2076年5月10日日曜日、11時47分、都内某所、五階。鉄面皮のクソババアが本当にクソだった。
インチキドローンの案内で秘密の建物へ向かう。
中流サラリーマンが知らない世界が上と下と裏にある。下流アルバイターが知らない世界が上とさらに上にある。マナーはハルが教えたが空気感は経験でしか学べない。槙田は営業の経験こそあるが、相手はせいぜい社長で、取引相手の資本による権力は業界レベルが関の山だ。これから会うブラックとやらには社会を動かす力があると聞いた手前、同じ感性で動けば火傷どころでは済まない。
なぜかハルがおめかしをしている。お守り以外では無関係なはずのにと尋ねたら「戸吹ちゃんは主役、ヤスくんも主役、私だけが脇役だからね。主役の足手纏いとか、ないでしょ」「留守番でもいいそうだが」「私がよくないのよ。顔を売るチャンスでしょ、どう見ても。金になる話を見逃したら長時間労働とその回復だけで手一杯になっちゃうっての」「ハルはすでに面識があるんじゃ?」「だけじゃ足りない。名前と顔と腕まで一致させなきゃ。一本しかないから覚えやすさ二倍ってね!」誰にも真似できないサイボーグ・ジョークを披露して、笑いの渦が始まりもせずに出発の準備が整った。
パンツスーツと肩掛け鞄、中身はMacbook Proと短機関銃だ。ハルの銃はMP7、コピー品でも高額な上、専用弾しか使えない都合もあり誰も使いたがらない。いくら小型かつ申し分ない性能でも金額と手間の前では沈黙する。そんな逸品をハルが持つ理由はもちろんオーナーが持つ謎の経路だ。需要がないので身内に回してよく、弾数の限界もハルならさほど問題ない。危険な場所へは行かないが、たまに超危険な話に首を突っ込むため、拳銃なんかよりよほどいい。ハルの語り口はすなわち、超危険な話だと言っている。
「重くないのか? それ」「ヤスくんの腕でも持ち上げてみたらわかるぞー。ちょうど腕一本分の重さだから」戸吹は持ち上げてみた。肘を持って肩の高さまで。「俺は鞄を直接のほうがわかりやすいと思いますがね。戸吹さん、無理はしないで」「してない」駐車場まで歩きながらできることは少ない。店の車は昨日のうちにオーナーが拾って帰っていた。今日はハルの車に乗りハルの運転で行く。オートマチック式だ。槙田はもちろん安心した。いざとなれば自分が運転を代われる。安心をおくびにも出していないつもりでも戸吹は拗ねた。拗ねをおくびにも出していないつもりでもハルがからかう種になった。
時刻は十時半。準備ができたら助手席の窓からドローンを飛ばした。運転席から見える程度に遠く、無関係を装い先導する。
空飛ぶマスコットとの戯れもすっかり板についた。異常さも度を越したら当たり前に感じてくる。オウムが言葉を話したとき、あるいは竹が一晩で床から天井まで貫いたとき、人はそれを異常とは呼ばない。ドローンも同じく、そういう生き物に感じてきた。CMAF16こと十六女警視正の正体が人間ではなくドローンとさえ思える。ハルに聞いても姿を見たのはずっと昔の話ばかりで、以後は画面越しやドローン越しだった。本人は死んでいてAI生成の音声と言われても疑えない。ハルは反論をふたつ挙げた。第一に、あいつ以外には不可能な芸当をやってのけること。第二に、あいつの母親とはたまに会うこと。
奇妙な縦割り相関図ができた。CMAF16とハルが旧知で、ハルと戸吹が旧知で、戸吹と槙田が新たな知人。最も遠い槙田は、戸吹が信じるハルが信じるCMAF16を信じる。
十六女警視正どのは自分がついているから大丈夫と気楽に言ってくれる。まず十六女警視正どのの感性の底が知れない問題もある。スピーカーがついていないのに四つのローターの駆動ノイズを重ねて喋り出す曲芸を見せた。音は空気の振動であり、逆相の音による相殺やら干渉やらを合わせて言葉を作り出す。疲れるらしいので半ばデモンストレーションであり、普通は電話で喋るが、十六女警視正どのは曲芸をお楽しみのご様子だ。疲労の概念を持っているかどうかも怪しい。
未知は恐ろしい。本能は未知を恐れる。恐れなかった遺伝子が確率で死に続ける様子を見てきた。しかし人間には本能を抑える理性もある。未知を既知に変えて覚えておける。誰もが何も知らない赤ちゃんから始まり、知らなかったものを知り、赤ちゃんから遠ざかっていく。人類の祖先が類人猿であるように個人の祖先は赤ちゃんだ。赤ちゃんになかった勇気で未知へ立ち向かう。
「戸吹ちゃん、電話を」「相手はあれでいいな」新しい連絡先に発信した。「はいよ。トラブルでも?」スピーカーにしてハルが話す。「どこへ行く? 霞ヶ関じゃないのか」「引越したのよ。北池袋に」「池袋本町か?」「何その細かさ。上池袋だけど」「なら直進は無理、池袋の南を回らなきゃ」「尾行なら見つけられるから安心しなよ」「ヤクザはどうでもいいのよ。陸の孤島には入り方があるの」
誰もぴんと来ていない懸念をハルは語りはじめた。
現在地から池袋本町までは行けるが上池袋との間には嘆きの堀がある。日本で最低最悪の鉄道、東武東上線だ。人身事故が年平均で二十五人、単純計算で隔週だ。踏切の長さも特徴で、遮断機に捕まったら後退もできない狭さなので、車内が映画館になる。フロントガラスから電車を眺めるもよし、タブレットを出してお気に入りの映画を観るもよし。あるいは周囲にいるであろう項垂れる人々を見るのもいい。鳴り止まない踏切が人々の顔を彩る。もちろん遅刻したら商談はなくなり、すなわちお金もなくなる。絶対に引っかかってはならない。確実に間に合わせるには五分を使い大回りして池袋の南を通る。下調べが甘い者から商談を奪う貧乏神だ。踏切の長さが強行突破を呼び、強行突破が踏切の引き伸ばしに繋がる悪循環だ。池袋駅の手前には急カーブがあるので低速運行になる。鉄道は動かせないゆえに改善の見込みもない。
しかも東武東上線は車内も最悪で、あと路線図の掲示場所はドアの前の天井にある。真上を見なければならない。もちろん立ちくらみが起こる。どうせ天井に貼るなら真ん中に貼れば見やすいものを、ご丁寧にドア前だけなので、止まれば乗降の邪魔、座席からはもちろん見えない。当然ながら一般的な路線では路線図を垂直に掲げている。視力が十分なら車両の反対側からでも見える。若干の角度つきで首に優しい路線もある。しかも頑張って今の駅を探したら、東武ではなく西武線の路線図と気づくことがある。池袋駅でしか関わりがないのにだ。別のドアの真下へ向かって、今度こそ東武東上線の路線図とわかったら、まずは首を休ませてから確認する。罠はまだ続く。現在の駅が東武練馬駅近くなら、西武線の練馬駅の近くに感じるが、練馬駅は練馬区の中心部であるのに対し、東武練馬駅は板橋区にある。似た例は羽田空港に対する成田空港、青梅に対する青海だ。
「以上の理由で、上池袋へ行くなら池袋駅の南から大回りで行く必要がある。オーケー?」「おっけおっけ、はるるんが東武東上線を嫌ってるのはよーくわかったよ」十六女警視正どのが操るドローンは経路を変えて南東へ向かった。戸吹が乱暴に走った道に合流して繁華街の外周を回る。「あんたも詳しいはずでしょ」「いやあ、電車はいつも飛び越えちゃうから気づかなかったよ。ありがとね」「くそ、アクロバティックサラサラめ。誰も真似できないからな」
賑やかな車は宣言通りに踏切がない道を走った。池袋駅の南なら線路の下をくぐるトンネルがある。
十六女警視正どのが関わる都市伝説は2046年の出来事だが、なぜか大筋が一致した小説『たったひとりのレディ・メイド』が2023年にインターネット上で公開されていて、予言の書として知られている。槙田が早速カクヨムを開いて、ちょうど1話を読み終える頃に目的地に着いた。
五階建ての低層マンションだ。エントランスなんておしゃれな言葉とは無縁で、打ちっぱなしのコンクリートでできた無骨な階段があり、階段下の狭い空間を郵便ポストに回している。お目当ての部屋はこの建物の最上階にある。エレベーターがない。手すりもない。やけに段が高い。なんだかステップが微妙に狭い気がする。壁に触るなら塗装のヒビと埃に気をつける。もし倒れても壁で囲まれて外からは誰も気づかない。住んだだけで生命保険の査定が厳しくなりかねない。文句を呟いていたら、ちょうど降りてきた若者に気づいてもらえて衝突を防げた。案の定、住民をはじめ近所では姥捨て館と呼んでいるらしい。若者によると客人は必ずこの階段で文句を言う。ここで中高年になったら絶対に困るから成人したらすぐ引越したいとも。ちょうど近くには年間二十五件もの人身事故を起こす東武東上線がある。現地人ゆえに好き放題の物言いだ。彼とすれ違うには踊り場の隅で待機する間に降りる。もし彼ではなくグラマラスな女性だったら詰まっていた。
ひいこら言いながら五階に着いたら、ここまでの貧相な見た目に反して電子ロックが待っていた。カードキーなんか持っていないが、十六女警視正どのがドローンを当てろと言う。言われた通りにしてみたら気味のいい音でロックが開いた。気味の悪い話だ。中から開けたと考えれば自然だが、警視正どのがやんわりと否定した。本当に都市伝説の領域に踏み込んでいる。
2LDKの無難な家ながら、どの壁にも手すりと点字がある。よほどの老人らしいが靴は一人分しかなかった。独居か。こんな部屋に。
いよいよブラックとのご対面だ。ほとんど病室のような部屋にノートパソコンがひとつと、車椅子の老婆が待っていた。「ようこそ、《《五階》》へ」よく通る声。縮んだ左足を除いて耄碌には遠そうだ。案内に従いパイプ椅子に座った。卓から三人分の覆いを外すと湯呑みとコップとナプキンが現れた。コーヒーと紅茶と緑茶、すべてデカフェを提示するので、戸吹が最初に緑茶と答えたら、残り二人も同じく続いた。家主が動くには左手と右脚で、注ぐには右手で。最後に木皿の茶菓子を置く。
挨拶は目下が先だ。「戸吹ヤバイこと引手有菜と申します。お招きいただきありがとうございます」練習したがいざ本物を前にしたら硬くなった。「槙田泰晴、本名です。この度はお話しできて光栄です」「阿多良陽菜が今日は二人の目付役で同席させていただきます。よろしくお願いします」対照的に二名は口がよく回る。経験の差で戸吹に減点がついた。「そんなに畏まらず。のびやかにしてください。私たちは上下関係よりも結果を重んじていますから」減点がついていないように聞こえても決して間に受けてはいけない。気楽でいいと言われてなお敬うかどうかを見るものだ。「そーそー。黒ちゃんは結果以外には優しいからね」「十六女警視正を下限にしていただけたらわかりやすいですね」心理戦は絶え間なく続く。気づいていなくとも、目を背けても。
ゲストたちが一向に気を緩めないので苦笑いから挨拶を始めた。「警視監、黒部長命と申します。よろしくお願いします」名刺は白と青で落ち着きある上質な品で、裏面では色を反転させて見やすいほうで読める、戸吹は縦型も両面刷りも初めてだ。「すみません、こちらでは用意がなくて」「構いませんよ。連絡なら十六女警視正を頼りましょう」
ハルが前のめりに出た。「私はあります。戸吹ちゃんにご用事なら私からでも」「阿多良さんのお嬢さん、もちろん覚えていますよ。三〇年前の件を母君からどう聞いたにしても、私たちはあれを未だに追い続けています」戸吹が産まれる前のハルとオーナーの話だ。あたら屋より前の話は初耳だが今は目の前に集中する。「ではその足はもしかして」「ええ、情けない話ですがね。クソババアの身を案じていただけるのですね」地獄耳でハルに釘を刺した。
世間話から始める。現在の調子から直近の出来事まで、デジタルの言葉より細やかなアナログの情報を送り合う。ちょうど気になる話はあるがとても言えないから無難に。あの階段の先に車椅子の独居老人、違和感の塊だからこそ指摘してはいけない。少なくともいますぐ必要では決してない。好奇心は仕事の後、大人の世界では常識だ。
「さて、話でしたね」黒部警視監の一言は場の全てを塗り替えた。エアコンの温度が変わったようにも、空気清浄機が強くなったようにも感じる。「報告では、戸吹さんが三人を殺害した件を不問にする取引をしたいそうですが、まずは事実ですか」言葉にすると虫の良すぎる話だ。しかも警視監相手に。常識的に考えれば通るはずがないが、常識が通じない場が世の中にはある。「間違いありません」「硬くならずに。取って食ったりなどしませんよ。その気があれば十六女警視正が聞いた日のうちにできますからね」「余地があるんですか、私には」戸吹の一挙手一投足を見定める眼光を黒部警視監から感じた。「では戸吹さんあなたの、過去について聞かせてください。ご家族ご友人など、戸吹さんが消えて困る方がいては、あまり大袈裟な話をできませんからね」
経歴ではなく過去。何を尋ねているのか混乱したときは素直に答える。勘違いは正してくれるかもしれないが虚栄心を見せたら見限るしかない。三つの過去が戸吹を成り立たせている。父親殺し、施設での育ち、あたら屋。今、戸吹のすべてはあたら屋にある。オーナーも店長もハルも槙田も、あたら屋で出会った人たちだ。
「戸吹さんの話しぶりは聞いていて心地がよいですね。どこで学びましたか? 施設というより、学校にも行けなかったのでは?」「施設ではタブレットでAIを使えたので、指導とは別に調べるなどしていました。あたら屋でもパソコンで」「独学ですね。見立て以上に才ある方のようです。晴れ舞台を任せたくなってきました」「独学に入るんですか、これが」「生成AIのトランスフォーマーは私が戸吹さんほどの歳の頃に現れました。想像できますか、今日この日までAIを使えずに育ったとしたら、今この場にたどり着けるかどうか」
もしも。施設でAIがなかったら、誰が何を教えてくれたか。周囲には問題児がいた。職員は彼らの後始末でてんやわんやの中、うすのろの連中にも指導して、余ったわずかな時間で何を教えられるか。「できません」「ええ、おそらくは不可能です。指導者を失った者は指導者なしで生きるしかなく、多くは失敗し、わずかな生き残りも劣等感に苛まれ、あるいは同レベルの仲間を探せば年下ばかりになって、ばつの悪い日々を過ごしたでしょう。ですが」黒部警視監は引き出しから眼鏡を出した。「技術とは解決策です。かつての視力障害者が今では眼鏡が必要な人になったように。ちょうど脚を失った私も車椅子で補えるように。十六女警視正も阿多良さんのお嬢さんも、完全には届かないながらも克服しました。戸吹さんも同様に、技術で補えば対等になれます」
黒部警視監の言葉は心地よい。この人についていけばうまくいくような気がする。故に恐ろしくなる。自分以外が安心させてくれるなど。「黒部さんあなたは、なぜ私に肯定的な評価をするのですか。私は自分でもわかります。社会的には贔屓目にも底辺としか言い得ないと。もしかして、黒部さんから見れば誰でも「卑屈ですね。ですが現状を見ないのとも違うようです。戸吹さんは見たものの評価が正確だからこそ、見るべき部分を間違えてしまったとき、正確に間違えています」甘言だ。肯定が嬉しかろうと、嬉しくさせる人物からは企てを感じる。「信じられませんか。では微分をご存知でしょうか」「数学の、高校の範疇、以降は恥ずかしながら」「十分です。二次関数ならどうでしょう」「山なりのグラフですね」「グラフのどこかひとつを現在としましょう。次にどれだけ伸びるかが違えば価値も違ってきます。少しの右肩上がりか、大幅な右肩上がりか、あるいは右肩下がりかもしれません。傾きを調べるのが微分です。SNSのトレンドが有名ですね。普段より増えた話題はさらに増える見込みがあります。現在や過去を見るばかりでは物足りなく感じるのはわかりますが、私が求めるのは未来です。なぜなら、私に関わる戸吹さんは未来にいるのですから」
仮に口八丁でこうまで言えるかと考えると、黒部警視監の言葉が本気に思えてきた。「さらには変化の源が独学と聞けば上り調子が長続きすると考えるにも充分です。畢竟、自分の舵を自分で取れるのは稀有な才であり、うだつの上がらなさから離脱を図るに必要な熱情も持ち合わせています」「私が黒部警視監のお眼鏡に適うと、いや」ひと呼吸してよりよい答えを返した。「お眼鏡に適う仕事をします。どうかよろしくお願いします」「重畳。ご安心ください、どんな技能でも役目があればついてきます」
黒部警視監はパソコンの資料で仕事の概要を説明した。指示はふたつある。第一に、槙田は今村義景に会う。第二に、戸吹は霧島刃を排除する。急に現れた幾つもの名前がを黒部警視監がじっくり教えてくれる。「一連の話を調べたところ、二つの指定暴力団の、さらに二つずつの派閥が関わっていました。関東統一組合の大谷派と今村派、そして玄庭会の本家と霧島刃です。まず槙田さんと接触したのが玄庭会の本家の者で、要求は研究者の殺害でしたが、元より槙田さんには期待していなかったようです。実行は玄庭会が自ら行い、槙田さんは罪を被るだけが役目でした」
写真がいくつも並ぶ。話を終えた男から順に閉じていく。「その研究者の所属が、戸吹さんのきっかけになった彼と同じ、関東統一組合の大谷派です。まんまと玄庭会の目論見通りに槙田さんを追っていましたね」すでに死んだ筋物と、追ってきたしょうもない二人。出典があたら屋のカメラなのは引っかかるが出せる口がない。「そして玄庭会の本家ですが、彼らも霧島刃に手を焼いています。父親自身さえ。本家の預かり知らぬところで霧島刃かその手下が今村のお嬢さんを殺してしまいました。本家は関東統一組合に大義を与えないよう、露呈を防ぎたがっています。なので玄庭会の狙いは事実を知る槙田さんです。そこで霧島刃の排除を手土産に手を引くよう取引を持ちかけましょう。実行者は霧島刃かその手下ですので、反論はありません」戸吹と槙田は目を見合わせてどちらが言うかを決めた。今日の中心となる戸吹が。「持ちかけて、玄庭会が飲むのですか?」「飲ませます。私が戸吹さんのバックに着くと言えば迂闊な手出しはできません」
裏事情の追及は控えた。タバコ以上に寿命を縮める。「ですが霧島刃は厄介な男で、誰からも邪魔ですが、排除するにはリスクが高すぎるために野放しというのが現状です。ライフルやらロボット犬やらを持っているとされ、裏社会では貧乏くじの押し付け合いで、もちろん私たちも手出ししたくないものです」「待ってください。黒部さんあなたは、私たちにダメ元で鉄砲玉になれ、と言っている」「戸吹さんの考えは完全に正しいものです。お望みに対して私が提示する条件はこれです」「元より死刑が待つ身なら失敗して死んでも惜しくない、と」「素晴らしい洞察ですね。やはり成果に期待できます」戸吹は下を向いて首を振りため息、さらには舌打ちと貧乏ゆすりも加えて悪態フルコースを見せた。「初めはハルを言い過ぎだと思っていましたが、これは完全にクソババアだ」「私は悪ですが、目的の副産物ですよ」生殺与奪を握られてはどんな無茶振りも飲むしかない。理屈は通じない。
「いかに洞察が得意な戸吹さんといえど一人では難しいでしょうが、阿多良さんのお嬢さんが手伝っていただけると聞いては、当然こちらを貸しましょう」眼鏡をハルに渡した。フレームがやけに太いし大きさも男物の、赤い伊達眼鏡を。「かけてみればわかりますよ。どうぞ、今すぐにでも」ハルは促されるままに眼鏡をかけた。大きいので少し揺れるが静かになら動ける。顔を上げたら「ワ!」柄でもなく大声が出た。「驚きましたか。何が見えたか、説明いただけると」「人影が見えます、黒部警視監の後ろに?」「すばらしい。正しく扱えましたね。ベランダにいる人物を壁越しに視認できました。では何を見るかは、十六女警視正、任せましたよ」電話からの声に合わせて人影が手を振った、とハルは伝えた。では外にいるのが?「いいえ、彼女は月宮巳甘という名で、どなたともいつまでも関わりない方です」
話がまとまったのでメモにまとめた。
まずは過去の話を。
今村紗織を殺して槙田を脅しつけたのが、玄庭会の霧島刃。
関東統一組合に近しい研究者を殺したのが、玄庭会の霧島刃。
目論見通りに槙田を追ってきたのが、関東統一組合の大谷派、上山剛。
上山の後で現れた二人が、玄庭会の本家からの刺客。
関東統一組合は、今村紗織の死を知らない。
次に現在の話を。
関東統一組合は人を動かす情報網を得意とする。
玄庭会は物を動かす物流網を得意とする。
霧島刃は、玄庭会にとって、獅子身中の虫である。
霧島刃は、関東統一組合にとって、危険な要塞である。
霧島刃は、玄庭会の物流網を利用し、武装や機械の犬を所有している。
玄庭会は、霧島刃を排除できるが、その隙に関東統一組合に喰われる。
関東統一組合は、霧島刃を排除できるが、その隙に玄庭会に喰われる。
そして未来の話だ。
槙田は、今村義景に会い、今村紗織の仇となる霧島刃を片付けると伝える。
戸吹は、霧島刃を排除する。
ハルは、戸吹が片付けるまで霧島刃への援軍を足止めする。
十六女警視正は、戸吹とハルを支援する。
関東統一組合の大谷派は、霧島刃の排除により上山剛の死を手打ちにする。
関東統一組合の今村派は、戸吹の行動を大谷派に伝えて、横槍を防ぐ。
玄庭会の本家は、労せずして霧島刃を始末する。
玄庭会の霧島刃は、死亡する。
黒部警視監は、すべての結果を取りまとめて新たな駒を手に入れる。
ババアはどう転んでも得をする。十六女警視正は少なくとも命の危険はない。最大のリスクは戸吹だけに降りかかる。「すべては権力者様の掌の上か」「権力者とは無形の巨人の脳髄を担当しているだけの、代替可能な誰かです。次に担うのは戸吹さんかもしれませんよ」
計画には互いの戦力がすでに書かれている。こちらは戸吹、槙田、ハル、そしてドローン。対するは霧島刃、私兵六名、機械犬三匹。数的不利だが戦場の分断と地の利で対処する。霧島刃は干渉を嫌うので私兵たちとは別行動が多く、戸吹と槙田が行けば局所的な優位になり、駆けつけるであろう私兵はハルが抑える。足止めだけで、しかもドローンの目もあるので充分だと計画書には書いてある。ハルの顔にはそう書いていない。ひとつしくじれば全員が死ぬ。ババアに関する事前情報通り、仕事では無茶振りをしてくれる。
「さて、排除までは厄介ですが、成功した後は簡単です。霧島刃はクルド人コミュニティを雇っていましたので、雇い主が死んだとわかれば最後に持てるだけ持っていくでしょう」「随分センシティブな話を」「ほう。ではカッターナイフ事件をご存知ですか。スマホ問題はどうでしょう。クルド問題でも構いませんよ」「クルド問題なら知ってる」「やはり知っていませんね。元を辿れば問題を起こしているのはベラルーシ人で、利用しやすい武器として祖国を持たないクルド人を使った、というわ流れです。民主的に意見を言うにもクルド人には祖国がないので小集団が限界でどこへ行っても鼻つまみ者、第二のイスラエルを建てるには後ろ盾がなく、誰も第二のパレスチナになりたくないので、彼らの安寧は夢のまた夢ですね。厳しい状況の中で誰もが生きるために動いています。ちょうど戸吹さんも生きるために大変なことをしますね」
小難しい話を長々と、ババアらしいクソババアさだ。言い返すのも気分が乗らないので切り上げた。
「最後にひとつ確認したい。なぜ私を選んだ?」「本来なら信用ある者にしか任せませんがね。裏口から来たら通すしかないでしょう。誇りなさい、裏口へ辿り着いた術を」「ではなぜ辿り着けた? 十六女警視正どのが口添えしたい気分になった以外、私は何をするでもなく流されただけだ」「次は私に流されてください。ちょうど掌に空席があります」とんだ呪いの椅子に座らされた。警視監の座も同じかもしれないが、同情するにはババアすぎる。「それに、ただ流されわけでもないでしょう。あなたは悪い流れから自力で這い出ていい流れへ辿り着きました。離岸流から向岸流のように、逆らって勝てないなら乗り換えればいい、体で知っているはずです。私たちのような者は乗り換えて生きるんですよ」
言いたいことは山ほどあるが、言ってためになることは何もない。戸吹は右手を出した。黒部警視監は快く受け取った。交渉は成立した。書面のない思い込みの共有だが戸吹は裏切れず、ババアは老い先が短いので契約書では縛れない。何を言っても言われてもババアが上にいる。「今この瞬間から警察も戸吹さんに味方します。軽い雑用なら頼んでも構いませんよ」戸吹と槙田の次は決まった。
「もうひとつ、クソババアの情報網ですが」黒部警視監からハル向けの話だ。「ペタルが死にました。なのでライオンがあなたに会いたがっています」「どうもご丁寧に。こっちも結構忙しいので、来年には会いに行きますよ」「そう言っていただけると思って、来月の飛行機とホテルを予約してあります。彼女は今ならシカゴです」
帰り道はまず階段を慎重に降りる。登山と同じ、登りは体力、下りは技術だ。「黒部警視監はこんな家で大丈夫なのか」戸吹の疑問は半ば答えでもあった。だめに決まっている。エレベーターがない時点でだめ。「座敷牢だね。月宮ってやつもあれの見張りみたい」ハルは答えられる。槙田は順番と距離の都合で届かない。「ハルの考え通りなのか? この吹き回しは」「厄介な曰くを落とすには厄介な問題、手も足も出ず終わるよりはいいでしょ」最後の一段は気持ちよく飛び降りた。コンクリートからアスファルトへ、わずかに柔らかくなるだけで足への負担が違う。生き返った気分だ。車までの短い時間がたまらなく惜しい。
帰りのドライバーは槙田が名乗った。女性陣はやけに大変な仕事が続くからと言って。そういう槙田もヤクザのトップに会いにいく。今のうちにプレッシャーに慣れておきたいとも。「いや、私が運転しよう。警察も味方するなら安心だな」
二人の意見が一致した。戸吹にはハンドルを持たせない。




