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第4話「エレベーターで交わる秘密と沈黙」




ルクシア本社・17階の会議室。

ガラス張りの室内に、数名の重役が静かに揃っていた。


壁掛け時計が、午前10時を指す。

橘理沙副社長は、資料の一枚目をめくりながら、深く息を吐いた。


彼女の視線の先に座るのは、信頼の厚い五人――


専務取締役・朝比奈豪

常務取締役・羽田輝彦

社長専属秘書・宮原絢、

副社長副秘書・市原希実

人材法務管掌取締役・橋爪佳子。


いずれも、社内の根幹に携わる精鋭たち。

その場に、静かに言葉が落とされた。


「……本日は、私からご報告があります。

氷室結衣社長について――個人的かつ重要な事情について、

社長の意向により、“重役の皆さまにのみ”お伝えさせていただきます」


理沙は資料を配らず、言葉だけで語った。


「……結衣さんには、“子ども”がいます。現在、複数名の育児を行っており、

そのため“現場から身を引く”という選択をとっています」


会議室の空気が、瞬時に変わった。


「……子ども?」「まさか……」


朝比奈が最初に呟き、羽田が驚きを隠せない表情を浮かべる。


「噂では……確かに“出産したのでは”という声もありましたが……」


「真実です。詳細――特に父親や経緯については、社長本人からも“話さないで欲しい”と強く希望されています」


理沙の言葉は、揺るぎなかった。

強くも、どこか切実な響きがそこにはあった。


「……この件は、“社内に一切明かさない”でください。

今後も社外を含めて、表向きには“引退”“体調不良による療養中”で通します。

私がすべての表舞台に立ちますので、ご協力をお願いします」


沈黙の後――

橋爪がそっと口を開いた。


「……母になるという選択。

それを“隠さねばならない”という事実に、心が痛みますね」


「……ええ。でも、彼女はそれでも“隠してでも守りたいもの”を手に入れたのです」


誰もが静かに頷いた。

この部屋だけに留められた“真実”が、深く胸に刻まれていく。


***


同じ日の午後。

ルクシア本社・1階ロビー。


エレベーター前に立つ赤井美波の前で、ひとつの音が鳴った。


「……ん?」


エレベーターの扉が開き、そこには――ラフなジャケット姿の瀬川陽翔が立っていた。


「……陽翔!? あんた、久しぶりに会社来たの!?」


「あ、美波。久しぶり。……あれ? 翼とあかりも一緒?」


「全員そろってるとか、奇跡じゃん」

村瀬翼が笑い、進藤あかりも小さく手を振った。


「みんな、コスメ事業の会議で?」


「うん。新商品ラインの“再設計案”に関わってて。あんたも?」


「今日は“デザイン監修の意見”として一席もらってるんだ。資料だけ渡すつもりだったけど、せっかくだから覗くよ」


久々の再会に、少し照れくさそうな空気が流れる。

だがその一方で、誰もが“陽翔が出社してきた理由”に薄く気づいていた。


“彼が今、会社で働いていないこと”を――

そして、“社長室の扉の奥に、秘密がある”ことも。


***


17階のコスメ事業部合同会議。

ホワイトボードには、“秋のシーズンカラー再提案”と題された資料が投影されていた。


「――新ラインの“深紅と金”の展開ですが、

マザーズ層の購買意欲と乖離があるとのフィードバックが出ています」


「なら、“あえて逆張りで”出してみるのはどう?

子育て中の母親だって、ド派手にきらめきたい日があるでしょ?」


あかりの発言に、美波が頷き、村瀬がまとめに入る。


「……確かに。ターゲットに“母親”って書くと無難になるけど、

逆に“母でも華やかであれ”っていうメッセージ性が刺さるかも」


会議は静かに熱を帯び、陽翔は隅の席からうなずいた。


(――あの人たち、本当にすごいな……

現場を離れて1年になるけど、やっぱり刺激される)


「……“母”であることが前提にならない社会」

「でも“母”であることを誇っていい商品」

それは、氷室結衣が今、まさに実践している生き方だった。


***


会議終了後。

再びエレベーターの前に立った陽翔、美波、翼、あかりの4人。


「じゃ、あたしたちは6階」


「俺は3階。陽翔は……?」


「40階」


一瞬、静かになる。


「……やっぱり、そこなんだね」

「うん。じゃあね、みんな。いい会議だったよ」


「うん。またいつか、がっつり仕事で会おう」


「それまでに結衣さんにも、よろしく」


陽翔は微笑み、何も言わずにエレベーターに乗り込んだ。

扉が閉まる――その一瞬、3人はそっと目を細めた。


“社長の秘密”は、言葉にしなくても、彼らの心に刻まれていた。


***


──そしてその夜。


都内の夜は雨。

静かな窓の外に、遠く高層ビルの灯りがぼんやりとにじんでいた。


40階のリビングでは、陽翔が双子を寝かしつけたあと、キッチンで片付けをしていた。

氷室結衣は、ナイトガウンに着替えたまま、小さなイヤホンを耳に差し込んでいた。

相手は、いつもの声だった。


「……今、話しても大丈夫?」


橘理沙の声は、やわらかく、しかしいつもと同じ芯の通った調子だった。


「ええ、もう子どもたちも寝たわ。

今日の会議、……どうだった?」


少し間をおいて、理沙は静かに言った。


「正式に、“重役5人”に伝えた。

朝比奈専務、羽田常務、宮原秘書、市原副秘書、橋爪取締役――全員がいる場で、

あなたに子どもがいることだけを、事実として」


結衣はしばらく何も言わなかった。

イヤホンから聞こえる理沙の息遣いだけが、部屋の空気を震わせる。


「反応は?」


「驚いてた。……でも、全員が納得してた。

“彼女が秘密にしたがっているなら、その意思を守ろう”って、

橋爪さんが最初に言ったの。誰も否定しなかった」


結衣は、ゆっくりと目を閉じた。


「……ありがとう、理沙。私が言わなくても、あなたが全部、動いてくれるから……

私は、今こうして母でいられる」


「違う。私はただ、あなたの“盾”でいると決めただけよ。

あなたが前に進む限り、私はその後ろにいる。10年前から、そう決めてた」


「……そうね。そうだったわね」


電話越しに、ふたりの間に長い沈黙が流れた。

けれどそれは、不安でも、迷いでもなかった。

“信頼”という無言の契約が、しっかりと息づいている証だった。


「……そろそろ寝なさい、結衣。明日も早いんでしょ」


「ええ。陽翔の朝は、もう育児という名の“勤務開始”だもの。私も一緒に起きるわ」


「いいパートナーね」


「ええ。まったく、頼もしい“専務補佐”よ」


ふたりの声が、少しだけ笑いに変わった。


そして、ふたたび結衣の声が静かに落ちる。


「……理沙。

あなたが“この10年で一番、守ってくれたもの”はね――

私の地位でも名声でもなく、“母であれる時間”だったわ。

本当に、ありがとう」


「……どういたしまして。

でも、私はまだ守ってる途中よ。……最後まで、私の役目を果たすわ」


その言葉に、結衣はふっと息を漏らして笑い、

「おやすみ」とひとことだけ告げて、通話を終えた。


窓の外の雨はまだ止まない。

だが、結衣の心には、確かな灯がともっていた。


(つづく)



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