の番人は霧島だ。恨みはないが彼と戸吹のカルマが噛み合った。言い訳はしない。戸吹は戸吹自身の我を通すために霧島の命を使う。これからもそうする。欲しいものは買う。いらないものは捨てる。対価は霧島に払わせる。


 立体駐車場に駐めた。徒歩でわずか一分だ。忘れ物を確認する。ハルはトランクケースを持った。見てくれは営業マンと荷物持ちと色仕掛け要因だ。


 大きめの雑居ビルに無名なサービス業がいくつも集まっている。口コミ系サイトの評判は鳴かず飛ばずで、SNSでの話題が少なく、悪評がぼったくりを示唆している。二階にだけテーブルゲーム系の有名チェーン店があるので傍目にはオタクがよく入るビルに見える。外見で判断するなら客層が一応は重なっている。誰も入らない建物でさえなければ都会では目立たない。


 つまりはマネーロンダリング用途の店だ。非合法な金をそのまま使えば税務調査で足がつくから、不特定多数からの集金の形で収入として計上した金で活動していることにする。品を動かしても足がつくので無形サービスで、客はもちろん書類上にのみ存在する。


 二階からの家賃収入もある。時たま売上げに貢献して、レアカードを別の店へ運んだり闇市に流しても洗浄の足しになる。長く役立ってもらうには餌やりも重要だ。堅気の存在そのものが抑止力として大きな屁をこけなくする。騒ぎになれば最悪でも道連れだ。警察や司法は堅気だけが使える核ミサイルだ。ペンは剣よりも強しと言うように、ペンがあれば核ミサイルを発射できる。ヤクザはペンを持たないので堅気から借りたペンを使う。


 槙田のアンフィビアンは元より音が小さい。戸吹も今日はサプレッサーをつけてきた。すかしっ屁なら二階の客たちには届かない。彼らは立ち塞がるプラチナドラゴンをどう攻略するかで頭がいっぱいだ。


 扉を前にして戸吹は、建物の様子を怪しく思った。ひっそりしている。コンクリート造りの建物が暗く静かなのは当たり前だが、けれども、なんだか、建築のせいばかりではなく、建物全体が、やけに寂しい。ついついメロスごっこを始めるほどに。午後の二時を回り、どの店も営業時間は午前からで、もちろん定休日でもない。


 中の様子を探りたいが、待ち伏せされたら勝ち目はない。しかし手元には安全策があるじゃあないか。ドローンは撃たれても死なない。あいにく窓は閉じているが扉からで十分だ。戸吹は電話で十六女《いろつき》警視正どのを呼んだ。静かなマスターキーで鍵を破壊して少しの隙間からドローンを放り込んだ。「やばたんは人使いが荒いなあ」雑談を交えても機械の体は正直に様子を窺いに行った。


「んーん、ふむふむ、ふむむのむ」「静かに探せないのか、自称千里眼は」と口では言うが結果はすでに見えた。マスターキーを使った上でドローンが飛び込んだのだから大騒ぎになるべきだ。「あたしが黙ってたら生きてるかわかんなくなるでしょ」「向こうが黙ってる」「ぽいけど待ってよもう少し」「何のために?」「念のために」


 ドローンが見落とすはずはない。報道の映像もナゴルノ=カラバフの砲兵の談も、ドローンの目には遠くまで見通す精緻さがあると示している。近距離では回転して視野角を補える。「もういいか?」「まあだだよ」「真面目な話だ」後ろではハルが通行人への目を配り、槙田は側面から回り込む道を見張っている。十六女警視正どののおおよそ真面目とは思えない喋りに文句を言えるのは戸吹だけだ。「あまり勿体ぶるなら「わかったわかった、もういいよ。中に人はいないし罠も盗聴器もない。電子機器は何も動いてない。完全オフラインのデジタルデトックスをあたしが保証する」保証しすぎるのも考えものだ。


 自信の源は見ればすぐにわかる。扉を開けて、三人で突入した。


 部屋には何もなかった。机は空っぽで、椅子は五本足の痕跡だけを残して消えていた。時計や電源タップのようないくらでも変えが効く品が無造作に転がっている。物があるかもしれない場所を求めてベッドの下を覗いたが、誰もいないし、何もなかった。


 遅かった。偶然にしても計画が漏れたにしても、銃弾はこの場にいない者に届かない。槙田も同じ考えのようで情けない顔に逆戻りしていた。ついさっき今村と話したときとはまるで別人だ。逃げられました、では済まない。


 一方でお宝もあった。ドローンがここ掘れワンワンと示した位置にハルが触れると隠し金庫が現れた。ダイヤルを回して出てきた拳銃と弾を大喜びでトランクケースに詰め込んでいく。「おっと戸吹ちゃん、心配しないでよ。ちゃんと洗うから線条痕を見るまでここで拾ったとはわかんないよ」曰くの正体が見えてしまった。出自が割れたらどこからか刺客がやってきて理由もわからずに死んでいく。死人に口なし、あたら屋の評判は決して下がらない。


「やばたん、スピーカーにしてよ。《《みんなに聞こえる》》ように」十六女警視正どのは推理ショーでも始めるかのように言い出した。「さて皆さんは今回、見事に計画を失敗してしまったわけですが、この拠点を取れただけでも収穫だから安心していいよ。武器庫が空になったとわかれば裏社会は大混乱で、ゆくゆくは尻尾を出すから、《《あたしたちは》》待ってれば事が進む。この逃げ足を見たら今村派に内通者がいると見て間違いないから話を優位で進められる。よってお二人の仕事はおしまい。デリバリーポリスも《《この件では》》送らないから安心してよね」


 ハルは満足げに頷いている。銃に加えて貴重な情報もがめつく集めているから儲けに使えるのだろう。元よりハルは部外者だったから話に一区切りがついただけだ。しかし戸吹と槙田は違う。何がデリバリーポリスだ。何があたしたちだ。追手は警察だけでなくヤクザもいる。仁義を通していない現状では話が何も終わっていない。戸吹は汚い大人には人一倍に敏感だ。言った事実と声色で安心させて、言わなかった部分が牙を剥く。自分で喋らなければならない。言われるがままの捨て駒ではいられない。


「ふざけるなよ、三馬鹿ども」演説の中心を戸吹が奪った。


「まずは槙田さんだ。今村邸での頼れる姿は虚勢だったのか。そんなはずがないな。警視正どのの間抜けな口車に乗っかったはずがないな。そうだよな? 異論がなければ話はただ進むぞ。言い返す言葉をのんびり用意するまで待ってくれる道理はお客様のときしかないよな。とにかく言い出せ。今すぐに。言い始めてから続きを考えろ。どうせ何を言うかは心に決めた価値観が出るから言い始めてからで間に合うさ。だが言い始めないなら異論なしだ。どうだ、言うことが?」戸吹は五本の指を目の前に掲げた。心臓より早く一本ずつ折った。最後の一本「俺は」を残して止めた。槙田の握り拳が赤く脈打つ音が聞こえた。一言で使いすぎた空気を再装填したら口をまっすぐに構えて正しく放った。「俺もまだ終われない。一度は口にした手前、今村との義理を投げ出すわけにはいかない。茨の道はわかる。でも行くべき時がある。一番いい茨の道を今なら選べる。俺は選ぶぞ」背広の襟を直す彼に一瞬だけ、戸吹は口角で讃えた。


 具体的な話なんかひとつもなかったが、方針を決めてさえいれば後からでも始められる。始められれば口を動かすうちに見えてくる。人間もトランスフォーマーも同じだ。直前までの流れと照らし合わせてより適した言葉を繋げて考える。次に現れる言葉を予測する精度を人間なら経験で高める。戸吹にあるのだから槙田にもあるはずだ。それが状況を変えられるとして、誰が変えるかといえば、自分しかいない。もちろん誰もが無謀と呼ぶかもしれないが決してためらってはいけない。無謀か勇気かを決めるチャンスさえまだ生まれていないのだから。


「ハルの荷物だ。百万円での仕入れがそれっぽっちなはずがないよな。半分も帰ってくるものか。なら他にも売れるものがほしいはずだな。他では得られない情報が。現地だけにある一次情報が。鞄を閉じろよ。これからもっといいものを拾いに行く。そのために手を貸してもらうぞ」ハルは満足げに頷いた。「言うようになったね。次は見せてもらおうか」


「そして十六女警視正どの。口三味線が下手すぎる。何も解決しちゃあいない。どうせ本心じゃないだろ? 投げ出そうとして反応を面白がる魂胆だ。あんたはそういう奴だ。悪趣味なものを面白がる人格破綻者、ハルの評価も今なら頷ける」「ふふ、あたしと知り合ってほんの1週間ばかりで随分な言い草だね」「濃すぎたんだよ。薄味の雑魚どもとは違ってな」「さて、見る目のあるやばたんには状況を見る目もあるのかな? お得意の銃はあたしにも黒ちゃんにも届かないんだから、言葉で乗せてくれないと」


 電話越しでも意地悪な顔を想像できるほど嫌味ったらしい。十六女警視正どのは唯一、顔も居所も伏せて遠隔操作でのみ付き合っている。いつでも、それこそ今すぐにでも、一方的に話を切り上げられる。戸吹との話は向こうのお情けだ。スマホもドローンも切れば元通り戸吹の私物だけが残る。金銭的損害さえ与えられない。「あと黒ちゃんはねえ、この建物を開放しただけで戦略上の価値があるんだって。本当に満足してるから約束は守るよ」「私は満足しない。高い金を払っただけの仕事じゃないな」「まだツケだけどね」


 いつまでも話が進まないから切り上げた。戸吹に必要なのは話ではなく変化だ。手段と目的を取り違えてはいけない。


「別に嫌なら帰ればいいさ。根性なしども。私だけでやってやる。どうせガムの味がなくなる頃には結果が出るだろうさ」


 不可能とわかってないんだからやってやる。不可能と比べてなんと贅沢な話か。難しいものは世の中にはあまりなく、単純なものが多く集まりすぎて面倒なときにカッコつけで難しいと呼んでいる。どんな結果もやらなければ結局どうにもならない。


「やる気まんまんじゃん」十六女警視正どのは電話越しだが声色は確かに前向きになった。「けどやばたん、どう調べる気? まさか総当たりじゃないよね。東京だけで1300万人も住んでいるんだから、建物もおよそ1300万戸、オフィスや倉庫なら無人警備だってある。こんなざっくり計算でも1日1万戸で4年かかるわけよ。1分で10戸を毎日17時間、賽の河原だね」「その計算は安アパートまで含んでるな? 見ろ、壁に手がかりが残ってる」色が微妙に変わる境界線を指した。タバコのヤニだ。綺麗な部分とヤニで薄汚れた部分の境目を辿る。高さと幅がわかる。床を見ればおおよその奥行きがわかる。この場には少し前まで巨大な棚があった。


 では棚が無くなったのはなぜか? 持ち出したからだ。

 どうやって? トラックだ。

 どこへ? 入れられる建物だ。

 そして建物を確保したのはいつ? 前々からだ。建てるにも借りるにも今日いきなりは不可能だ。

 では建物はどこに? それを探し始める。

 誰が? 「ドローンで上空から探す目がある。百万円も請求している自称千里眼の使い手が」「この場にいないトラックなんて無理だよ。無関係なトラックなんていくらでもある」「建物は逃げない。自称警察ならヤクザが持っていてもおかしくない候補地リストを持っているはずだ。まさか持っていないのか?」


 戸吹は完璧な作戦を語った。可能であると示せる人材もいる。「面白いね」味方につけた。ここからは強気に出られる。「あたしも大人だからね。やろうと思ったら何でもできちゃうのよ。できないのはやろうと思う部分だけ。知ってる? 正規のバスやトラックは位置をリアルタイムで公開してるって。データベースにないのに大目立ちするトラックを探すだけの簡単な話だよ、あたしにとっては」「頼れる味方がいて嬉しいよ」「だけど二人では心細くなっちゃうなー! あたしは同年代と男手がほしいし、趣味が合うなら最高。やばたんなら心当たりあるよね」


 都合よく目の前には戸吹から見て上の世代と男手がいる。他に誰もいないから目移りもしない。しかも実力の信頼もある。最高なことに相手の側が乗り気になっている。またとない人材だ。


 まずはハルのため息。「いいよ、戸吹ちゃんに協力する。ちょうど準備運動になるし。けど勘違いしないでよね、そんな奴と趣味は合わないから」「友達じゃないのか?」「かっこいい先輩だと思って近づいたら異常者だった、言葉通りで脚色とか一切なしね。戸吹ちゃんも深入りはやめときなよ、クソロリアングラ探偵には」心なしかハルの目が濁って見えた。よほどの話らしいが、仲が良さげな話ぶりとの矛盾が気になる。


「む。はるるんは失礼だなあ。あたしの秘蔵フォルダを勝手に覗き見たくせにさ」「悪かったよ。もう見ない」「ではるるんはリアルで動く役でしょ? 情報ならあたしだけで間に合うから」舌打ち三連発。「そうだよ。虫も殺せない誰かに代わって戸吹ちゃんの背中を守る役だ。そのために、背中を守る役の背中を守る役は任せるから」「おっけおっけ。てなわけでやばたん、最も危険な突入役は任せるね。前と横だけ見てればいいから」険悪さを見せておきながらだが両者ともに信用している。少なくとも仕事は。もしどこかでプライベートの付き合いを申し込まれた場合に備えて逃げる準備を整えておく。


 そして槙田のエントリーだ。何を言うかはすでに決まっていて、言い出すチャンスを待つだけの、決意ある振る舞いだった。「戸吹さん、俺を隣で守る役に使ってほしい」彼の腕前だけを見ればお世辞にも信用し難いが、態度を見せ続けた今なら、賭けるに値する。最悪でも弾除けと囮になってくる。「頼りにするよ、槙田さん」加えてもうひとつ、戸吹には男性経験がない。特に頼れる年上は。相手は妻子持ちだが、今は不貞でもないからごっこ遊び程度では誰も咎めやしない。ことを荒立てる前なら安全に頼れる。その後は頼れるのは自らの手だけだが、転ばぬ先の杖だ。世の中には万が一がある。


 戸吹自身が万死の一生を重ねてきた。父親の精巣から母胎の卵子にたどり着くまで、親なくして施設にたどり着くまで、施設から外の居場所へたどり着くまで。気づいていようといまいと、成功例だけが今この瞬間を生きている。あらゆる挑戦は一度きりだ。二度目に見える挑戦はよく見ると別物だ。


 すべての成功例を信じる。次も成功させる。


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