2076年5月7日木曜日、22時50分、椎名町、マンション5階。酔っ払いの思い出話
なんだか寝つけないな。ふわふわの便座カバーが戸吹を受け止めた。殺風景だが換気扇と水音が歓迎してくれる。厚手のトイレットペーパーから温もりを感じる。ひと通りの用事を済ませたがまだ足が重い。手前のリビングでぼうっとすることにした。ハルの家は家族らしくソファとローテーブルもある。触れれば最初だけの軋みがあった。一人では使い切れない。お尻はひとつしかない。
眠れない理由は自分でわかっている。同じ家に人がいる。あたら屋の二階の部屋は頼りない扉でも鍵だけはあった。対するハルの家は、いくらご立派な扉でも鍵がなければ何も防いでくれない。別に、槙田が変な気を起こすとは思わない。もちろんハルも。しかし目を閉じて近くに感じる気配が本当に槙田かハルなのか。恐ろしい。とかく恐ろしい。見えるすべてがただ恐ろしい。すべてが空想の銃口を向けている。
音が聞こえたら癖で気を張った。月明かりでもシルエットくらいは見える。手を振る姿はハルだった。「よ。眠れないみたいだね」ゆったりした足取りで隣に座った。「まだ怖いかい、他人は」「別に、落ち着かないだけ」「だといいけど。よかったね、刑務所じゃなくて」鍵があっても気配を通すから。気配が敵と決まっていれば楽かもしれない。敵なら殴れば解決するが、敵でないときに殴ると失うものがある。判断が挟まり、判断は遅れになる。
「宿題でも聞いとく? よかれと思って明日の楽しみにしたけど」聞いても今は何もできない、ハルも理解の上で伏せた。やはり聞くほうがいいか? 考え直しても戸吹にはそう思えなかった。やるかやらないかでは迷わない。「いい計らいだ」暗闇に慣れた目が穏やかな笑みを見た。
「ヤスくんはぐっすりだから、今ぐらい本名でよくない?」ハルの提案は同時に言おうとした話でもある。気心知れた同士だけなら伏せなくていい。「陽菜さんは見てますね」「有菜ちゃんもね。呼び方は性格にも関わる、大事だね」阿多良陽菜と引手有菜、初対面の日から奇しくも菜の字が同じだからと陽菜が気前よく関わってきた。当時の有菜は無愛想で、喋りかけても答えず手ばかりを動かしていた。手でしか答えられない。陽菜が同じ調子で続けてくれるおかげで徐々に慣れて話もできた。今の有菜ならわかる。懐柔された。同時に、咎める気にもならない。得たものの方が多い。
「すぐ眠れそうじゃないならお酒でもどうかな。有菜ちゃんとしっぽりやりたかったのよ。二十歳でしょ、確か」ぎりぎりだが飲める。あたら屋の表の常連が何を楽しみにしているんだか気になっていた。「初めてだから、優しいやつで頼む」ハルの小さな笑い声はささくれた心を癒すにちょうどよかった。「待ってなね」と言ってすぐに台所から、トレイに乗せたグラスをふたつ、コップをふたつ、深皿をひとつ。ローテーブルに並べた。口に入れるものはまずペットボトルの水とつまみだ。「どのくらいだ?」「全部でいいさ。水はコップのほうね」なぜ必要になるかもしっかり教えてくれる。酒は吸収が早くて単体では悪酔いする。水とつまみを胃に入れて和らげる。加えてアルコールの分解に必要な水とミネラルを補充する。
席順は今日も有菜が左で陽菜が右だ。硬い右手をぶつけたら困ると言って陽菜が譲らなかった。陽菜はいつも導いてくれる。
主役はカベルネ・ソーヴィニヨン。広く普及した赤ワインだ。肉料理に合うと評判で単品で飲む人気も高いが、手に取る機会が多い影響を考慮しなければならない。戸吹のように初めてなら、安物でなく、高級すぎず、特殊すぎずの、安定した品と言える。「二十年ものだ。きみが産まれた年のワインだよ」「保管は存外大変なのに、高級品じゃないですか」「安いさ。これからの時間と比べたら」気持ちのいい音でコルク栓を抜いた。テーブルには真っ赤なキノコがふたつ。まずは匂って。果実らしさとアルコールが混ざったワインの香りだ。酒蔵とはまた別の。「乾杯」静かに口をつけた。「ご感想は?」「渋い」「最高」
陽菜は右が義手なのでグラスに触れても温まらない。前提となる生身の手が覆れば正しくない持ち方こそがいい持ち方になる。一度目は有菜に見せる都合もあり左手で正しく持って見せた。「今更だけど陽菜さん、コルク栓って再封できますか」「無理だね。量の心配でしょ。ペットボトルと違って瓶が厚いから見た目より少ないよ」薄暗い中で数字を探す。が、中身はより雄弁だ。二人分のグラスに注いだだけで残りはすでに半分しかない。一人あたり二杯でいっぱいだ。そういえばあたら屋の常連も大事そうにちびちび飲んでいた。もちろん陽菜も。
酒の本質は同席した相手と共有する時間にある。同じ釜の飯を食うと言うし、アルコールで判断が鈍っても構わない信用を示している。お互いに。「うまい」関係性の味だ。親子ほどの歳が離れて、姉妹のように世話になり、友人くらいに趣味が異なる。「よかったよ」持ち変えるごとにソファが沈む。グラスもつまみも有菜は左手を使う。ちょうど二人の間にある手を留守にできる。陽菜も同様に右手で取るから、つまみへ手を伸ばすたびに体が近づく。物理的な距離は心理的な距離でもある。体の位置関係に合わせて心へ働きかける。
「陽菜さん。昼間の話で、三人って言いましたけど」有菜の手で殺した人数が。「昔、もう一人います」「へえ。聞かせてよ」言わせてしまった。言葉通りに聞きたいのではない。聞きたいなら仕方ないと言い訳して言いやすくしてくれる。陽菜の大人の気配りだ。渋みをワインのせいにできる。唾の粘りをつまみの脂のせいにできる。大人の世界は言い訳でいっぱいだ。言い訳ができないと銃撃戦が始まる。大人の手には常に銃がある。より強いペンも。
「七歳の頃、父親を殺しました」産まれる前からめちゃくちゃな環境だった。母親の引手数多と父親の近藤睦月は結婚して、離婚して、その年にありなを産んだ。養育費まわりのやり取りは知らない。とにかくは近藤ではなく引手として産まれたはずだった。出産により母親が死に、父親の安アパートで近藤有菜として育てられた。保育所は要らなかった。父親には洗面器があった。洗面器は何にでも使える。おしめを交換できる。トイレトレーニングをできる。食べ物を盛り付けられる。水を飲める。泣くありなを静かにできる。吐瀉物を受け止められる。鼻風邪をひいたらティッシュが乾くまで持っておける。虫が出たら捕まえて外に捨てる。枕になる。椅子になる。おえかき帳を使うときは机になる。無くしたら困るのでありなの手元には常に洗面器があった。
ひどい話だが陽菜は黙って聞いてくれる。有菜がグラスを取ると同時に陽菜も飲む。他のときは左手で有菜の右手を握る。口出しなく聞き、思い浮かぶままに話す。つっかえたら待つ。
ある日のありなは外への冒険をしてみた。父親の忘れ物を届けようとして追いかけた。オーバーサイズで黄色の水玉模様の服を着て、洗面器を抱きしめて、忘れ物を胸と洗面器の間に入れた。六歳か七歳の頃だ。ありなは日付を知らない。わかるのは扉を開けた途端の眩しさと、風が柔らかな感触で全身を包んだくらいだ。後に知った言葉では暑い日、夏日と呼ぶ。アパートの階段を後ろ向きで恐る恐る降りた。滑り落ちそうにもなった。洗面器を落としてからはよりしっかり抱きしめた。忘れ物も無事だ。生まれて初めての段差を突破し、いざ父親を追おうにも、時間を使いすぎてどこにも見えなかった。服の色を頼りに父親らしき人を探した。通行人にそれらしい色をちらほら見つけたが、ある人は髮が金色で胸が大きく、ある人は髪が短くて荷物が大きかった。
やがて親子連れを見た。大きな二人と手を繋ぐ小さな子供を見た。ありなと同じくらいの大きさで、活発で、大きな二人も目を合わせて喋りかけている。言葉で返事をしている。咳が出ないのに胸が苦しくなった。最近は拳を受けていないのに腹が痛んだ。声を上げて何かを示そうにも、ありなは喋れなかった。声を出そうとすると喉で詰まるのもあるが、何よりも言葉を知らなかった。結局、知らない親子の背中を眺めるしかなかった。
知らぬ親子が見えなくなった頃に後ろから知っている父親が現れて、ありなをひょいと持ち上げて、家の中に戻った。説教のときは後頭部を掴んで洗面器の水で顔を冷やす。静かに耳元から語りかける。「出来損ないが持ち逃げできると思うな」ありなにも言いたいことはあるが、魚に声はない。折檻は空が赤くなるまで続いた。髪がいくらか乱れるだけで体は無傷なので誰が見てもただの小汚い寝癖にしか見えない。今日のありなは汗をかいたので水を飲む量が増えた。途中で注ぎ足した。
父親の忘れ物とはマカロフだ。旧ソビエトの小型拳銃。を、中国人がコピーして日本人が密輸して摘発して横領して紛失してと繰り返した果てに流れ着いた品。セフティも取り払って製造コストを抑えた粗悪品だ。眉唾だが弾が横に飛ぶとさえ言われている。トレーサビリティとは無縁の時代からの流れものだが警察には線条痕の記録がある。曰くの正体を調べさせるわけにはいかない。ありなが持ち出して露呈する懸念があった。父親にとっては危機一髪、誰にも知られずに済んだ。
父親は昼にマカロフを隠し持ってどこかへ行き、夜はたびたびコンビニの袋から酒とタバコと少しの食べ物を出す。瓶ビールの日はマカロフを栓抜きにする。スライドを引いて飛び出す銃身を支えに、フレームを栓の下に引っかけて、捻る力で外す。古い設計ゆえの用途外利用だ。現代の銃では短すぎて真似できない。
ありなに娯楽はなかった。見たもの全てを興味の対象にした。もちろんマカロフも。興味は発見の第一歩だ。何に使う道具なのか、どうやって使うのか。でしゃばれば折檻が待っている中でもわずかな時間を見つけて知る機会を探した。答えはテレビにあった。よく競馬や野球を見ていた。動きが少ない時間が不定期に挟まる。父親がチャンネルを回す。刑事ドラマで銃を使うシーンがあった。ちょうど構えた瞬間に犯人が慌て始めた。どうやら人差し指で使うらしい。使うとどうなるかもわかった。
今の有菜ならわかる。父親とは名ばかりの男だ。引き取ったのもプエルトリコあたりに売り先があるからだ。なにしろ若い女には様々な価値がある。親による追跡がないならさらに。
雪の日が運命の日になった。父親が帰り、酒とタバコの袋から丸まっていた四角形を床へ投げた。安定した瓶をちゃぶ台に置いてトイレに駆け込んだ。同様の動きならいつも、ありなへのプレゼントという名目でくだらない品を処分していた。表紙では女がうつ伏せで覗き込むポーズの、後に知った言葉ではエロ本だ。何を疑うでもなく開いてみた。煽り文と写真が並ぶ。ひらがなとカタカナはどうにか読めた。キモチいい。***ケ****。言葉は肯定的で、表情は肯定的とも否定的ともつかず不思議なもので、服を脱いだ状態で男女が抱き合っていた。
父親が戻ってありなの肩を掴み仰向けに倒した。「もう興味あんのか」初めて顔を見て喋った。珍しく普通の大きさの声をありなへ向けた。返事を待たずに服をずらし、あどけない股間部を露わにした。ちょうどエロ本の女もそんなポーズだった。
父親の指が股間部をなぞる。本の写真と同じでも本の文字とは違う。気持ちよくはない。ただの違和感だ。皮膚なら死んだ細胞が外部から守ってくれるが粘膜は生きた細胞だ。誰にも触らせないはずの場所。
体液が摩擦を和らげるが押し拡げる力は軽減できない。ありなは声を殺す癖がついていた。肺の空気が減ったら次にいつ吸えるかわからない。とはいえ未知の感触にはたまらず声が漏れた。悪い予感はすぐ現実になった。父親の手が口を掴んだ。鼻息に混ざる声には洗面器を被せて中だけで響いた。見えなくても次に何が起こるかはわかる。布が滑る音と、直前に見た本を手掛かりにして、父親がゾウの鼻を出したと直感した。ありなの小さな奈落を探り、道なき道を掻き分け掻き分け、奥に待つ宝の部屋へ謁見する。つい数秒前までありなが痛みだと思っていたものは偽物だった。本物が今ここにある。声は洗面器の中だけで響いた。外で耳を澄ませても猫の足音だと思って終わりだ。中では大の字と木の字を重ねて前後しているのに。
傍目と本人の評価は往々にして食い違う。ありなにとって最悪なのは気持ちよくなかったことだ。自分が本当に出来損ないな気がした。振り返ると的外れに歪んだ発想だが狭い情報源では狭い世界がすべてになる。地球規模には届かずとも、日本規模で、あるいは都道府県で、市町区村で、六畳一間で。人は見える範囲の全てを統べる魔王になれるが、外の世界からの風の前では塵に同じだ。
父親だけが勝手に気持ちよくなり勝手に眠っていた。ありなも疲れと放心で横になっている。明日からも毎日これがあると思った。父親が言わなくても本に書いてある。
嫌だ。初めてありなに意思が芽生えた。欲求は満たせば終わりだが嫌悪に終わりはない。人は嫌悪への対処で生きている。ありなは対処を求めた。探せばなんでも正解らしく見える。必然的に選ぶものは最強のひとつ、銃口だ。
やるなら今が一番いい。傷が最も浅い。敵は眠っている。
ありなはテレビの見よう見まねでマカロフを持ち、父親の後頭部に近づけて、引き金に力を込めた。小さな手、小さな指、重い引き金。ダブルアクション式といって、引き金だけでハンマーを起こし発射までできるが、シングルアクションより重くなる。ありなの指には力がなかった。元の筋力はもちろん、疲れた今はさらに。最後まで引くにはもっと気合いが必要になる。
疑念が諦めさせようとする。気合いを出して本当に状況が変わるのか。もっと悪くなるかもしれない。失敗して折檻が始まるかもしれない。成功しても今の方がましな暮らしになるかもしれない。すべての現状維持への誘惑を振り切った。気質。勇気。あるいは覚悟。過去も未来も存在しない。全ては今だ。今を終わらせて初めて今でない何かが生まれる。
銃は大きい。マッチョな大男の手に合わせた設計だ。小さなありなは持ち方を工夫して、人差し指の力と手のひらの力を合わせて引き金を引いた。右手と左手の両方を合わせた。まだ足りない。揺れるから中指で押さえる。確実に動いている。諦めや辛抱はいつでもできる。チャンスがあるうちに掴まなければ損だ。チャンスとは今だ。わずかな温もりではありなを止められない。失うものなど何もない。今が全てだ。今限り。強く強く。
岩が根を張ったように重い引き金を引き切り、最後に大きな音が出た。父親のくしゃみより大きな。ありなが最も驚いた。耳鳴りと遅れてめまい、さらには熱い銃口がおでこを叩いた。親指の爪が割れた。中指を火傷した。ありなは再び倒れた。どうにか目を開けた先には赤色があった。父親の後頭部の穴から湧き出している。やった。大きな音を立てたのに父親は動かない。起き上がらないし喋りもしない。成功した。
振り返ると杜撰な管理だった。あらゆる杜撰さのおかげで今の有菜がいる。セフティがあれば動きもしないトリガーを必死に引くだけで諦めていたかもしれない。装弾せずにいたらきっとおもちゃのような音を出しただけだ。
ひとつだけ、大きな音を立てたら警察が来ると言われたのは本当だった。ありなが無視して寝ていたら、じきに騒がしくなり、近くでごちゃごちゃと話が始まり、ありなを抱えてどこかへ連れて行った。壁が白で床が薄緑の建物をいくつも行ったり出たりして、床がオレンジの施設で集団生活をして、十六であたら屋に来た。
昔話は終わり、有菜はグラスを飲み干した。陽菜が注いでくれた。「お疲れさん。おかわりも飲んでいいよ」有菜もボトルを取った。世話になった相手にはお酌をしたい。「陽菜さんが信じてくれるかわからないけど、辛い思い出ではないんだ。味方じゃない男が助けてくれるはずない」「まあ、厭世的」
「ところで有菜ちゃんの父親は自殺と聞いていたけど」「自殺にされた。事情を知った上で許したんじゃない。事情をなかったことにした。最悪な話だ。私が殺したのに自殺なら、私はあいつの一部扱いじゃないか。子供には基本的人権宣言が届いてない。移動の自由も学問の自由も自己決定権も。なにもかもを取り上げられて親の操り人形だ。見ろ、あらゆる悲劇を。ホロコーストもホロドモールも、逃げられたなら起こらなかった悲劇だぞ」「ずいぶん詳しいね。予習熱心だ」「歴史上の大量死を調べたら結果は絶望だ。準備のために地道に準備して人を動かして、移動を封じる地域を作るしかない。私は一方的に準備される側だ。忌々しい」
有菜の言葉は悲劇の中心気取りで、現に正しい。どんな悲劇も逃げれば終わる。悲劇の中心から逃げられない状態こそが悲劇だ。有菜を作るすべての過去が襲いかかる。過去はいつまでも残っている。ありったけの現在で薄めて塗り替えるしかできない。今の有菜はすっかり薄めて健全そうに振る舞ってはいるが、ふとした時に涙をこぼす程度には残っている。静かな夜と眠れない理由を合わせた時は特に。しかしそれもやがては薄れていく。
全てを言葉にしたつもりでも思ったより早く言い終えた。ちびちび飲んだ一杯分、文庫本の五ページ程度だ。長編小説なら百分の一にも満たない。
「陽菜さんは子供が二人もいて、つまりは二度も、やってられたのか、あんなのを」「セックスは気持ちいいものじゃなくて、気持ちよさを自分で探して見つけるものだよ。有菜ちゃんは一人でしたことは」「試しに一度だけ。虚しいだけだった」神経が生きているかも怪しい。「まあ焦らなくていいさ。一人と二人では感じ方も進め方も違う、ってのは覚えておきな」
主従でなく親子でもなく風俗店ごっこでもなく、対等な二人だと前置きして。「男は主人公で女はゲームマスターだ。知ってるかいGMを。ゲーム機のボタンを押すと結果が出るのと同じ、成功か失敗かを伝える役目が女にはあるし、受け取って動き方を変える責任が男にはある」女の感触は痛みに似ているが、本物の痛みが出たらすぐに違いが分かる。分かったら伝えるのだが意思なしでは同じ声しか出ない。男の抽送により女の肺が伸縮する。体が鞴になり空気を出して入れてを繰り返す。不如意のタイミングに合わせて口を動かす。失敗と成功は別物なので違う声が必要だ。痛いときに痛いと言えたらいいが、中には三歳児のように喚くしかできない者もいる。「やめて、ではだめなんだ。主人公は抗う存在だから強引に動かそうとしても通じない。だけど評価なら逃げられない。痛いと評価したときに成功だと思ったならレイプで、失敗だと思ったら普通のセックスだよ」意思を持つ。排中律といって、意思に中間はない。必ず成功か失敗だ。中間だと思っているものは基準を決め損ねた失敗に含まれる。
「だが痛いと言えたとして、男が無視して動いたらどうなる」「GMには悪質なプレイヤーを追い出す責任がある。主人公のくせにGM気取りの男なんていくらでも見たんじゃないか? 自分が評価する側だと思い込んでる評論家が。まずは外交、無視するなら戦争の始まりだよ。昔やインドならいざ知らず、現代の日本では警察に行って動かぬ証拠と意思を見せたら核ミサイルを撃てる。大変ではあるけど戦争だからね」「どうだかな。反例が山のように並ぶぞ」「順例が当たり前すぎて出てこないのさ。負け犬の遠吠えを魔に受けるのはやめな。戦えない奴が戦争もできずに負けただけだっての」
陽菜は辛辣だが、否定するには心当たりがありすぎた。人は現実を無視して願望を見る。求める姿を空想しては現実を改変したがる。そのくせ実現のために自分で動けるのは一握りだ。発明の原動力であり、ギャンブルやカルトの金蔓の本質でもある。人が喋れるのは不満だけだ。満足したら気持ちよく眠る。
大人にならなければならない。子供なら無責任に欲しがるだけでお父さんが取ってきてくれる。大人は子供のために与えることだ。与えるにも責任がある。
「ところで有菜ちゃんも見たことがあるはずだ。GMのくせに駒の役目ばかりやってる奴がいる。上から一方的に潰す責任から降りて同じ土俵に立った時だけが争いだよ」骨身に染みる。ありなと父親は決して対等ではなかった。初めは一方的に殴られ、最後は一方的に殺した。では上下の決め方は何か。「陽菜さんへの反発じゃあないが、今は話していて同じ土俵にいるように感じている」「降りてるからだよ。私は有菜ちゃんやヤスくんを今すぐ警察に突き出せるし、強請れるし、ここでは言えない結果にもできる。できる中であえてやらないし、鼻にかけて従わせる気もない。有菜ちゃんも私の弱みを握っておくといい。対等の始まりだ」「わからないな。私と対等になって陽菜さんにどんなメリットが?」「受け売りだけど、モテる人間は二種類いる。女みたいな男と、男みたいな女。私もモテたいから主人公みたいなことをやってるんだよ。うちの家系はいつもそうだ」「女にモテてどうするんだ一体」「頼り頼られもモテのうちさ。恋愛だけじゃなくてね」
有菜はなんだか愉快な気分になった。「ならモテは成功だ。恋愛じゃないが陽菜さんを好きだし慕ってる。いつもマイペースだから近くにいても安心できるし、困ってたらさりげなく近くに来て助けてくれるし、困ってないときは近かったり遠かったりで、ご飯はおいしいし、今だって細かい所で気遣いある言葉選びだったろ。大人らしくて好きだ」「ちょい待ち、有菜ちゃん酔っ払ってる?」「うるさいな。私だってお母さんに甘えたいんだよ。でもいないんだ最初から。お父さんを頼りたくてもいないんだ。だから自分でやる。陽菜さんは、こんなお母さんがいたらいいなとは思うけど、思うだけだ。私のじゃないんだよ実際は。だから顔も知らない子供たちに妬いてるんだ。みっともないと笑えばいい。私はこんなでもどうにかこうにか生きてんだ」
一転して泣き始めた。陽菜はただ黙って抱き寄せた。否定は拒絶であり、肯定は白々しい。言葉の価値はSNSが暴落させた。求めるのはより特別な、態度と動作と空気感、いわゆる現実だ。内心は感情になり、感情は分泌物になり、分泌物は匂いになる。同じ空間では匂いの交換会が始まる。目と耳と舌と指でなら同じものを味わえるが、鼻だけは自分を見つけられない。同じ空間から違いを見つけられる唯一の器官だ。ワインの香りは同じでも陽菜の匂いと混ぜるか有菜の匂いと混ぜるかで情報が変わる。誤差が別の誤差を呼び、やがてどこかで大きな違いになるかもしれない。あるかどうかも不明なバタフライエフェクトだが可能性がある限りいつかどこかの組み合わせで相乗効果がある。
あっという間に有菜は眠っていた。陽菜の腕の中で。
大人は何をするにも言い訳が必要になる。言い訳がいらないのはお父さんやお母さんが頑張ってくれるからだ。
つまり今夜は、柄でもないが、すべて酒のせいだ。




