2076年5月8日金曜日、14時09分、西池袋、家電量販店への道。走れ戸吹。
戸吹は寝坊した。目が覚めたのは昼過ぎの頃である。きょう未明、戸吹は悪い夢を見た。戸吹は跳ね起き、南無三、寝過ごしたか、いや、まだまだ大丈夫。五臓が疲れているときは、ふいとあんな夢を見るものだ。戸吹、おまえの恥ではない。戸吹には父も母も無い。亭主も無い。竹馬の友も無い。
槙田とハルは激怒しなかった。起きて早々に一人でメロスごっこをする戸吹を笑って迎えた。マグカップに一杯の水と歯ブラシを出し、歯磨きをせずに眠った点だけを指摘した。戸吹は自分でもこれほど酒に弱いとは思わなかった。この場の誰もが同じ考えで、もう飲ませるのはよそうと決めた。他方で、一人でないと眠れないと思っていた戸吹が、同じ部屋に二人もいて、しかも控えめながら喋っている中でも眠れていた事実も忘れてはならない。酒のおかげなのか、槙田とハルだからなのか、判然としなくとも経験は裏切らない。寝首を晒した上で生きて目覚めた。願ったりだ。
「戸吹さん、調子次第では明日でもいいようですが」槙田の気遣いだが戸吹には無用だった。「冗談、動けるさ。例の宿題が届いたって?」ハルへ目を向けるが、肝心のハルは台所でおいしそうな音を立てている。チーンと気持ちのいい音と共にトーストが跳ね出た。「おかわりはあるけどバターだけね。食べたら話にしましょう」「聞きながらでは?」「構わないけど、おいしく食べられる?」「もちろん、ハルの料理は好きだ」
戸吹は食卓で口を動かし、槙田は資料を開き、ハルはパソコンを見て口を動かす。最も重要なのはもちろんラピュタパンだ。奥まで熱が通ってサクサクのパンにバターと目玉焼きを乗せて牛乳で流し込む。卵は栄養の王様で、パンは炭水化物と蛋白質が多く、バターと牛乳がリシンを補うのでアミノ酸スコアもいい。ビタミンC以外ならなんでも揃う。
「つまり今日はドローンを買ってくるだけだな?」戸吹の要約は正しいが、過程で待ち構える難題に楽観的すぎる。「忘れてない? 警察とヤクザが目を光らせてるのを」「警察はCMAF16の名前を出したらいいと聞いたが」「時間を取られるっての。ヤクザに話は通らないんだから、目立つ上に動けない間にお尻を狙われちゃう。しかも私は他に用事があるから二人で行ってね」帰る頃には済ませて鍵を開けて待っている。なお、朝のうちに槙田が一人で行く提案をしたが、単独行動は危険すぎるので却下されていた。
食事を済ませたら出発の準備だ。戸吹はかわいくアーバンゴシックの服、槙田は借り物の没個性的な服で、どちらも銃を隠し持つ。スマホの充電よし。お金はハルの財布を借りた。必要な現金とスペアの現金を小さくまとめてリール付きクリップで服に留めた。車は使わない。戻る場所に制約がつくとよくない。店は徒歩で片道二十分ほどで、駐車場を探す時間を加味したら大差ない。
踊り場から見える大通りは駅の真上への橋へ続いている。豊島区を西から出入りする車にとって椎名町は交通の要である。池袋はちょうど反対側だ。建物を出たらすぐに、あたかも間近に見える大きなサンシャインを目印にする。すでに西に傾きかけた陽を受けてきらきらに光っている。家電量販店はあれのもう少し手前にある。
迷いもしない一本の大通りがわかりやすいが、ひとつ外れて住宅地を選んだ。狭い道なら車が来たら全て見つけられるし生身専用の抜け道もある。歩行者は車には勝てない。体当たりはもちろん、連れ込まれたら逃げ場がない。声は届かず、逃げも隠れも離れもできず、単純な力比べになる。車は勝利条件のひとつだ。敵も味方も戦争も経済戦争もで、車に勝つには車が必要だ。あらゆる面で小細工を許さない。対抗するには大細工の道選びだ。
槙田は気づいた。戸吹の顔が昨日より緩い。状況も装備も弱ったのに。「戸吹さん、今日はいいことでも?」戸吹は槙田の言葉を碌に聞いていなかった。そりゃあ戸吹から見た槙田は偶然にも近くにいただけの男だが、にしても遠すぎる。興味がない相手にはとことん興味がないのだ。相手や状況に合わせてペルソナを使い分けると言うから店でこの態度なら筋が通る。しかし一蓮托生になった今、槙田と向き合わないのは潜在的でもリスクになる。もちろん戸吹自身もわかっている。ただ急にできた仲間とどう向き合うかを決めあぐねているのだ。
「楽しみがある」できる限りのご機嫌な様子で話した。まだ無愛想さの味付けを変えた程度でも大きな一歩だ。「今日ははじめてのおつかいだ。私にとってはね」子供じみた感性の理由といえば。「苦労してんだな、戸吹さんは」「まあね。おかげでピンチを乗り越える自信がある」槙田は昨夜の話を知らない。大筋さえ。手がかりは細かな所作と話し方だけだ。しかし槙田は具体的に聞かないでおくデリカシーを持っている。聞いても知識欲を身勝手に満たして相手を疲れさせるだけだとわかっている。
生きる世界が違うだけだ。なぜ違うかといえば育った環境が違うからだ。槙田から筋者への態度は情けないことこの上なかった。戸吹の世界をきっと一生かけても真似できない。逆に戸吹も槙田の世界を真似できる気がしない。
歩いていくうちに戸吹は街の様子を怪しく思わなかった。ひっそりしていない。疑り深い戸吹もぜんぜん不安にならない。池袋駅西口はいつも通りに騒々しく、西口北の地下通路から東へ抜けた。メロスごっこをする余裕がもちろんある。人を隠すなら人の中、雑踏を足早に進んでお目当ての店へ来た。
巨大ビルの地下にある。天体望遠鏡コーナーの奥、ドローン売り場を示す吊り看板へ向かうと、明らかにドローンではなく三脚らしき品ばかりが並ぶので、周囲のを見回して、棚の裏側にようやく見つけた。大小さまざまなドローンが狭い空間に並んでいる。お手頃価格から高級品まで選り取り見取りだ。主な性能の違いは飛行時間、カメラ性能、限界距離、そして重量による法的区分にある。まずはコーナーの全貌を頭にいれた。この中から適したものを買いに、はるばる都心にやってきたのだ。
「簡単すぎる。これだな」戸吹が手にしたのは最も高性能の最新モデルだ。飛行時間はたっぷり60分、限界距離ははるか5000mだ。相応にカメラ性能も重量もあり、もちろん賃金労働者の槙田では財布どころか口座まで青ざめる価格をしている。「待て待て待て戸吹さんよ。どうせ経費だと思ってないか」「いけないか?」「向こうがはじめに提示した二十万が備品代を含むなら想定してるドローンはもっと安いはずだろ。二十万で黒字になるような」「今後も使えるし、私の貯金より安いが」「いや、俺の年棒より高いけど、お小遣いでももらってるのか」「買うものがなかったから貯まる一方でね」
性能が高くて損はないが、必要を上回る性能は金額への負担になる。単純な話だが、二十万の仕事のために二十万を使ったら差し引きなしで労力の分が赤字になる。百万でも同じく、CMAF16が想定した利益率がどうであれ、50%以下とは槙田は思えないからと、熱心に説得する。ドローン選びでコネの強さを台無しにするのは長期的な利益を失い、短期的な利益もなんら増えない。性能は相手の事情を加味して選ぶ。
「俺だって安物が信用ならないのはわかるさ。いい具合にバランスを取れる機体を見つけよう」「槙田さんはどう思う? カメラ性能は度外視してもカバーできそうだから、見るべきは飛行時間だ」「そこは俺も異論ない。限界距離はどうだろうな」「私やハルが操縦するなら、まず視認できる必要もあるか」「見える範囲といえば、街中で飛ばすと航空法とかあった、よな?」「たしか区分の境目が一〇〇グラムとか、おっと、書いてある」売り場に来るのは事前に調べる人ばかりではないから。図解付きポスターによると、重要施設や住宅地では無条件で飛行禁止、視界が届かない位置は禁止、ID登録と飛ばす前に届出が必須。その他、ものを落としてはいけないとかの安全向け情報が並ぶ。
高性能では依頼料が吹き飛ぶが、低性能では仕事ができない。最高級機でさえ60分が限界だから、向こうの想定は短時間で仕事をし尽くすと考えて違いない。かといって安いモデルではたったの三分が限界だ。ウルトラマンならまだしもドローンが三分で何をする気か。順当に考えるなら偵察だが、調べ尽くすに三分なんて。飛行時間を比べると、そこそこの高級機で四〇分、そこそこ安めで二〇分。このあたりが相場らしい。裏技として、フレームを外したカメラに載せ替えて配線を改造し電流をバイパスしたら、軽量化とカタログ以上の性能を両取りできるが、戸吹も槙田もそんな使い方は聞かされていない。中身を剥き出しにするので雨どころが自分で飛ぶ衝撃への強さまで落ちる。
「申出はどうやって? 戸吹さんは知ってる?」「さあ。ハルかCMAF16に任せられそうだが」あまり頼りすぎて余計な問題が起きてはかなわない。一〇〇グラム以下から選ぶと決めた。候補は六角形モデルとH字モデルまで絞り込んだ。ローターを抱えるように枠で守る六角形か、飛行時間がそれより五分だけ長い二〇分のH字か。金額は同程度、ならばおおむね総合的な性能も同程度だ。
「私はH字がいい」理由はごく単純、障害への強さで得られる利は五分の短さを相殺するには足りない。勝手に妨害を受けたのと同じだ。「同感だ。こいつは強そうだが多分、保管が楽なほうの頑丈さだろ」異論がなければ議論もない。店員を呼びつけて購入の手続きを始めた。ID登録はハルの名前と住所を使った。支払いはいつもニコニコ現金払いで、レシートをご丁寧に保管する。
本体をひとつ、予備を含めてバッテリーをふたつ、充電器をひとつ。途中で補給を前提にするが合計で四〇分の行動ができて戦略の幅になる。販売員が売上げのために、リチウムポリマー電池を安全に保管する耐火性の袋や箱を薦めてくるが、適切に扱えば問題ない。保険も断る。起こりもしない問題を示して不安を煽る阿漕な商売だ。空虚な言葉を間に受けた者が金を払う。安心を買ったと嘯き虚栄心を正当化する。問題は起こすまで起きないし、起こってから片付けられる。重要なのは、起こっているが許容範囲のうちに見つけることだ。
この店は入口がエスカレーターで、会計の後で自然に進むと出口が階段になる。反対側まで行くのも手間なので階段を登った。地下一階なんてあたら屋より浅く、ハルの家より低い。戸吹の脚は強い。槙田ももちろん。交差点の雑踏を掻きわけ掻きわけ、西側への地下通路からは人もまばらになり歩きやすくなった。地上に出た直後だけナンパ待ちの女とナンパ見習いの男、そしてメイドの客引きと見張り番が固まっているので、なるべく寂れたほうへ向かって安全に行く。
西口広場には交番がある。あまり見えないよう直進したが、寂れた道から出た直後はまだ人に隠れられない。戸吹には警官が横目で追い始めた様子がわかった。不運にも目に留まったか。槙田との雑談を増やして視界の隅で不自然なく捉えた。
紺色の制服と白の自転車がついてくる。サツが来た。走れば怪しいので早歩きで、今度は人が多い方に。自転車を人の波で無効化する。あわよくば見失わせたいが、曲がり道は人が少ない裏道行きだけだ。地下通路へ飛び込めば長い道を歩く時間で全ての出口を押さえられる。西口は交番とは別に警察署もすぐ近くにある。徒歩でさえ五分程度で着く。
しかしよく考えろ。今を凌いで何になる? 交差点を渡ればその先は人がまばらになる一方で、自転車を妨げるものはなにもない。逃げは詰んでいる。今すぐに捕まるか数分後に捕まるかの違いだけだ。
なのでここは正々堂々と受けて立つ。普通に考えたら負けるが、こちらには普通ではないCMAF16がついている。あえて人が少ない通りに入った。あわよくば見失う期待を、本命はCMAF16が話に現れやすい状況を作る。副次的に、人目について余計な評判が立つのを避ける。槙田と小声で共有したら、買い物袋を抱えてのそのそ裏道へ入っていった。
「そこの二人、止まりなさい」たちまち二人は田中巡査長に職質された。調べられて戸吹の懐中からは拳銃が出てきたので、応援が集まり騒ぎになってしまった。さりげなく乳房を見えそうにちらつかせるが、相手は真面目な公務員で、仕事中には惑わない。「この拳銃で何をするつもりであったか。言え!」田中巡査長は静かに、けれども威厳をもって問い詰めた。「それについては電話を頼む」戸吹がスマホへ伸ばす手を制して詰問を続けた。口頭でCMAF16を知っているかと訊ねても田中巡査長は眉間の皺をますます深くするばかりで、周囲を囲む警官たちも右手を腰につけている。
通じると思った手が通じなくて戸吹はいよいよ困ってしまった。この場で終わるくらいならと考えても、銃を見られてからではとても早撃ちなんてできない。よしんば一人のホクロを増やしたとして、次を撃つまでに元気な蜂の巣がふたつできておしまいだ。道連れにする相手にも格がある。戸吹の身は安くない。槙田も免許証で説得せんとするが、結局のところ、何者かではなくなぜ銃を持っているかが争点である今、敵対の意思を揺らがせるにはとても足りなかった。
「非正規流通の武器はこの街に似つかわしくない。平和のためだ」田中巡査長は生真面目な理念を掲げる。戸吹は嘲笑した。「何が平和だ。無辜の民を黙らせて見せかけの安定を維持することがか」誰も助けてくれない日々を、取り合わず追い払うだけの顔を、忘れたことなどない。戸吹にとって警察はいつも敵だった。正義とは囲んで殴る蹴るをする側を示す言葉だ。数が多ければ誰もが正義になる。結果論だが裏道に来たのは失策だった。交差点なら外を味方につけて正義の座を勝ち取れたかもしれないものを。「黙れ、下賤の者」田中巡査長は最初からこちらを悪人と決めつけている。推定無罪の原則はどこ吹く風だ。
睨み合いが続く。何を言っても聞く耳はなく、手を出して勝ち目はない。黙って対応する側に回る。今の戸吹の限界だ。対する田中巡査長も喋れば余計なつけ入る隙になるから、粛々と進められる内容だけを薦める。紙に記録を書き込む。戸吹が乱心したら狙いが田中巡査長に向くように、そうなれば周囲の全員で取り押さえられる。
戸吹の後ろでは槙田との話を終えた様子で戻り、すると視線が戸吹と同じ方向へ向いた。警棒持ちが近づき、戸吹も槙田も反応した隙に、背後から忍び寄る警官が本命だ。二人同時に羽交締めにした。もう銃にも届かない。状況がわかったら一斉に殺到した。指の一本さえ動かない。万事休すか。この場の命運は決まった、と誰もが思ったが、着信音が戸吹のポケットから鳴った。ハルの家と同じ、CMAF16からの着信では操作もなく通話が始まる。
「もしもーし! こちらは警視正の十六女彩、あなたは田中巡査長、確認いいですね? して本題ですが、急な勝手で申し訳ない! 特殊な事情でその二人を見逃してください。詳しい話は2日ほど待たせますが必ず話しに行きます。主題は以上! あたしの正当性はもう数秒後に無線で確認ください!」一方的に喋り終えた。田中巡査長はますます訝り顔で、顔の左右を不揃いに引き攣らせて睨んだ。おおよそ仕事の連絡と思えるはずがない。
「ばかな」と田中巡査長は低く笑った。「とんでもない嘘を言う。砕けた電話を警視正がかけてくると言うのか」当然、こうなる。戸吹自身さえ望んでいる。あんな言い草で信用されたらそれこそ警察の面子が丸潰れだ。カジュアルに始まり、急にしおらしい丁寧語になって、再び元気に終えるなんて。しかして宣言通りに無線機からの連絡が来た。ぎりぎり聞き取れた内容は「そうです、かけてくるのです」と伝えていた。田中巡査長の顔色はまさに急転直下、思い描いた流れをより大きな流れが塗り替えた。十六女警視正が本物と聞いてなお納得いかなげだが抗う力はとても足りない。
田中巡査長は撤収の指示を出した。去り際の忌々しげな目と情けない背中はすぐに曲がって遠回りを選んだ。理由もなく手柄のチャンスを取り上げられては田中巡査長でなくても不満顔になる。彼は聞き分けがいい。戸吹はまず服を整えた。破れはなし、皺はアイロンで直る。荷物を閉じて落とし物を確認した。さて、手放しには喜べない。
謎の人物だったCMAF16が本当に警視正なら、なぜ自分たちを助けると決めたのか。しかも最高のタイミングで電話をかけてきた。何を言うでもなく状況をわかっていた。どこから見ているのか。昨日の話を思い出すと候補は上だ。走ってトラックを追い抜くとか、ジャンプでビルの上へ消えていくとかの、都市伝説になる存在だ。ターボババア、アクロバティックサラサラ、ロリータ仮面。いくつもの異名が十六女警視正にはある。
電話がまた喋りだした。「もしもーし! なんで止まってるのさ二人とも、はるるんの首が伸びてるのに帰らないつもり?」「いや、まだ陽は沈まぬ」「メロスごっこはいいから。そっちの様子は真っ裸だけど死ぬために帰るのでもないし」戸吹は言葉を選ぶよりも素直な心の内を明かしてみた。「あなたが何者かを知りたい」「聞こえてなかった? 十六歳の女と書いて十六女彩、かっこいいでしょ」素直な心の内を言うと、かっこいい。戸吹にも俗な感性はある。珍しい名字はかっこいい。阿多良もそうだ。アルバイトを求める声かけに乗ったのも珍しくてかっこいいからだ。「ありがと。それで本題だけど、ちょい状況が変わっちゃった。買ってきたドローンを開けて。今すぐ」
裏道の一角を陣取り、封を切り、分厚い段ボールを鳴らす。並行して変わった後の状況を聞く。「騒ぎを聞きつけてヤクザが近づいてる。大袈裟だけどそれだけだよ」「だけと呼ぶには大きいが?」胴体に付属のバッテリーを載せる。リチウムポリマー二次電池、品質維持のため出荷時の充電は六割程度だ。「なんとかなるって。いいの買ってるじゃん。連続20分なら残り10分、十分だね」「今から飛ばすつもりか? 街中だぞ」「飛ばすよ。街中とかの前にあたしだから」本体の電源を入れた。コントロール用のアプリやその他は何も設定していないが、ドローンは勝手に飛び始めた。
十六女警視正どのが飛ばしている。設定もせず勝手に。「いい気持ち! やばたんもまきぽんもよく見えるね。追手も見えたから、8秒後に立教通りに出てね」信じるしかない。槙田は聞いてもしょうがないと理解して黙っている。その分を理解していない戸吹が喋ってバランスを取る。「ビルの上へ消えた逸話はドローンの話か?」「いやそれはあたし自身。ドローン制御は思ってるより難しいからね。当時は無理だった。もっと早く欲しかったな、天の眼が」
指示の通りに遠回りしたり休憩したり、時には低い姿勢で建物に入り別の出口から出た。池袋から椎名町までは一〇分では足りない。蛇行して追手を撒くならさらに。飛行時間との帳尻合わせを兼ねて目立たない位置で引き離す。走れ! 戸吹。十六女警視正どのもメロスごっこに付き合ってくれる。戸吹はメロスというより太宰治が好きなのだが、メロスの他は『人間失格』しか知名度がないようで、誰も乗ってくれなかった。青空文庫で無料で読めるから言っても誰も読んでくれない。なので一人で、遅れながらも誉の多い人生を送り人間合格するのが戸吹の目標だ。達成度は誰にも言えない。
電話からの声によるとヤクザが探し歩くのを避けているらしいが、戸吹からは何も見えなくて面白くない。本当に助かっているのかも分からない。他人の駒として動かされている。不平が声色に出ているぞと槙田が小声で教えてくれた。「そいえばやばたん、裏道に飛び込んだのは正解だったよ。大通りだったら目立ちすぎて囲まれてたね」苛立ちは電話越しに届いているだろうが十六女警視正は気づかないふりをしている。人付き合いの経験は悔しいが槙田が上だ。情報網は十六女警視正どのが。では戸吹はなんだ。幼少期から言われるがままで、ようやく抜け出したと思ったのに、また言われるがままになっている。
ハルの家が近づき、隠れられる場所がなくなった。最後にドローンが見渡して終える準備をしている。「もう大丈夫だね。降りるからキャッチして。あとエレベーターを使っても大丈夫だよ」時計によるとあれから十三分、想定した電池の限界より長い。訊ねるとどこかの屋上で休み休みに飛んでいたらしい。「さて最後に、二人とも覚えておいてよ。子供は主人公で、大人は前作主人公なんだ。大人は助けるのが役目で、邪魔しても手柄を奪ってもいけない。覚えたらいつか大人として、子供を助けてあげてね。今日のあたしみたいに。くれぐれも老けただけの子供になっちゃだめだからね。じゃあねー」電話は切れた。最後まで返事を聞かない人だ。
ぼやいたら槙田が首を振った。そうではなく、向こうは返事をする側だ。戸吹の不満への返事を。結局、今日の戸吹はいいとこなしだ。槙田はそんな日もあるというが、だめだ。戸吹にはそんな日があってはいけない。手も足も出ないのは恐ろしい。自分が不要な存在と言われている気分になる。
人工大理石のエントランスに戻ってきた。ひんやりしている。エレベーターで五階へ上り、いい予感がした。扉を引いたら確信になった。クリームシチューの匂いだ。まな板が包丁をリズミカルに受け止める音だ。そしてとどめに、割烹着のハルが顔を出して迎えてくれる。「おかえり」のただひと言が温かい。自分が大切な存在と言われている気分になる。
昭和後期から平成にかけての核家族ブームにより家にいる人間が減った。小さな子供は親と共に帰り、ちょうどいい子供の時期は親も忙しいので時短に熱心で、大人に近づけば食べてから帰る。いよいよ大人になれば今度は自分が作る側だ。需要が増すほど調理済み惣菜も冷凍食品も上質になり、家庭でのひと手間は時間と体力が有り余った上で他の趣味より料理を選ぶ者だけの道楽になった。
時代が変わっても人間は変わらない。群れの縄張りに帰ったら食事がある。食べ物をくれる相手が待っている。共に笑い共に泣く仲間がいる。最悪の事態にさえ協力しあえる安心がある。戸吹は寵愛されている。戸吹は寵愛されている。ありがたい! 原始的な報酬とは絶対的な正解である。勝者に理屈はいらない。理屈とは敗者復活戦である。人はいつでも敗者になりうるのだから復活の術は大切にする。ハルが促すままに復活の風呂をいただき、復活のシチューをいただく。




