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2076年5月7日木曜日、12時56分。椎名町、マンション5階。ガムでも食ってろ。

 情報屋は家族向けの分譲住宅に住んでいる。駅近で歩道が広い反面、車で訪れるにはいささか面倒だ。大通りに面しているのに車庫はない。床や壁の人口大理石が熱を吸って涼しくしてくれる。


 お目当ての部屋は五階にある。槙田が当然のようにエレベーターへ向かうので肩を掴んで正しく階段へ導いた。今の状況で監視カメラに映るのはまずい。共用階段で頭を下げたら全身を隠して登れる。


 角部屋が彼女の部屋だ。インターホンを鳴らす前に扉が開いた。靴を整えて手を洗ったら本格的にご対面だ。


「よく来たねえ。私がお二人さんの救世主となる情報屋のハル、よろしく」裏稼業の例に漏れず偽名で挨拶をした。一人だけ本名の男が槙田泰晴ですと言えば「奇しくもハル繋がりだ。ヤスくんって呼ぶね」と笑いかける。目を戸吹に向けて「昨日ぶり。名前なに?」と分かりきっていた話が出た。本名で話せればいかに楽か。槙田がいる場では出したくないが、ハルには偽名を聞かせたくない。天秤はやむないほうに傾いた。目を伏せて小声で。こんなことならまともな名前にしておけばよかった。「戸吹ヤバイ」聞き返しと失笑。反省は延期だ。余計に面倒になる。「やばい名前だねえ。武器屋バイトから一文字ずらして、ト武器屋バイ、ンッフッフッフッフッ」「笑いすぎだぞ」「ごめんて。まあ戸吹ちゃんでいいかな」


 情報屋の表の顔はいかにも目立たないおばさんだ。日本中どこでも手に入る大量生産の服をはじめ、髪型も化粧も、調度品まで素朴、素朴、素朴の極み。本棚には漫画と辞典がつまり、デスクにはノートパソコンと半開きのDVDケースが転がっている。もちろんツタヤのシール付きだ。メインにワーク、サブにカルチャー、平凡すぎるところが非凡と形容するほかない。室内でも手袋をつけている点だけが彼女を特徴づけている。


 戸吹とハルは四年の付き合いですでに打ち解けている。基本的な学力、商売の基礎、銃の稽古まで、ハルがなんでも教えてくれた。あたら屋は家族経営で、オーナーが母親、店長が父親、長女がハルだ。当時のハルが地下を担えるのはせいぜい昼過ぎまでで、客が来るのは主に夜だ。オーナーには他の仕事もあるので予約専門にしていた。戸吹が来るまでは。機会損失が減って売れ行きも伸び、戸吹に払う賃金の三百万円を引いても利益になる。月あたりで七人もいれば礼儀知らずにつけた色を抜かしても粗利益が二十五万円を上回る。


 さて戸吹に学はないが商売をしているからわかる。槙田だけが除け者の状況はお客様満足度に響く。なるべくハルにもそっけない言葉にしてバランスを取ろうと頭では考えるが染みついたリズムを抜くのは難しい。


 思い知ったので逆に、槙田を仲間に入れる。詳しい話を槙田を中心にしてハルに反応させた。会話が通じる相手と会話に応じる態度で仲間意識を生む。コミュニケーションでは原始的なほど強い。共に笑い、共に食べ、共に眠る。ハルが身をもって教えてくれた。次は戸吹が実践する。工夫すべてを察知して槙田が見えない一瞬で親指を立ててくれた。報われた実感になる。


 説明を済ませたら茶菓子の番だ。戸吹の腹の虫はすでに元気になっている。槙田に至っては昼食がまだらしい。「じゃあ待ってて。適当に作るから」「かたじけない」槙田が急に武士になり二人が笑う。とりあえず馴染めたようで話を進められる。戸吹がトイレを借り、台所からでは槙田の様子が見えなくなるので、ハルは口で様子を窺う。「ヤスくん、戸吹ちゃんは店でもこうだったの?」「いえ、今のほうが元気というか気楽そうというか」「猫被ってんのよ。お客さんの前ではね。ヤスくんはお客さんを超えたってわけ」台所での声はトイレにも聞こえる。扉を半開きにしてすぐに異議を唱える。「おい、変な言い方はよして」「あら、じゃあキープ?」「リリースに決まってる」完全に受け入れてはいない。客と友の間にある、友になれそうな客だ。


 出てきたのは大皿に山盛りのフレンチトーストと、デカフェの紅茶、食器は取り皿の他にポテトングを三本。槙田がつかぬことを尋ねた。「広い家で食器もあって、お一人で?」靴や生活感が一人分しかなかった。「色々あったのよ。夫とは離婚、息子は進学して京都、娘は群馬の高専」「すみません」「おかげで大きな兄妹を招けたってわけ」勝手な口ぶりで戸吹と槙田を繋げようとする。槙田の薬指を見ておきながら。「ハル、あまりふざけるなら私にも考えがあるぞ」「ほほう、たとえば?」「とある投稿サイトで面白い小説を見つけた。次回の更新を楽しみに待っ「オーケー、オーケー、よくわかったよ。戸吹ちゃんは交渉がうまい。全面的に飲もう。飲ませていただく」団欒と呼べる穏やかで甘美な時間だ。集まった理由が違えばもっと楽しめたかもしれない。


 頃合いだ。ハルが話を始めた。「さて、お二人の解決策だけど」山盛りから半分になり槙田以外はすでに満腹だ。口担当と耳担当に分かれて進む。「三人は無理でしょ。やっちまったねえお二人さん」期待とは逆の言葉だった。


 そりゃあ殺人は大きなものだが、相手は侵入者で、正当防衛を主張する余地もあるはずだ、とばかり思っていた。「本当に」ここまで戸吹は落ち着き払っていたが、初めて荒い言葉が出た。「無理なのか、本当に!」「状況が悪すぎるよ。個人宅ならまだしも店で、筋者だけならまだしも後から来た二人はただの物知らずでしょ。しかも地下二階は大きな声で言えない場所だし」「実は一階での出来事だった!」「遺体に銃創があれば硝煙反応を探すよね。一階には無いでしょ。血痕も。しかも頑張って運ぶ過程で変な皺がつく、のは動かした時点で手遅れね。死亡推定時刻を見ればすぐ通報じゃないのも明らかだし」誤魔化しは無理、この調子なら他の手も無理な理由が並ぶ。荒ぶった息遣いを収めて、槙田も食べる手が遅れて。さっきまで歓迎的だった部屋が一気に責め立てる沈黙に感じた。


「だがハル、あいつらは別に死んでもよくないか? ただの筋者とクソガキだぞ」「戸吹ちゃんだし筋が通ってるね。通るからだめなのよ。同じ理屈をみんなが言い始める。計算してみようか。日本は一億人だから、千人に一人が一人を殺したらもう全部で十万人ね。東京大空襲やヒロシマと同等、ナガサキを超える。合成の誤謬といって、ちょっとなら許せそうに見えても、みんながやると大問題になるから、ちょっとのうちから許さないものなの。ちょっとかたくさんかの区切りを誰もつけられないから。だからお二人さんだけを許すわけにはいかないし、みんなまとめて許すわけにはもっといかないの。オーケー?」


 槙田の異論にはより強いお説教を返す。「俺は撃ってない、んだけど「戸吹ちゃんだけに背負わせる気? 逃げ込んだから起こった話なのに? 本気なら私が許さないよ。あまり情報屋を舐めないほうがいい」「そうじゃなくて、俺だけが撃ったことにしたら、守れないかな。ハルさんの依頼料にもよるけど」都合がいい申し出だが当の戸吹が訝しむ。「ハルの前に私を説得してみせろ。甘い言葉にこそ裏があると知ってる」「いや俺、どうせ追われる身だし、妻子も逃がせてこれ以上できることもないし、どうせ無理ならと思って」ハルのお説教は続く。「君ねえ、線条痕とか聞いたこともない? 三人も撃ち抜いた銃をなぜ持っているかも言えないくせに、自分の銃だと口先で言っても、庇うための嘘っぽくなるだけよ。しかも聞く限りでは碌に撃てなかったみたいで? 三人分のどの位置に何発とか覚えてる? そこに別の銃を持ってる映像記録なんか現れでもしたら、曰くまで辿って必ず行き着くから」「銃もだめか」「そりゃだめよ。銃刀法は形骸化しても生きてるんだから」


 お咎めなしを期待できないとわかったらダメージコントロールだ。刑を軽くする材料があれば死刑は回避できるかもしれない。筋者が関わるので釈放の直後に受け取るであろうお礼もやり過ごす必要もある。道は険しいがどちらが欠けても死ぬ。すでに死んだ連中と同じになる。ハルは他にも考えがあるようだが、全ては調査次第だと言って何も教えてくれない。「まあ一応、可能性くらいは見えてる。遠いし険しいけどね」


 調査は聞き取りから始まる。パソコンを開いてガタガタガタと鳴らして白紙を文書で埋めていく。喋るのは主に戸吹で、槙田はフレンチトーストで口がいっぱい、ハルはキシリトールガムで口内を整える。すでに説明した内容を元に、細かい時刻やら位置関係やらを尋ねては答えて書き加える。ひと通りの基本がわかったら情報屋の腕の見せ所だ。微妙に繋がらない部分を繋ぐ情報がどこにあるか、繋がってしまう情報を繋がらないように見せられるか、持てる経路と知識でパズルのピースを探し出す。情報の九割は誰もが手に入れられるが、どの情報に手に入れる価値があるかを誰も知らない。玉石混交のインターネットの海で回遊魚を探すようなものだ。現代では誰もが六分儀を持っているが、使い方を知らなければヒーローごっこの武器にして振り回すしかできない。


「ところでハルのパソコンの「待ちな、macbook proだ。知ってるかい? 映画の悪役にはapple製品を使えない。会社勤めで一人だけがwindowsならそいつが犯人だよ」ハルは妙なこだわりを見せる。「じゃあマックブックの「macbook proね」ため息が出る。「マックブックプロについてだが「macbook pro」舌打ちも解禁だ。「macbook proの使い方を見る限り、ほとんどアプリの機能頼みに見える。いいのか? そんなので」「さては他人を信用してないね? 知らないものを怖がるのは正しいけど、蓋をするより学ぶ方がいいよ」「私はハルを、なんでも自分で作る人だと思っていた」「残念、私は使うほうがメインなのさ。使い勝手が悪かったら作るけど」


 処理の都合で待ち時間も多いから説明をもらえる。逃避はセキュリティではない。解決策を学ぶべきだ。アプリは人を雇うのと同じで、自分が知らない環境で育った誰かが自分のために働いてくれる。雇わなければリスクもないが、逆に成果も出なくなる。裏切ってから敵扱いしたら間に合う。たかが裏切り程度でダメージなんか受けない。なぜなら影響範囲を決めるのは雇う側だから。


「あたら屋では戸吹ちゃん自身がアプリ側でしょ。あたら屋を裏切って得だと思ったら裏切ればいい。死蔵してたものを売って儲けたんだから損害なんかなくて最悪でも差し引きゼロに戻るだけ」気分の悪い話だが、戸吹の位置にもし信用ならない奴がいたらを考えると納得いく。「私は裏切る気なんかない」「だろうね。半日で分かったし、半年で確信した。だから今も楽しく手伝えるってもんよ」画面を睨みキーボードを叩く様子は他のいつよりも楽しそうに見えた。戸吹を安心させてくれる。


「出しゃばったのは悪かったがひとつ言わせてもらおう。映画じゃないぞ、人生は」「いつかの話さ。ドラマチックな人生だろう、戸吹ちゃんも」「やがて映画になるような人生だって? 失って手に入れてを繰り返すような?」「考え方が逆だよね。映画にならないように生きるつもり? よーし、今日も見所のない日にするぞ、って意気込んで? だけど幸か不幸か、くたびれたサラリーマンが食事をするだけの映画でさえ人気シリーズになる時代だよ。戸吹ちゃんが言った見所の正体は不安と解決だから、本当に見所のない人生だったら不安がない恵まれた暮らしだよ。物語を観る側のね。見所を見落としただけで無いと思っちゃだめよ」


 ハルの言葉は戸吹との相性がいいらしい。あるいはハルが合わせているのか。


「どうする? よくある事件のひとつとして紙とインクの仲間入りか、どん底からの大逆転でドキュメンタリー映画ランキング首位になるか」戸吹の答えは決まっている。「なろうと思うだけならタダだな」「なろうと思ったら予備予選突破、チャンスを見つけたら地区予選突破、チャンスを掴んだら決勝進出。泣き言なら負けてから言って」


 店番の暇つぶしに見ていた映画は冒険ものが多かった。未来から来た殺し屋ロボットを迎撃するとか、二丁拳銃で踊るように戦うとか、映画といえば現実からかけ離れたものだった。しかし少ないながら現実的な映画もあった。確かあれは、記憶を失って罪をなすりつけられる直前の男が、わずかな状況証拠とひらめきを頼りに策謀を暴く話だ。犯行計画を暴き、都合の悪い証拠を処分し、警察は真犯人だけを捕まえる。困難だが、不可能とまでは言い切れない。歴史は困難を突破した者が作っている。自分が決して歴史に名を残さないとなぜ言えようか。自己成就的予言といって、どうせ大成しないと思って挑戦しない態度こそが大成しない理由になる。失敗するかもしれない難題はいくらでもある。挑戦した中の誰かが成功している。ちょうど目の前にいるハルがまさに今、挑戦の真っ只中だ。


 主人公はハルかもしれない。物語は成功者がわかった後で始まり、さも最初から主人公だったかのように語る。「さては暇でしょ戸吹ちゃん。うちの漫画はどれでも読んでいいよ。気に入ったら持って帰ってもいい。本棚を空けたいから。ヤスくんもね」言葉に甘えて本棚へ向かった。みっちり詰まっていて地震に強い。多くは十巻も二十巻も続くご長寿作品で、不揃いな日焼けが古本屋の全巻セットらしさを出している。魔界生まれの怪物が探偵助手を担う、死神の気まぐれで人間が大混乱、一夜にして消え去った古代文明の儀式と遺物を巡る数奇な運命。読み尽くすにはとても時間が足りない。成功させなければ。


「私もひと息ついたし紅茶のおかわりをあげよう。休憩だーっ! あと二人とも、しばらくmacbook proの画面にだめなものが映るから」画面を伏せ気味に倒して席を外した。本当は盗み見たいがハル相手にはとてもできない。ケトルの湯でコップを温めなおし、ボウルに捨てて熱い紅茶を注ぐ。湯気と香りが改めて広がった。さっきまでなんとも思わなかったが急に喉が渇いてきた。素直でない言い訳と共にコップを取った。


 槙田はやけに手元を見ていた。「ハルさん、またつかぬことを訊ねますが、その手袋は一体? 触れて温度を確かめているのはわかるし、右手の動きが大袈裟というか、あるいは右手では温度がわからないとか?」ポットを置いたハルは楽しげだ。「意外と見てるねえ。誰かの仇の特徴が手にあるかもしれないって?」ちょうど読んでいる漫画にもそんなシーンがあった。ハルが手袋を外すと、戸吹はすでに知っているが、銀色の機械の右手が現れた。動くのは親指と人差し指と残りの三本指、そして前腕の回転だ。手首が動かないからポットを傾けるには肘から動かす。「どうだい? かっこいいだろう。あいにく温度はわからないしパソコンの操作はしにくいけど、この手がたまに役立つよ」「大変な失礼を」「でもないさ。かっこいいものを自慢するチャンスだ」


 本人は中指だけを動かしているつもりで、機械側の設計で薬指と小指も動く。生き残った神経の都合でこれ以上はなかった。最初からミトン型にもできたが、手袋を選べなくなる。普通を外れたら道具を買えないから普通に近づけて生きる。普通からは離れられない。戸吹が聞いたのは随分前になるがハルが珍しく辛辣な物言いだったのをよく覚えている。当人ごとの普通を示す設計図が脳に入っていて、欠落を個性扱いしても自己満足の先進的ごっこにしかならない。ただの怠惰な流行り好きだ。今こそかっこいいと言っているが最初は変な手だと思っていたとか。夜毎に普通の手に戻っている夢を見ては目覚めてがっかりしたものだ。細胞の寿命は六年で、三年ごろから徐々に体の記憶が薄れていく。右手を覚えている細胞が減ってようやく機械の手を受け入れられた。


「言うほど悪いもんじゃないよ。動く範囲は狭いけど、だからこその芸もあるし」ハルは紅茶を左手で飲む。生身の手首なら曲げられるから幅を取らずに飲める。「デカフェなのは、この腕の分だけ血が少なくてカフェイン濃度が上がりやすいからね」「そうまで違いがあるんですか? たしか体重分だから」「腕全体が四キロ、先っぽだけだからちょっぴりだね。かっこいい腕同士は引かれあうのよ。中には二本三本とか肩からの子とかもいる。普通なら六十ありそうな身長なのに生身の分は三五とか。もう大変よあれは」そういうハルも右手を変な角度にしてパソコンを、ではなくmacbook proを操作する。複数のキーを押すには生身の手でないとやはり苦しそうだ。複雑でもない動きなら誤魔化せるだけに見える。


 しばらく続けたら再び右手を楽にした。「もうだめなものは映らない」と言って画面を戻した。macbook proが作業完了を伝えている。「今から連絡する相手がいて、あいつならなんとかできるかもしれない」プレゼンテーション資料がある。連絡手段がある。あとは実行のみ。うまく喋れるか、何を喋ったら協力を取り付けられるか。交渉は頭脳の総力戦だ。ハルの前情報によると相手は肉体も精神も常人をはるかに上回る。精神性だけは問題らしいが仕事の関わりでは出さない程度の社会性もある。


「CMAF16、CMAF16、CMAF16、こちらハル、コードブルー、応答願います」


 呼び出しの言葉を終えたら、ハルはスマホを机の真ん中に置き、ひと息ついた様子で漫画を読み始めた。詳細を尋ねると、音声を電波に変えて野に放っただけで、通信を始めるのは相手からと語る。つまりは祈りだ。もし受信しなかったら虚空に消えるだけの儚い電波の応答を待つ。長く待つ。紅茶のおかわりがもっと必要かもしれない。届いてないんじゃないか、と懸念し再送信を求める声もあるが、ハルは一笑に伏す。「あいつも忙しいからしょうがないよ。いい感じの時間だし、そろそろ来るさ」時計はまもなく午後2時を指す。「ごめん、その時計はちょっと遅れてる」身長の都合で交換が大変だから。槙田が後で直すと言い出した。


 今のうちにより詳しい話を聞いた。相手はハルが高校生のときアルバイト先の先輩だった。情報の天才にして都市伝説の正体。ロリータ仮面。戸吹も小さい頃に聞き覚えがある。赤のロリータ服と口なしの仮面で、夜の車道を走れば自動車さえ追い抜き、ジャンプで二階まで跳び、窓枠や換気口を踏み台にしてさらに上昇、ビルの屋上へ消えていく。ターボババアの亜種、アクロバティックサラサラとの複合だが、正体は人間らしい。戸吹も槙田も揃って理解に苦しむがハルは苦しみの先輩だ。間近に相対したらより恐ろしいと語る。


「プライベートがぶっ壊れた奴だけど仕事は真面目にやってくれる。安心していいよ」


 スマホに着信が来ると思っていたが少しだけ違う。呼び出し音は鳴らず、操作もせず、若い女の声が喋り始めた。「はいはーい! 久しぶりだねえはるるん、奥のお二人はどなた?」何も知らない男女は目を見合わせるばかりだ。ハルはこれが当たり前の顔で答える。「実家のバイトと客、かつ今回の依頼人。ほら二人とも、名乗った名乗った」促す通り、戸吹ヤバイと槙田泰晴の名を伝えた。「やばたんとまきぽんね。内容はもうまとめてるでしょ?」


 大目標は戸吹が警察と筋者の両方から目の仇にされる現状の解決で、他は黙っていてもなぜか理解した様子で話が続いた。「私の手には負えんがそっちならどうよ?」「いやあ、いくらあたしでも三人は無理だね! 世の中諦めも大事だよ」「だろうね。ではお二人さん、プレゼンをどうぞ」「楽しみぃ!」


 旧知らしい二人の気楽さとは対照的に戸吹と槙田は窮地だ。助けてくれる大人はいない。自分で決めて、自分で動く。大事な大事なお得意様を殺す気で来られたら守るしかなかった、と言えば「1人目はそれでいいけど後の2人は?」と返す。そっちも銃を持っていたから状況から部下と考えられる、と言えば「部下が遅刻は苦しくない? しかも向こうさんの主張次第で部下じゃなくなるし」と返す。最初から半ば無理な話だ。何を言っても壁が高い。


「ところでさあ、現場が綺麗すぎ。ホローポイント弾でしょ。どこで手に入れたの?」画像を見ているような口ぶり、ハルが送ったと考えるのが自然だが、いつ?「ハルが詳しい店だ」「まあ置いとこうか。はるるんは優しいから1000人に1人の仮定だったけど、思い出すとクラスに1人くらいいたんじゃないかな、やりそうな子って。すると30人に1人だから333万人だね。復讐の私刑を加味したらもっと増える。ちなみにポルポトが200万、ホロドモールが400万、ホロコーストが600万ね。知ってたかな? 法律って目先の個人なんか考えてなくて、社会を維持するための、名前も顔も知らない大勢まで届くような影響を小さいうちに片付けるものだから、この説明で意味がわかったなら、新宿と渋谷と池袋に新しい原爆ドームを作るくらいの影響ってわかるよね」CMAF16は繋ぐ前の話題を平然と取り上げた。「なぜ知ってる? ハルがそんな話まで送ったのか?」「はるるんの家は何でも知ってるよ。救世主となる話? 階段で疲れちゃった話? あとは運転が荒すぎた話だってできる。どうよ、この千里眼」


 トリックに違いないが種がわからない。隠し事が通じないのはわかる。言えるものは言い尽くした。万事休すか。戸吹は記憶をひっくり返して役立つ情報を探すが、ハルの家どころかあたら屋の情報まで取られているなら、交渉に使える材料がない。


「話は終わりでいいかな? じゃ10分もしたらそこにデリバリーポリスが着くから、おとなしく自首しといてよ2人とも」「待て! ひとつだけ聞かせてくれ」最後のチャンスだ。戸吹は藁にも縋る。「今村のジジイとは誰だ? 筋者にとっては重要らしいが槙田は無関係だそうだ」「誰と言われてもヤクザでしょ。んー見える見える、髪は坊主同然に短くて、酒蔵の歩き方はまあ及第点だけど、詰めが甘くて、得物はマカロフ、ていうやばたんが撃った彼がいる派閥と対立関係にある、つまり内輪揉め相手の頭が今村だね」戸吹の見立てと同じ、銃も確かにマカロフだった。「なぜそこまで分かる? 適当な作り話じゃないだろうな」「ふふ、情報屋を舐めるな。くぅー! 言ってみたかったんだぁこれ!」


 槙田が控えめに声を上げる。「念のためですがその今村のご家族とかは」「関係ないでしょ。ヤクザなのは1人だけ」「関係ありますよ。俺の上司の今村が殺されたのと関わりがあるなら重大な話になります」


 戸吹も初耳だ。CMAF16の声色が変わった。「まきぽん、もっと詳しく。上司の今村さんの名前は?」話を覆す糸口かもしれない。「紗織さんです。今村紗織いまむら・さおり。四十代半ばで製造部長を「おっけ、おっけ。十分だよ。次は殺されたっていつの話?」「戸吹さんの所に初めて世話になる直前です。五月五日の昼、ナントカ会を名乗る連中が「ストップ。十分わかった。口ぶりからしてまきぽんは、上司の今村紗織さんとヤクザの今村のジジイが関係あるかも、と思ってるわけだね」「彼女、家族の話をあまりしてないんですよ。父は生きてるらしいが行方不明、もしそれが娘さんをヤクザにさせないように考えた結果ならと考え「優しいんだねー。プレゼン時間はおしまい! ちょっと待っててね」


 言う通り待ったら戸吹のスマホが鳴った。同じく槙田も。誰からの着信か、番号を読み上げるとすぐ隣にいる槙田の、戸吹の、互いに電話をかけたことになっていた。連絡先にも勝手に登録されている。もう一人、CMAF16の名前もあった。「困ったらいつでもかけていいよ。寝てたらグーパンチね」怪奇現象が起きているが、とにかく話だけは進んでいる。


「まきぽんには手を貸してもらおう。ついでだからやばたんにも助かるチャンスをあげる。2人セットで動いてね。そうでないと助けられないから。あとデリポはやっぱり行かないから安心して」


 何もかもが理解に苦しむ。ハルが懐かしそうににやけている。ともかく今村のどちらかとCMAF16の間に何かあると考えるには十分だ。「はるるんと大人の話をしようか。やばたんを助けられそうな誰かに目星は?」「クソババアだ」「多すぎ。自分で絞ってよ」「死に損ないで白髪のクソババアだ」「まだ多い。六人かな」「言わせようとしてる?」「まあね。ほら名前で呼んでよ。ブラック? ロータス? ペタル? あとはライオンも白髪が増えてきた」失言した手前、誰をクソババア呼ばわりしたか伝わってしまう。ハルは後始末の手間と戸吹の処遇を秤にかけた。「わかったよ、ブラックだ」「おっけおっけ、死に損ないのクソババアこと黒ちゃんに通しとく。向こうの都合もあるから早くても明後日だけど、3人に宿題を頼むからちょうどいいね」「宿題? 任せられない話か」「無理だね。あたしは動けないもん。まあ簡単なおつかいだから大丈夫だよ」


 戸吹の知らない人物が、戸吹の知らない事情で絡み合う。「ようし、中身が決まったから仕上げにお金の話をしよう。20万円ポッキリでいいよ」通帳のしまい場所を思い出している間にハルが進めた。「取り次ぐだけで二十万ではないな?」「そりゃまあね。サポートするよ」「徹底サービスも頼もうか。ケチらず百万だ」「わお。やばたんがそんなに大事?」「この流れは金になる」「なる前の種銭はどう?」「払うのはどうせ私じゃなく戸吹ちゃんだ。出世払いにしろ」「えー? 念のためだけど、出世払いは出世の見込みがなくなったときも支払い義務ができる」「わかってるさ。する側だよ、戸吹ちゃんは」「ふたつ特進は無しね」「ひとつずつだ。心配なら私に請求したらいいさ」「おけまる水産。じゃ100万ね。またねー」「古いな。仕事は任せたからな」


 電話が切れた。揃って気が抜けて椅子に身を預けた。換気扇の音がいやに大きく聞こえる。ただの電話が巨大な嵐に感じていた。ではお待ちかねの説明の時間だ。「ハル、何者なんだ今の」「言い残しなんかないよ。私が高校の頃にバイト先にいた先輩、本当にこれだけ。音声は若そうだが実際は四十六だ。動けないとかはどうせママさんバスケだから心配ない」電話が再び喋りだした。「惜しいねはるるん! パパさんもいるんだなーこれが」「勝手な覗き見はやめろ!」「めんごめんご。またかけるね」やはり操作もなく切れた。慣れっこなんだか、最初から取り決めでもあるんだか。


「とにかく二人にはあるクソババアに会ってもらう。説得でも取引でも、結果次第で警察を止める権限がある人だ。精神性は、さっきのと逆でプライベートが無難で仕事ではひどい」戸吹の頭の中で策が固まりつつある。ヒントは話の中にあった。法律は目先の個人を考えてないなら、名前も顔も知らない大勢に届く影響でいい結果になれば、しかも役目まで担えれば、いくらか目溢しが期待できる。都合よくチャンスが転がり込んできた。運気はまだ味方だ。「以上、今できるのは準備だけだから今日はおしまい。二人ともお風呂に入ってきなね」


 槙田は椅子から飛び上がった。「ハルさん、我慢させてました?」槙田は汗まみれの服を臭った。「夏の野球部たちが来たと思うくらいには。嗅覚疲労といって、自分の臭いは嗅ぎ慣れすぎてわからなくなるんだ。お風呂場はあっち。服は洗濯機に放り込んどいて。左のほうね」「恩に着ます」二層式洗濯機はすすぎと同時に次の洗濯をできたり、汚れが少ないものを先に洗えば同じ水を次の洗濯にも使える。ドラム式と比べて節水、高速、頑健、掃除が楽、安価など勝る面が多い。


「ヤスくんの服は旦那のお古で、戸吹ちゃんの服は私のを使いなね。洗濯は彼と一緒でいい?」「構わないさ、どうせ洗濯だ」「いい子ねえ、娘っぽくなくて」掃除道具を受け取り槙田の臭い残し討伐隊になった。気になりごとが多い日の単純作業は助かる。CMAF16の正体は、ブラックは何者か、宿題とは何を言われるか。もちろん気になるが行動は同じだから、すべて後回しにして今日を早めに終える。必要になったら改めて向き合う時間が来る。


 久しぶりに日が沈む前から風呂と夕飯とベッドが待っている。束の間の休息へ向かおう。今日が最後かもしれない。


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