表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/12

2076年5月12日火曜日、10時00分、都内某所、平家。サルでもわかる格講座

 いわゆるヤクザの本拠地だ。関東統一組合の重鎮、今村義景いまむら・よしかげの私邸へ向かう。地図を見れば敷地をたっぷり使った豪邸のようでも周囲はごく一般的な住宅街だ。コンビニも接骨院も英会話教室もある。もちろんコインパーキングは遠い。下見をしづらい環境だ。ご老人が医者を待つ間に、お母さん方が子供たちの送り迎えがてらに、あちこちで井戸端会議をしている。後ろ暗い者にとって人の目は恐怖であり、何を言わずとも、言われるかもしれない想像だけで勝手に参る。


 今日の中心は槙田だ。大丈夫、彼が頼りないのは銃の扱いだけで、営業マンとしては決して悪くない。アポイントは黒部警視監が様々な伝手を辿った。もちろん正体不明だが、とりあえず大丈夫な繋がりらしい。


 慣れとは恐ろしいもので、カーナビがわりのドローンも板についてきた。拡張現実でもなく現実の存在が通るべき道を教えてくれる。コントローラが送るはずの電波を十六女いろつき警視正どのがどこからか飛ばしているそうだ。広域に届く電波が誤作動をしないのは、暗号化した信号を正しく復号できて初めて自分への電波と判断しているからだ。これが昔のラジコンなら近くにいる人同士で話をつけて別のチャンネルを選んでいた。当時はごく短距離の、大抵は走らせるためのサーキットなので間に合っていた。今のドローンはあらゆる空を飛ぶ。


 理論上は暗号を解読できればいくらでもドローンを奪えるが、易々と解読されるほど柔な暗号ではない。単純化すると、積が35になる掛け算の5ではない側の正体がわかれば暗号を解読できる。素数かける素数の掛け算は答えが1通りしかないからだ。実際はもっと巨大な1000桁ほどの素数同士で計算している。素数は思っているより数が多く、素数かどうかの判別も思っているより簡単なのだ。計算式にもひと手間が加わっているので、ラッキーパンチでの解読を含めても、解読より先に文明の寿命が尽きる。では十六女警視正はどこから秘密鍵を得たのか、あるいは初期設定の穴か。本人は「読んだだけ」と言うが、異常事態を起こしつづけておきながら信用するのは苦しい。


 苦しくても信用するしかない。戸吹は濡れ衣で、と自称しているが実際は自業自得で、首根っこを掴まれている。不思議なもので、かつては嫌っていた支配者に対して不愉快とも言い切れない。支配者は庇護者でもある。戸吹が有用な駒である限りプレイヤーは駒を大切にする。気軽に捨て駒にできるほど潤沢な駒があるでなし、人生に最終局面があるはずもなし。洗面器よりも衛生的で有用な道具も支給してくれる。ことに取り組む上で大人と共に分担するだけで斯様に心強いとはとても知らなかった。ハルとの協力とは味が違うが、具体的な違いを示す言葉が戸吹にはまだない。


 移動の時間は終わりだ。ドローンはバッテリーを交換して車体の下に隠した。誰かが近づく足をカメラで見つけるなり低空飛行で逃げられる。自分たちが戻ったら勝手に出発してくれる。さっきまで飛ばしていたバッテリーは車内で充電しておく。裸では灼熱の車内で爆発するので、まずアルミシートで窓を塞いで太陽からの赤外線を追い返す。保冷バッグに入れて、充電自体による発熱は常温保冷剤に吸わせる。保冷剤の中身は温度が20℃の水100mlなのでバッテリーの安全限界に余裕を持たせた40℃になるまで8000calの熱を吸ってくれる。時間にするとおよそ30分、4つ入れたので単純に合計して余裕たっぷりの2時間だ。氷では無いので結露の危険もない。普段はあまり見ない状態で気味が悪いが理論上は安全だ。ハルを信じて車に背を向けた。十六女警視正どのは今日この先では話せない。


 裏道はずっと彼らの領域だ。道は左右ともに長い塀だけの、見所といえば電柱の芸術的な傷くらいの道だ。誰も隠れられない長い一本道のちょうど真ん中でお目当ての門が待ち構えている。


 門の前では景色さえ家主の配下にある。左右と後ろには塀と道だけ、前に集中したら紋入りの金属製の扉、上にはわずかな屋根、あとはこれ見よがしの監視カメラだ。広角ミラーと合わせて全域を見渡す。門にはインターホンもドアノッカーもない。客人はカメラに姿を見せて門が開くまで待つ。招くか拒むかの主導権は常に家主が持つ。


 本当に入れるのか。門前払いとはちょうどこの場で起こりうる話だ。追い返された側は逃げも隠れもできない空間を惨めに歩くことになる。本当に話が通っているのか。気が変わってはいまいか。わからない状況でこそ気を確かに持て。ただの沈黙を勝手に解釈して臆病風に吹かれるようでは塵に等しい。証明が必要だ。自分は取引に値する人間であると。時間を無駄にしているのは家主であると。直立不動でただ前だけを見つめている。こちら三名は誰も、時計が見えない程度で苛立つような小物ではないぞ。鼓動を数えればおおよその時間がわかる。


 門の車輪が唸り始めた。まず目にするのはしとみ、奥を隠すのはもちろん、方向転換が何度も必要になって勢いをつけられない。招かれざる客を狙撃する部屋もある。離れにある横長の通気孔がそれだ。


 隊列の前後には二名の黒服がついた。槙田はまっすぐ前にある後頭部だけを見ている。戸吹とハルもおおよそ前を見ているが、視界が動くたびになるべく情報を得ようとしている。戸吹は右側担当、ハルは左側担当だ。最初に頭を下げた他はすべて手足だけで語った。言葉は不要だ。お互いに。選ぶべき行動は役割と立場だけですでに理解している。こちら三人は客人にして家主の話し相手、黒服二人は家主の下っ端だ。相手を一人前と認めたら言葉はいらない。表彰状に句読点がいらないのと同じく。


 離れに通された。黒服は室内担当に交代した。靴は三和土たたきに整える。ご存知の通り背中を向けてはいけない。式台しきだいにしゃがんで整える。戸吹も練習の甲斐あり正しく動けた。上がりかまちがありみのすぐ先、障子しょうじを跨ぐときに敷居しきいを踏んではいけない。家の骨格であり、歪んだら家ごと建て直す。十二畳の座敷ざしきでは新しい畳が優しく薫る。なぜ新しいかを考えるまでは。畳縁たたみべりを踏んではいけない。家紋があり、家主を踏みつけにするに等しい。とこにあるじくの標語を読んだあとは隣のふすまを見つめて待つ。座布団もなしで勝手に座ってはならない。


 わずかな足音が近づく。黒服が襖を開けて、袴姿の大男が現れた。彼が今村義景だ。目で三人をなぞり、正しく銃がある位置で一瞬だけ止めた。瞬きほどの時間で口ほどに物を言った。聞き逃しは弱さであり、弱さは非礼である。彼が上座に座り、向き合う位置に黒服が座布団を並べた。座布団を踏んではいけない。動かしたりめくってもいけない。置き場所に文句をつけたのと同じだ。「座れ」低い声で促した。中心は槙田で、左右に女性陣が並ぶ。


 さあ、こちらは所作を見せた。身の程知らずでなく、知識不足でなく、運動不足でもない。心技体を揃えた一人前だ。


 今村は姿だけでこれまで戸吹が見てきたすべての強面を偽物にした。あたら屋に訪れた客には戸吹を威圧する男なんかいくらでもいた。初めは内心おどおどして、時には凄まれ交渉に負けて、徐々に向き合い方を学んできた。彼らに対して恐れたら負ける。茶目っ気を出しても負ける。地の利はこちらにあるのだから平常心で必要な話に徹するのみとわかれば主張を通せるまで成長した。


 しかし今村は違う。生命体としての存在が濃い。戦う前から勝ち目が見えない。いくつもの諺を身をもって理解した。夏虫疑氷。弱い犬ほどよく吠える。兵先勝而後求戰敗兵先戰而後求勝。人間の感覚器は馬鹿にならないもので、言語が生まれるほど典型的でも明示的でもない存在に対して、なんとなく印象を感じ取る。感受性に欠けた者にとってのエモさが、言語に疎い者にとってのヤバさが、目の前に立つなんとなくの格上感だ。行動を見れば今村はただその場にいるだけで、あらゆる情報は戸吹が勝手に読み取っているものだが、読み取れない遺伝子は持ち前の死にやすさで緩やかに淘汰され続けた。


 際立つ特異は耳の膨らみだ。耳に衝撃を受ける機会が多かったと示している。ただの不格好な耳では決してない。柔道耳だ。義務教育レベルの柔道では始まりもしない修練に身を投じた証拠であり、暴力を民主化する前には独占する側だった男と示している。巷では銃があれば勝てるとかの軟弱な考えが転がっているが、実際はとどめの一撃より前の段階がある。相手の力量を読み取るにも力量が要る。戦いは常に二手三手先を読むと言うのは、言葉通りの未来ではなく、過去にあたる三手前二手前の予習から逆説的に未来を読んでいる。勝者と敗者はさらに前段階の四手五手を読みきれるかで決まる。銃を撃つなら一つ前に狙いがあり、二つ前に構え、三つ前に抜き、四つ前にチャンス発見、五つ前に位置取り、六つ前に間合いがある。今は彼の間合いだ。間合いで負けた者は位置取りを始められず、チャンスを見つけられず、抜けず、構えられず、狙えず、撃てない。


 もし不意打ちごっこを始めたらサルでもわかる格講座が始まる。授業料は代表者《《一命》》だ。わからなかったらサル以下、講座のおかげでわかったらサルと同等、そして事前にわかっていればサルより賢いと自慢できる。戸吹をはじめ三人は、なななんと! 揃ってサルより賢いので格をしっかり弁えている。


「槙田は男か?」二重の意味を持つ。三人のうち誰が槙田であるか、槙田は一人前であるか。「男です」槙田の答えは端的で、覚悟を滲ませて、有り体に言えばあたら屋での情けなさが別人にも思えた。今村は目を細めた。予選突破であり、同時に耐久試験の始まりでもある。「大層な口だ。俺が何者かを知った上で来たようだな」「もちろんです」中身があるようでその実は何もない。会話は現在の前に過去を見せ合う。前情報との向き合い方を見せている。過去を持つ者だけが現在に辿り着ける。


「左右の二人は何者だね」「彼女らは剣です 共に事にあたります」「なぜ女の子を剣にする? 男がついていながら家もないのか」戸吹とハルを巻き込んで器を試している。隣の二人についても調べがあり、気づかないなら信頼関係がなく、守れなければ男ではない。「家を構えたいので、ご挨拶をさせてください」槙田はへりくだり頭をさらに下げた。


 今村は黙って槙田を見据えた。目は銃口ほどに物を言う。弱い側は強い側には見る目があると信じて自らを曝け出す。強い側は弱い側が及第点かを見定める。人は必ず準備か不安のちょうど片方を持っている。自信を示すに言葉はいらない。黙って男を見せればよい。


 男を見せる、における男とは、生物学のセックスでも社会学のジェンダーでもなく、修辞学の換喩である。まだ弱い子孫やこれから産む子宮を守るには、時に危険とわかっていて、あるいは死ぬとわかってさえ立ち向かう覚悟が必要になる。不安も恐怖も無数にあると知りながらなお飛び込んで成功を掴む覚悟が。男が失敗しても血統は絶えないが、不安や恐怖の源が子孫や子宮に迫れば絶える。盾になれない男の遺伝子は女と子供を失い絶滅した。今を生きている遺伝子は盾になれるか、あるいは原人からやり直した初代利己主義者かのどちらかだ。


 逆に女は、他人を助けようと自分を犠牲にした者こそが貴重な子宮を無駄遣いして死に続けた。まず自分が生きなければ話にもならない。積極的に攻撃しはじめる女は繋いでおけば安全な工場として使えたので死ぬほどではない。子宮は利己的であるほど生き残りやすく、精巣は利他的であるほど生き残りやすい。絶滅した遺伝子の終端は自分だけの人生を謳歌して満足に包まれていた。


 今村の瞬きさえ心待ちにしているが槙田はおくびにも出さない。ただの目で音を上げるようでは命あるうちに逃げ帰った方が身のためだ。負けない、投げ出さない、逃げ出さない、信じ抜く。何世代も前の老人たちが最も大事と語ったものは時の検証に耐えている。強さは一過性では足りない。世代を超えてこそ価値がある。価値を模倣できるものにも価値がある。


 人間は社会を築く。社会は誰もが自分以外の誰かを助けて動く。人助けと社会は男の得意分野だ。助けられないとか社会性がないとかの事情があれば男だった存在は純粋な人間に成り下がる。より赤ちゃんに近く、より単細胞生物に近い、未発達な出来損ないに。自分を知り、相手を知り、共に向き合えるとわかれば役割を分担する。頭は頭の仕事を、手は手の仕事を。重要なのは、自分が頭なのか手なのかを知り、役目に徹することだ。社会の中で動けば必ず社会のどこかに副作用が起こる。手が頭にぶつかるようでは危なっかしくて適わない。


 永遠にも思える沈黙がついに破られた。「話してみろ。要件を全て」信用を勝ち取った。物事の道理を理解した一人前であると示した。


 しかし待て。喜ぶには早い。話をいよいよ始められるだけで、まだ始まってもいない。


「霧島刃の討伐を俺に任せていただきたい」玄庭会の霧島といえば今村もよく知っている。武力と喧嘩っ早さから取引の経路を歪める張本人だ。奴が消えたら居所の監視に割いていた人員が浮き、動く時間も余らせられる。「組合では力不足とでも言うつもりか?」「滅相も。利にならないから生かしているだけでしょう」「であっても、知りもしない者に任せれば結果どうなるかね」もちろん悪評だ。関東統一組合でさえ手出しできなかった霧島刃を下した、などと組合を踏み台にした喧伝で箔をつけられる。組合にとっては屈辱そのものだ。


「わかっています 承知の上で任せていただきたい」槙田は確かな口ぶりで要求する。交渉は共同作業だ。要求する側がべらべらと理由を並べ立てれば、受ける今村は断るだけでバランスを取れる。理由を語るには、理由を問わずにはいられない状況へ持ち込む。話す価値があると示した今なら。「あるんだろうな。任せるべき理由が」ごくわずかに今村の顔が近づいた。当事者から見れば大きな前進だ。


「俺は今村紗織さんにお世話に《《なって》》いました」多くを語らずとも意味を理解する。相手の力量を把握し信用する。今村が目を閉じる直前の見開いた一瞬を槙田は捉えた。再び沈黙が支配した。今村の手には血管が浮いていた。


 今村親子について予習を十六女いろつき警視正から聞いていた。父親は死んだものとして、女手ひとつで育てられるようフロント企業に勤めさせた。楽で融通が効く割に給与が高い。通帳を見ても振込み履歴からは父親を辿れない。死んだと思っていれば会いたいとも言わない。すべては娘にヤクザの道へ近寄りもさせないためだ。母親の働き方と給与の不釣り合いに気づく頃には分別がついている。


 しかし父親の計画は他ならぬ紗織により狂った。気づいてか気づかずか、高校の一年ですでに進路を立教大学に決めて、アルバイトも池袋でしていた。いつかどこかで些細な情報に繋がるかもしれない。近くにいた探偵とは関係があるのかないのか、少なくとも顔馴染みではあるので無関係と断じられない。今村は大いに悩んだ末に現場から身を引いた。ちらとでも見れば情が湧く。池袋での勢力争いは長い時をかけて徐々に玄庭会に傾いた。後知恵だが今村自身が現場にいれば結果は違っていたであろう。


「そうか」今村は低く呟いた。「霧島がどう関わる」「彼女は彼らから俺を逃がそうとしてくれました」再びの沈黙。生唾を飲む音まで聞こえる静寂だ。今村の額にも汗が浮かんでいる。鬼の目にも涙の亜種だ。槙田の説明はわずかに脚色があるが今村にとっては同じだ。玄庭会が今村紗織を殺した。枝葉末節がどうであろうと重要なものは中心にある。


「では霧島を討つとどうなる。仇討ちなら勝手にやればいい。取引のつもりか」「せめて借りた胸を返します。上山剛という男を」事情が絡まった果てではあっても戸吹が手にかけた。過去を清算しても当然なかったことになどならないが、知らんぷりよりマシな現在になる。もちろん不言実行では清算したことにもできない。槙田は宣誓した。今村は難題さに合意した。見せつけて初めてみそぎになる。有言実行は両者を正直にさせる。未知を未知のままで向き合い、誰の後出しも許さない。見誤れば信用を失うリスクがあり、槙田は確かに賭けた。リスクなくしてリターンはない。


「あれを失うのは惜しいが、霧島と刺し違えたと考えれば、というつもりか」


 沈黙をもって肯定した。槙田は言うべきすべてを言った。見せるべきすべてを見せた。


 隣の戸吹はすでに沈黙の時間も楽しめるようになってきた。必要を満たしたのだから堂々と待てばよい。今村がしているのは威圧ではなく沈黙だ。沈黙は思い込みを暴く。求めるものが屏風の中から飛び出す。威圧、疑念、落胆、感心。無限の可能性との向き合い方を弁えているか。ありもしない不安に駆られるようでは現実とはとても向き合えない。あえて何もしないべき状況が世にはあり、今が動くべきか止まるべきかを見極める。ひとつに絞るのは先に口を開いた者だ。今回は今村が。


「がっかりさせてくれるな」「もちろんです この手で必ず」


 信用に値する対等な人間であると示した。次は正しかったと示す責任ができた。難題だが手順は見えている。


「槙田泰晴だったな。名を覚えよう。敵には回したくないものだ」好印象だ。男は未来ある男を好む。対等ゆえの上下関係を理解しあった相手を。「言伝ことづてを頼もう。この三人がいらなくなったらうちへ寄越せ、と」「確かに預かりました」多くは語らず、残る二人にも続く。


「戸吹といったな。上山剛はどうだった、腕に不足は」急に振られて嘘はない。正直に。「あの場にいた私たち二人が もし片方だけであれば 結果は違っていたでしょう」解釈の幅を広く取る。戸吹だけならもっと楽に勝っていた。槙田だけなら負けていた。あるいは、タイマンなら上山剛の勝ちだが多勢に無勢だった。どう解釈してもいいが口先で追及すれば野暮になる。自分を下げれば格下だ。相手を下げれば失礼だ。嘘つきは信用ならない。媚びれば気色悪い。評価軸のひとつを念頭に、では足りない。すべてを念頭に置く。


 戸吹は嗅覚が鋭いと自負していたが今村の考えは窺い知れない。普段なら音や匂いの移ろいで多かれ少なかれ考えがわかっていた。丸出しにしていた連中だっただけだ。


「ハルといったな。情報屋のハル、噂は聞いている。行き詰まればいつでも関東統一組合の今村義景の名を出していい。組合は人材派遣業だ。いい関係を築けるだろう」「奥の手にします。心強いですね」ハルの評判がいいと戸吹も誇らしい。奥の手とは使わず見せないから奥の手だ。きっとハルにはいくつもの奥の手がある。


 話はまとまった。警察に続いて関東統一組合による手出しもなくなった。玄庭会との対立は深まるが彼らとて半端に動けば余計なこじれを招く。状況は好転には届かずとも悪くない程度までは持ち込んだ。あとは霧島を足がかりにする。まさにこの後すぐ、腹ごしらえをしたら霧島のアジトへ向かう。状況が動きはじめればさらに動きやすくなっていく。


 今村が立ち上がり、若手が座布団を片付けた。話は終わりだ。屋敷から駐車場への送迎までつけてくれた。門が大きく開いて高馬力エンジンが唸る。黒塗りの下には銃弾を防ぐ鉄の装甲があり、車体はもちろん燃料も高額になるが、狙撃から守ってくれる。人間関係の中心は相応に疎む者も多く、命を狙うチャンスをちらとでも見せれば遥か遠くから鉛玉が飛んでくる。


 ハルの車に乗りかえてからは妙に静かに感じた。緊張の場は過ぎた。


 大きな後ろ盾を得た気分だが決して甘んじてはいけない。あらゆる後ろ盾は同時に首輪でもある。


 これは悪魔との契約だ。ひとつでも背けば魂ごと捧げる意思と見做される。契約はいつでも利口な立ち回りを求めている。別の悪魔と契約してはならないのが基本だが、黒部警視監と今村義景の間には基本を覆す材料があった。もう一柱くらいの悪魔と契約したいものだ。そうしたら誰が魂をいただくかで悪魔同士の睨み合いに持ち込める。楯突く技術なんかよりよほど利口だ。誰もが契約を履行させたいのだから悪魔同士でぶつかり合う。乗りこなすには条件がある。悪魔に身を委ねてはならない。常に自分の足だけで立たねばならない。


 しばらく進んだところで窓からドローンを受け取った。帰りはすでに見た道を戻るだけなので案内はいらない。電話が鳴り、十六女警視正どのがお気楽に話しかけてくる。「どうよまきぽん、交渉は」「無事ですよ。おかげさまで」「見込み通りだね。やばたんは?」「別に」「あれれ、まさかびびっちゃった?」戸吹自身が一番わかっている。まだ強くなんかない。まるで足りない。振り返ると潮時だ。七歳で閉じた家を出た。十一歳でやや施設へ移った。十六歳であたら屋に来た。そして今は二十歳だ。あたら屋での暮らしも板についてきた。慣れてきた頃に新しい世界へ飛び出すのが道理だ。ライフステージはおよそ四年で変わる。


 槙田が察して話を横取りした。「そうだ十六女さん、言伝を頼まれました。三人がいらなくなったらうちによこせ、と。もちろん行く気ありませんがね」「はいよ。誠実ポイント《《可算》》。もし行ってもなんとかするから大丈夫だよ」逃がさない宣告だ。戸吹も同じく考えたことがある。駒は大切に使い倒す。駒が他人に取られたら状況が傾く。取られるくらいなら自爆させたほうがいい。スイスでお馴染みの焦土作戦だ。ロシアでは自爆させる資材さえ切らして武装がウクライナに渡った報告もある。


 離れられるのは唯一、駒からプレイヤーになった時だ。親元を巣立つ時と同じく。駒からプレイヤーになるたびにひとつ上位のステージの駒になる。ならば戸吹は何度でもプレイヤーになってやる。いつまでも駒ではいられない。幸いにもすでにゲーム盤が見えている。大人に《《成る》》には現状の最奥へ到達する。しかし策もなく対等になってしまえば次は対等に負けるだけだ。今村義景も十六女警視正どのも、まともにはとても勝てない。化物たちに少なくとも敵対させない策が必要だ。


 すぐに調うはずもなく、今は見つける目を養う。耳を澄ませて手がかりを探す。ネットストーカーが虫の鳴き声で地域を特定した話を知っている。些細な音は手がかりになる。ちょうど最近の話では、踏切が三〇分も鳴り続けたら東武東上線沿線の可能性が高いとか。


 戸吹の腹で虫が鳴いた。神妙な顔つきに反したお間抜けな音で車内はクスクス笑いに包まれた。「では戸吹ちゃん早かった。どうぞ、リクエストを」ハルの気遣からかいも経験上、真面目で受け止めるのが一番いい。「馬カレーだ」「縁起がいいね。カレーと聞いたら久しぶりに鹿を食べたくなってきた」池袋の名物ジビエカレー店で。位置関係を見れば寄ってから行けるが、駐車場はやや遠く、しかも高い。行くならあたら屋の裏に停められるか確認してからだ。


 槙田はひと仕事を終えたので休ませる、と女性陣は考えたが槙田は逆で、ひと仕事を終えたからこそ電話役を担った。これから大変になる二人の体力を温存する。さして変わらない気もしたが甘えられるうちに甘えておく。戸吹は考えごとの時間だ。カレーの美味しい食べ方、そしてカレーを食べることによるその効果を。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ