第2話「在宅社長の朝は静かに始まる」
午前5時25分。
世間のほとんどがまだ眠っている時間、都内高層タワーの一室では、電子音ではなく小さな寝息とミルクの匂いが朝を告げていた。
「……ん……」
氷室結衣は目を開けると、隣で眠る陽翔に軽く肩を揺すられた。
「ひまりが起きた。ミルクの時間だな」
「悠翔は……?」
「まだ寝てる。いつもの通り、“妹が先に起きる”パターンだ」
結衣は小さく笑い、ベッドサイドのナイトライトをつける。
手早くローブを羽織り、ベビーベッドに向かうと、陽葵の小さな目がぱちぱちとこちらを見上げていた。
「……おはよう、ひまり。今日も早起きさんね」
ふにゃ、とした笑顔。
母としての朝は、こうして“デスク”ではなく“抱っこ”から始まる。
***
6時10分。
リビングでは湯気の立つミルクとトースト、そしてテーブルの隅に配置された――“仮社長卓”が静かに稼働しはじめていた。
そこには、モニター3枚が並び、橘理沙からの報告書、KPI推移グラフ、開発チームのデイリーログがリアルタイムで表示されている。
「理沙、相変わらず動きが早いわね……もう今月分の投資先候補を出してきたわ」
結衣が呟くと、陽翔がトラックボールマウスを動かしながら横で言った。
「理沙さん、今朝4時台に“おはようございます”送ってましたよ」
「彼女、絶対寝てないわね。優秀すぎて怖いわ……」
「でも、怖さではうちの“隠れ社長”も負けてない」
「言ったわね?」
ふたりは軽口を交わしながら、それぞれモニターと哺乳瓶を扱っていた。
***
7時45分。
陽葵と悠翔が朝食を食べ終え、陽翔が絵本を読み聞かせている頃、
結衣は仮社長卓に戻り、イヤホンマイクを装着する。
「――はい、理沙。音声だけ入ってる。こちらは今、“育児モード”中だけど、資料は確認したわ」
《了解。今日の経営報告、要点を3分でまとめて報告します》
橘理沙の声は、いつも通りに静かで的確だった。
《昨日時点で営業部の新規開拓が月間予測比+12%。
ただし既存顧客のリピート率がやや低下気味。
その分、CS対応部門のリソース追加を検討中です》
「……先に“定着率”の要因分析を優先して。定性データ、添付できる?」
《すでに送りました。社長アカウントに転送済みです》
「ありがとう。10時には子どもが昼寝に入る予定だから、そのタイミングで詳細分析に入るわ」
《承知しました、結衣さん》
会話が終わると、仮社長卓のモニターが静かにスリープに入る。
結衣は立ち上がり、リビングに戻った。
そこでは、陽翔が悠翔を膝に乗せながら“りんごかもしれない”を読み聞かせていた。
「……なんで“りんご”じゃないの〜って悠翔が怒ってるんだよな。なあ?」
悠翔がぐずるのを、陽翔がやさしく受け止める。
その光景を見ながら、結衣は息を吐いた。
「……こうして、仕事と育児が隣り合うなんて。昔の私から見たら、考えられなかった」
「でも今のあなたは、間違いなく“両方の社長”ですよ」
「“隠れ社長”と“家庭社長”ってところね」
ふたりは笑い合い、双子の髪を撫でた。
誰に知られなくてもいい。
誰に称賛されなくてもいい。
けれど、確かに、ここに“動かし続けている世界”がある。
“企業の舵”と“家庭の羅針盤”――
その両方を握る、ふたりの朝は、こうして静かに始まっていた。
(つづく)
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