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2076年5月7日木曜日、11時32分、池袋、あたら屋地下2階。ぬるい連中が来た。

 戸吹は新しいワンピースを着た。古い服とは違う。シースルー生地越しの肩や胸元で店員やすれ違う人の目線の軌道を愉しんだ。


 上機嫌で昼食どきだ。テイクアウトのカレーライスを地下二階へ持ち込んだ。誰にも邪魔されない開店前に。


 カレーといえば子供たちの間でいつでも人気で、もちろん戸吹もその一部だ。今なら理由までわかる。誰が作っても味と盛り付けが必ず同じになる。嫌な思い出と結びつけるにもカレーだけは不可能だ。どこでも同じ味と外見だから思い出は量と食器に結びつく。カレーは支配の道具にならない。カレーの個性は具材にあるから子供でも言葉にできる。あらゆる面でカレーライスは共通言語になる。今日からは好きな食べ物はカレーと答えられる。手の動きが一定だから無心で食べられるのも考えごとにいい。


 手鏡で新しい服を眺めて愉しむ。次は化粧を変えてみようか。先に髪型か。伸ばして束ねているから鬼太郎ヘア以外ならなんでもすぐにできる。あたら屋の仕事にも慣れて退屈になりだした。ちょうどいい変化だ。


 食べ終えた弁当箱をゴミ箱へ投げ込んだ。新しいジミ・ヘンドリクスで壁の穴を塞いだ。あとは開店まで気楽なお楽しみだ。鏡を見るばかりではいられない。ホルスターをつけて出し入れの練習をする。銃が服に引っかかると困るから、位置を調整して、巻き込まず、動きやすく。


 いい女には硝煙の香りが似合うものだ。店長の結婚の決め手でもある。参考にと惚気話を言わせるたびに、店長が将来を決めた日の、彼女と共に香りの感想を語り明かした思い出を聞く。倣って戸吹も一人前になるべく日々の研鑽を重ねている。一人前とは意思の持ち主だ。意思を通すには主導権が必要だ。主導権を得るにはまず黙って手を動かす。相手が自発的に喋らせてくださいと切り出して初めて話が通じる。言葉の主導権はいつでも受け取る側にある。力はパワーになる。物理的な運動エネルギーのフォースに対して権利や影響力がパワーだ。フォースを頼りにパワーを得る。解放の象徴だ。戸吹が子供の頃には何もなかった。基本的人権さえも。フォースなくしてパワーはない。権利は勝ち取った者だけが持つ。


 テレビ画面が変わった。ブーブーブーとアラームが鳴り、監視カメラの映像が映った。店長の操作なしで階段への扉を開けたらこうして異変を知らせてくれる。可能ならば片付ける。店長が犯人役での訓練の成果を出す日がついに来た。訓練は本番のつもりで、本番はいつも通りに。グロックに装填し、ウェポンライトの動作を確認する。ダットサイトは電源を入れておく。


 この部屋は特殊な扉で、外から入るときはふたつのドアノブを回して引く。手汗や下手な手袋では滑り、膝で下げられる取手はない。もちろん手が塞がっては回せない。二人以上で協力するには棚が邪魔になる。当店のドレスコードは五体満足で手荷物なしだ。相手の様子を見た上で必ず先制攻撃になる。


 カメラに映ったのは、記憶に新しい男、槙田泰晴だ。手は空で、アンフィビアンの大きさだけ左の懐が膨らんでいる。カメラ越しでもわかる大慌てで地下一階を駆け抜けた。やはり失敗したんだか、次の仕事でも押し付けられたんだか。幸か不幸か逃げられる程度には上手くやっている。礼儀を取り落としていなければいい再会になれた。


 水鉄砲のグロックで霧を吐き出した。酒蔵の換気口により陽圧の部屋だ。漂う霧は室外へ向かう。勢いよく開けたらさらに。槙田のご到着により扉が開き、霧が軌道を変えて彼の顔へ飛び込んだ。カプサイシンが目を刺激する。催涙スプレーとしては弱いが、狭い空間での数秒とはすなわち一生の残りすべてだ。しかし、今は殺さなくていい。縁がある。


 招いた空間を離れたら再び招くまでは客ではない。まともな商業施設なら看板で自動的に招いているし、ご家庭なら来ただけで無条件で客扱いする文化圏かもしれないが、今この場はどちらでもない。まともではない場でこそ態度はまともでなければならない。人々は白い目で無法地帯だの違法の世界だのと囁くが、本当は別法だ。異文化コミュニケーションにおいて、自分が勝手に従う分には構わないが、相手を自分に合わせようとしたら侵略の始まりだ。地域も人種も国籍も、親子でさえ文化圏を保障しない。思い込みは破滅の元だ。


「戸吹さん助けてくれ!」催涙スプレーを受けてなお真っ先に叫んだ。背広どころか表情筋にも皺が増えている。話は床を舐めさせてからだ。服を掴んで重心を崩し腕を遠くでてこにする。「ご存知ない? 勝手に入れば侵入者」窘めに聞く耳を持てばよし、持たなければ仲良く赤い化粧の始まりだ。槙田は「追われてる」と言い出した。詳細を尋ねるが早いか、テレビが再びブーブーブーと鳴いた。豚が多い日だ。


 次の客人は見るからに筋者だ。カメラ越しでもわかる。頭髪は丸刈り同然に短く、薄色の眼鏡と、これ見よがしのショルダーホルスターをひさげている。ただの酒蔵を検めているあたり買い物客でなく、罠を警戒した動きも明らかだ。棚は直進の勢いを削ぐように並んでいる。見通しが効かないのも合わせて時間稼ぎになる。店長の考え通りだ。戸吹も同じく、教わった通りに応対する。


 ひとつだけアドリブが必要になった。開店前なのにいないはずの客がいる。カウンター裏では隠し通せず、隠せば穏便には進められない。交渉の座を得るには、腕より口のほうが楽だと目にわからせるのだが、演出に使えるのは槙田だけだ。戸吹に学はないが考えは回る。せいぜい二分でも準備はできる。相手のお目当てが槙田なら、戸吹とは後腐れなくしたいはずだ。あわよくばお得意様になってもらう。


 槙田を取り押さえてカウンターに押し付けた。右手は背中に、左手は首の下に。男女が逆なら後背位になる。槙田は何するんだと文句を垂れるが、意外かもしれないが侵入者だ。言い訳を通すには腕っぷしが必要で、腕っぷしは先制した側が優位を持つ。期限は手放すまで。


 筋者はマスターキーを持たないようで銃を下ろして扉を開けた。見よ、この光景を。お目当ての男が簡単に手に入る状況だ。改めて銃を出すほどとはとても思えなかろう。


「おや。ようこそ、本当のあたら屋へ。お早いですね」


 筋者は整った背広を着ている。動くときに皺が見えるのでオーダーではない程度の高級品だ。同等の品を店長も持っているからよくわかる。下っ端より上、幹部より下。殺して片付ければ役目の多さで角が立ち、話で手打ちにするには権限がない程度の。微妙に面倒だが、同時に向こうも微妙に面倒な仕事への苦悩があるはずだ。権限が必要な話に持ち込めば勝機はある。


 人間は獣の前で武装を解かない。言葉を扱える人間だと示す。「すみません、取り込み中で」槙田を小道具に切り出した。獣が覚えて真似た言葉に見えたか、しばしの睨み合いを経て、筋者も口を開いた。「俺もそいつへの用で来た。都合もあるだろうがこっちに渡してちゃあくれねえか」乗ってきた。筋者は胸の貸し主としても知られている。あわよくば場末の武器商人との繋がりを作りたい。部下が銃を得られる機会になるし、違法性を種に金のなる木にもできる。「次第によってはお客様がたの信頼を失いかねません。ご事情を聞いても?」戸吹の視界には常に筋者の右手を捉える。銃を抜こうとしたら戸吹も抜く。言葉は弾より安く、弾は時間より安い。駆け引きは時間との勝負だ。


「話してやるさ。そいつはつい昨日、俺の恩人を殺した上に金庫まで荒らし回ったクソ野郎だ」筋者の言葉は往々にして、嘘にならない範囲で良心に訴える。否定すれば人でなしになるレトリックだ。クソ野郎とまで言われたら庇うにも根拠が必要で、ただの客に入れ込むほどの事情があるはずもなく、事情を知った上で庇えば組織ぐるみの敵対が始まる。手垢にまみれた手口なのでインターネットでも無数に飛び交う。戸吹には予習がある。政治に物申す中高年たちを見て、煽って遊ぶ卑屈な連中を見て、二手先三手先の法則性を身につけた。レスポンス・バトルは自滅によってのみ決着する。誰もが自分こそ正しいと主張するのだから、相手を負かすのは不可能だ。技術に乏しい弁慶どもを脱落させる第一予選の始まりだ。


 まずは目で驚きを語る。槙田と筋者の顔を往復させた。「本当ならお得意様にはしておけませんね」本当じゃないかもしれない話にはさりげなく保留で逸らす。「ですが渡す前に言うべき話ができました。聞く所によると彼、どこかの組と関わりがあるんだとか。すでにご存知なら早いですが、万が一にでも望まぬ対立を始めさせてはたまりません」槙田は自称だがナントカ会の指示を受けた男だ。見た目は下っ端や鉄砲玉だが可能性だけでも慎重にさせるに十分な名札になる。幹部でもなしに勝手に抗争のきっかけを作れば左手に履歴が残る。少し上程度で満足なんかするものか。小指にはまだ役目がある。


 友人には聞きたい話をする。敵には聞くべき話をする。敵は協力を期待していないからだ。無視して殴れば早いのにあえて殴らない理由は友情か利益か必要性だ。欠けたら言葉だったものはオウムの求愛に成り下がる。狙い通り、筋者は銃より言葉を続けた。


「今村のジジイか?」槙田がとろくさいので揺すって急かした。肩を異常な方向へ曲げて汚いうめき声に続く言葉を待つ。「違ったな。具体的な名前は聞き逃したが、とにかく別の名前だった」筋者は鼻で笑った。いざ本物を前にしたらオシッコを我慢するだけで精一杯の大きな子供は世の中にいくらでもいる。しょうもない答えは自らをしょうもない男だと示したのと同じだ。無知は最悪の弱みだ。


 戸吹にもまずい結果になった。仕事をしたのだから当然、相手の名前を覚えなおしたとばかり思っていた。庇いきれないかもしれない。君子は豹変する。状況が変われば合わせて態度も変える。豹変できなかったコンコルドは歴史に汚名を残した。コンコルドから学ばなかった小さな自惚れ屋は歴史にさえ残らず破滅した。一貫性と執着の区別を失った者の没個性的な末路だ。同じ轍は踏まない。損を承知で、ましな損を残す。四万円以内で片付けば儲け物だ。


「なあお姉ちゃん、俺は仕事を終えていいか?」これ以上は望めない。槙田の襟首を掴み、湿った感触を堪えて立たせた。「ええもちろん。銃が左胸にあるようなのでお気をつけて」「おい! 待ってくれ戸吹さん!」槙田は暴れるが、いかに筋力があっても使い方の問題だ。二の腕の筋肉だけで遠くにある手首を動かすには第三種てこの位置関係になる。支点は肩関節、力点は肘まわり、作用点は手首。握力は女子小学生でさえ20kgを超えるので、支点からの距離が5倍なら、単純計算で100kgの力で押さえつけたのと同じだ。片手で相撲取りを持ち上げられるなら降り解ける。


 しかし本当に引き渡していいか。答えはもちろん否、店長からもオーナーからも、勝手にヤクザに協力するなと口酸っぱく言われている。自分に非があっても協力するな、非が無かったことにして協力するな、些細であっても協力するな。四万円ではとても片付かない面倒ごとが始まるからだ。相手が信用した瞬間が最大のチャンスになる。表向きだけでも信用し合った素振りを見せる制約の有無が小悪党と筋者の差だ。この男はまだ小悪党あがりの筋者見習いだった。制約を念頭においた立ち回りが身についていない。


 引き渡す瞬間に戸吹の右手が死角になり、筋者の左手を巨大な荷物が塞ぐ。見えないのは恐ろしい。彼は何が起こったかもわからぬまま衝撃を受ける。


 戸吹はグロックを抜き、筋者の脇腹へ放った。鍛えても筋肉をつけられない。骨もない。柔らかな腎臓を越えて、胃を越えて、肺で寄り道をして、心臓へ辿り着く。外傷こそ小さな穴でも体内は壊滅的だ。ホロウポイント弾が体内に入れば、まず圧力で変形してキノコ型になり、わずかな硬さの違いをさらに受けやすくなり、超音速の運動エネルギーが体内で暴れ回る。生き残れるのは奇跡的に肺と心臓と大動脈が無傷だった場合だけで、元気に生き残れるのは追加で腎臓と肝臓と脾臓と胃と腸が奇跡的に回復できた場合だけだ。《《つまりこいつはもう助からない》》。


 念のため倒れた頭にもう二発。喉の柔らかな入り口から脳を貫いた。つむじが膨らんだのでもう安心だ。硝煙の香りと少しの金属質な臭いが化粧の仕上げになる。ドアに寄りかかられては通行の邪魔なので壁のほうへ引き摺った。余計な指紋をつけないように、余計な乱れを残さないように。槙田は放心してその場に座り込んで眺めていた。いつまでも腑抜けた男だ。文字通り臓腑が抜けた男の仲間入りをする日も近かろう。


 床や壁は汚れても張り替えられる。そのための木の板だ。安くてそこそこ軽く、ノコギリで小さくして気軽に燃やせる。煙は酒蔵の排気口にあるフィルタで消臭するし、もし見えても、いつものように燻製肉を作っている程度にしか思わない。


 死体の処分は店長への連絡だ。戸吹には初めてなのでこれ以上は語れない。一応、隠蔽ではなく引渡しと聞いてはいるが、誰に渡すのか、渡した後でどうなるのか、想像の材料も見つからない。真面目に見えてお気楽な店長に裏社会とのつながりがあるのか、あるいはオーナーに? 人は見かけによらないと言うが、裏を知るのはまだ先にしたい。戸吹にはもっと学びたいものがある。


 気を緩めていたが再びブーブーブーと鳴いた。今度は二人のチンピラが画面に映った。カジュアルな服装に情けないスマホ首と半開きの口、贔屓目に見ても使いっ走りだ。知らなかったがあたら屋は高評価のレビューが並ぶ豚小屋だったようだ。しかし食べられログを頼るばかりでは情報通にはなれない。サクラに囲まれた注文の多い料理店が待っている。


「槙田さん、銃を。カウンターに隠れたら横を取れるので、チュートリアルを始めましょう」


 民主主義の時代では気軽には追い払えない。人を殺す手段、ゾルトラークとも呼ばれる武器を誰もが買うだけで手に入れられる。不本意だが丁寧に片付ける。作戦を共有した。


 入り口から見て正面がジミヘンで、左にカウンターがあり、右に筋者を座らせる。子豚たちは餌を見つけて頭がいっぱいになるから、カウンターの奥側から戸吹が飛び出して撃つ。一人目は片付くが二人目が撃ってくるから、戸吹は引っ込んで、追ってきた側面を槙田が撃つ。半ば子供騙しだが相手は子豚だ。


 元より戸吹だけで片付く状況なのに槙田にバックアップを任せるのは役目を与えるためだ。災害での教訓を調べたことがある。人は役目があれば強く立ち向かえるが、何もできずにいればやがて心を病む。安全な場所でさえ。受けた仕打ちの手酷さより何もできない無力感が決め手になる。まさに今の槙田そのものであり、戸吹が鬱病と無縁だった理由だ。


 今は催涙を使えない。相手が二人では片方が引き受けているうちにもう片方が情報を持ち帰る。戸吹はグロックを持つ手を祈るように重ねた。槙田の間抜け面が見えた。本当に祈っていると思っている様子だがこれは近距離戦向けの構えだ。屋内に高低差はなく、弾道に奥行きはないから、残る左右だけに集中する。両手の位置関係はゲーム機を持つのと同じで常に水平を維持する。左手は中指と薬指に力を込めて銃を固定する。ちょうど右手の合谷に押し付けてより強固に受け止める。上下方向で力を釣り合わせて、銃を傾けて左目から照準器を隠す。視野と狙いの両取りだ。銃が体に近いので関節の可動域の制限まで利用して安定させる。


 扉が開く。二人の豚が予想通りに餌に飛びつくと扉は自重で閉まる。先に狙うのは右手が塞がっているほう、戸吹の銃が豚にニキビを増やした。背骨を水平にするのが似合いだ。もう片方は右手に余裕がある。咄嗟に固まるだけの本物のクソガキだ。揺籠に住んでいれば元気に生きられたかもしれない。不細工な顔にニキビを増やした。念のため、二人にも喉から脳へ一発ずつ。何にでも使える右手は何にも使えず役目を終えた。


「失礼。予想より抜けてたから槙田さんの分も獲ってしまいました」槙田は苦笑い半分、安心半分の顔をしている。自分で撃たずに済んで喜ぶなら、発端の湿った仕事(ウェット・ワーク)も本当に槙田がやったものか怪しいものだ。罪をなすりつけるために同じ位置へ向かわせただけとも考えられる。


 さて、不本意ながら情けない男と一蓮托生になった。巨大な肉の塊が三人分、概算で200kgもある。三食ステーキ換算で一年分だ。処理が遅れたら別の問題と共に襲いくる。処理するには足手纏いな男がいる。三重苦だ。「槙田さんはどうしましょう」顔を覗き込んだ。「よしてくれ、目がキマってる」「いつも通りですが?」「違う。怖くなってるよ、今は」


 槙田の言葉を受け取る程度の冷静さは残っていた。昂揚していた。結果を望み通りに選べる現状に。落ち着く方がいい。深呼吸だ。吸って、止めて、ゆっくり吐く。呼吸は意識と無意識のどちらにもなれる稀有な特性がある。脳へ送り出す酸素を一定量に、その量で過不足ない脈拍に、その血流で過不足ない活動に。人体は様々な観測により状況を理解している。


「失礼、お客様に粗相はしませんよ。ほら、目もこんなにぱっちり」「俺はあんたが目と脚をあと六つずつ隠してると思ってる」女が待ち構えている、さながら蜘蛛だ。「喉が渇いたなら屋上のプールをどうぞ」「よしてくれ、カナヅチなんだ」


 店長への電話で「大荷物が三つも届いた」と伝えた。昼間の彼は売り込みと称して友人とスポーツに興じている。すぐには来られないが放置して、今日は休業にする。喫緊の話は情報屋に通しておく。店長からの内容を槙田にも伝えた。壁や床に張った木の板が血を受け止めるのはわかる。他がなぜ大丈夫なのか分からない同士でも店長が言うからには信用するしかない。


 指示の通りに安置し休業の札を出した。戸締りをして裏手の車へ乗り込んだ。助手席に槙田を乗せて、戸吹がクラッチとアクセルを踏む。小ぶりなバンの大発進だ。念のため遠回りして尾行向きの通りを避けた。住宅地には路駐するほどの空間がなく、徒歩のポケモントレーナーもいない。槙田を追ってきた連中は尾行に熱心ではないんだか、別のどこかにいるのか、確信もなく語るべきではなさそうだ。戸吹も狭い道を慎重に進むうちは余裕が出なかったが、久しぶりに大通りに出てからはアクセルを踏み放題だ。荷物の乗り心地を優先した車は人間にとっては大揺れで、人間中心主義へのアンチテーゼとして稚拙ながら機能している。


「なあ戸吹さん、本当に免許を持ってるのか?」「ご安心ください、ポイントはついていませんよ」乱暴な運転への不平は恐怖に変わった。「前科じゃなく免許を持ってるかを言ってくれ」懇願も虚しく戸吹はにやにや笑いでギアを上げた。槙田が祈る番だ。よりにもよってマニュアル車なので交代したら無免許だ。結果を左右するのが自分の行動にならないときは神頼みだけが限界になる。蛸壺に無神論者はいないとはまさに今だ。戸吹ヤバイと名乗るヤバい神が免許を持っていると願う。いっそ飛び降りるほうが怪我だけで済んで楽かもしれない。


 槙田にとっては嬉しい話もある。目的地とする情報屋の家はさほど遠くなく、徒歩でも十五分そこそこで着く。終わりが見えなくても耐えられる。戸吹にとっては残念な話もある。ドライブを楽しむには状況と相手が悪い。情報屋は準備が早い。追跡の可能性を下げる程度にのみ遠回りをして五分後、やや遠くの駐車場に停めて歩いた。車に位置情報を仕込まれても特定しきれないように。念には念を、情報を扱うだけに叩き込まれた。必ずここを使えと指定された月極グループの駐車場だ。どこからか観測できるらしいので、やけにげっそりした男が助手席から出てくる様子も見ているに違いない。


 五月のぬるい風の中を歩く。新しいワンピースを日光の下で見せる一人目は槙田になり、二人目は現れなかった。いい結果ではあるが、少しだけ寂しい。

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