第3話「エレベーターでの偶然」
朝からしっとりと曇り空が広がる都心。
在宅ワークに切り替えてから、すっかり自宅での生活に慣れた陽翔にとって、今日は珍しい「出社日」だった。
それは、コスメ事業部とマーケティング部の合同企画会議――新商品のコンセプトとキャンペーン案を詰める、全社的にも重要なプレゼンが予定されているからだ。
シャツに袖を通し、ネクタイを軽く締め、久しぶりの革靴の感触を足に覚えながら、陽翔はオフィス街へ向かった。
自宅から会社までの道のりは以前と同じなのに、こうして現場へ足を運ぶのは、どこか別世界に入るような感覚を覚える。
――出社するたびに思う。
ここは、自分の「仕事場」であると同時に、妻の結衣が社長として背負い続けてきた場所だ、と。
エントランスの自動ドアが開き、涼やかな空調と淡いアロマの香りが迎える。
その瞬間、社内のあちこちから「お久しぶりです」と頭を下げられるが、陽翔はいつものように控えめに会釈を返す。
長く現場を離れていても、彼の名はまだ「期待の若手エース」として覚えられているのだ。
そして――エレベーターに向かったその時。
「……あれ? 陽翔じゃん!」
振り返った先に立っていたのは、同期の赤井美波。
彼女の後ろから、村瀬翼と進藤あかりも顔を覗かせた。
「え、ほんとだ! 全然見かけないから、海外でも行ってるのかと思った」
「まさか、在宅って噂はホントだったの?」
陽翔は思わず笑い、首をかしげる。
「……まぁ、そんなところ。色々あってな」
言葉を濁したのは、この3人が唯一“家族の秘密”を知っているからだった。
――自分が結衣と結婚していること。
――三つ子と双子、計5人の父親であること。
それは社内のほとんど誰も知らない、極秘中の極秘だ。
エレベーターの扉が閉まると、自然と4人だけの空間になる。
「元気そうでよかったよ」
「相変わらず顔色いいし」
「でも……少し痩せた?」
美波とあかりがからかうように笑い、翼はただ穏やかに頷く。
「まぁ、父親業で痩せるのも無理ないか」
陽翔は肩をすくめた。
エレベーターの表示が「28」を過ぎ、「30」を指す。
降り立った先は、ガラス張りの会議室が並ぶフロア。
今日はここで、全社注目の新商品開発プレゼンが行われる。
会議室の中はすでに熱気に包まれていた。
モニターには春夏の新色ラインナップが映し出され、壁際には各種サンプルやテスターが整然と並ぶ。
プレゼンテーターがスライドを切り替えるたび、コンセプト、ターゲット層、プロモーション戦略が矢継ぎ早に提示される。
SNSキャンペーン案の話題になると、若手社員が積極的に意見を出し、会議室は真剣さと笑いが交差する独特の空気に包まれた。
陽翔も短く意見を述べ、マーケティング目線からの提案をいくつか出す。
かつて現場で一緒に走っていた同期たちが、その言葉に頷く様子が少し嬉しかった。
やがて会議は終了し、資料を片付けながら会議室を出る。
「じゃ、またな!」
「お疲れー!」
そんな軽いやり取りを交わし、エレベーターで1階へ向かう途中で3人と別れた。
陽翔は40階の社長室兼自宅へ。
美波・翼・あかりは、それぞれの部署へ戻っていった。
――その夜。
橘理沙副社長は、自宅にいる結衣へ静かに電話をかけた。
『……結衣。今日の重役会議で、例の件を話したわ』
『例の件……?』
『あなたにお子さんがいること。もちろん相手の名前は言ってない。』
その日の午後、理沙は重役5人――朝比奈豪専務取締役、羽田輝彦常務取締役、宮原絢社長専属秘書、市原希実副社長副秘書、橋爪佳子人材法務管掌取締役――だけを集めた密室会議を開いた。
噂で耳にしていた重役たちは、理沙の口から事実を聞かされると、一様に目を見開いた。
しかし、理沙はすぐに念押しする。
「これは社員には口外しないでください。本人の希望です」
重役たちは静かに頷き、それ以上は何も追及しなかった。
電話口で理沙の声が少しだけ柔らかくなった。
『……守るって決めたから。あなたの“母”の顔も、ちゃんと』
『ありがとう、理沙』
夜の静けさの中、ふたりの間に、言葉以上の信頼が流れていた。
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