第1章 千夜子の父・治郎蔵の転生
【伊崎治郎蔵の旅立ち、転生の審判】
進が過去のすべての傷を「誰かのための有益な経験」であったと悟り、魂の荷物を降ろしたその時。
霊界のさらに上層に位置する「転生の門」の前に、ひとつの力強い魂が佇んでいた。
伊崎治郎蔵。
千夜子の実父であり、進の祖父にあたる男である。
彼は松本市の実家にいた頃、53歳という若さでこの世を去った。
生前、経済的に非常に苦しい状況に置かれながらも、職業人として、父親として、必死に汗を流して泥まみれで励み続けた男だった。
治郎蔵はあの世に旅立った後も、つい最近まで幽界から霊界に上がってきた愛娘・千夜子を優しく導き、彼女の主護霊としての霊格を極限まで引き上げる手助けをしていた。
そして「もう、お前なら大丈夫だ」と、千夜子の前を静かに去っていったばかりだった。
その治郎蔵に、ついに天から「新たなる現世への転生」の命が下ったのだ。
神殿の大鏡の前に集まった千夜子と智代は、指導霊と共に、転生のベールに包まれていく治郎蔵の魂の輝きを静かに見つめていた。
千夜子の瞳からは、実父への尽きない感謝の涙が溢れていた。
「お父ちゃん……。私を導いてくれたあと、すぐに向こうへ旅立ってしまうのね。今度はどんな人生を歩むのかしら……」
【徳積みと業、前世の通信簿】
千夜子の呟きに応えるように、指導霊が光の杖を静かに地に突き立てた。
神殿の床に、治郎蔵が53年の生涯で残した「光と影の軌跡」が、黄金と灰色の幾何学模様となって鮮やかに浮かび上がる。
「主護霊・千夜子よ。あなたの父、治郎蔵の魂は、実に見事な『徳積み』と、それに見合うだけの深い『業』を現世に残していきました。これらがすべて、彼の来世の設計図へと影響を与えるのです」
指導霊はまず、まばゆく輝く黄金の光を指し示した。
「治郎蔵が生前、経済的な困窮の中で見せたあの猛烈な働きぶりは天に届いています。何より素晴らしいのは、彼が『被差別部落の人々や、在日外国人の人々を、一切の偏見なく、別け隔てなく雇い、共に泥にまみれて生きていく場所を与えた』ことです。当時の現世の強烈な差別の風潮の中で、彼らを同じ『人間』として尊び、汗を流した。この圧倒的な慈愛の徳は、来世において『強固な人望と、困ったときに必ず誰かに助けられるという素晴らしい守護の縁』となって彼を支えるでしょう。彼は次の人生でも、国境や境遇を超えて多くの人々に慕われるリーダーの器となります」
「お父ちゃん……やっぱり、あの働き方は間違っていなかったのね」
千夜子は誇らしさに胸を詰まらせた。
治郎蔵の背中はいつも小さく、生活は苦しかったが、その魂の根底にあった「優しさ」を天は一寸の狂いもなく見つめていたのだ。
しかし、指導霊の表情がわずかに引き締まり、今度は灰色の重い光に杖が向けられた。
「しかし、人間としての未熟さもまた、等しく因縁として残る。治郎蔵は外の人間にはあれほど公平で優しかった一方で、『家の中では、自らの心の余裕のなさゆえに、嫌いな息子や娘たちに対して酷く辛く当たってしまった』。その肉親への感情の偏りと理不尽な抑圧は、彼の魂に深い『業』として刻まれました」
【来世の配役、凸凹を生き直す誓い】
指導霊の言葉に、智代もまた自らの過去を省みるように深く頷いた。
「この家の中の業は、来世において、彼自身が『家族関係の不器用さや、身内からの理不尽な応対に悩まされる』という修行の環境として配属されます。かつて自分が子どもたちに与えた痛みを、今度は自らが『受け手』として、あるいは『身内の愛し方に悩む者』として体験し、昇華しなければならないのです。
さらに、彼もまた強いこだわりという『凸凹』の特性を持っていました。来世の治郎蔵は、前世の徳によって『社会的には多くの人に愛される恵まれた環境』を得ながらも、家の中では『家族との心の距離感に足掻きながら、本当の愛を学び直す』という、魂の高度な演習に挑むことになります」
大鏡の向こう、転生の門の光の中に立つ治郎蔵の魂が、千夜子たちの方を振り返ったような気がした。
その魂の輝きは、自らの徳も、そして未熟だった業もすべてを受け入れ、「今度こそ、すべての人を、家族をも等しく愛してみせる」という静かな決意に満ちて、誇り高く明滅していた。
「お父ちゃん、いってらっしゃい」
千夜子は両手を胸の前で合わせ、最高の祝福の光を送り送った。
「あなたの流した汗も、私たちへの不器用な愛も、私は全部知っているわ。次の人生でも、あなたらしく、泥まみれで輝いてね」
【血脈のバトンは現世へ】
治郎蔵の魂が完全なる光の渦へと消え、新たな命として現世へ下降していくのを見届けた神殿に、再び静寂が戻ってきた。
「見事な旅立ちでした」
指導霊が静かに微笑む。
「治郎蔵が転生へと向かったことで、伊崎の血脈の古い世代の因縁は、また一つ綺麗に清算されました。彼が前世で部落の人々や在日外国人の人々を別け隔てなく愛したあの『境界線のない慈愛』の精神は、今、現世の進が『凸凹のある若者や、現場で苦しむ名もなき公務員たちを、タロの姿を借りて無条件で救う』という形で、美しく受け継がれています。血は、ただ呪いとして流れるのではない。こうして徳のバトンとしても、巡り続けているのです」
「はい……」
千夜子と智代は、互いの手を今まで以上に強く握りしめた。
鏡の向こう、令和8年の初夏。
進は書斎で、美智子が淹れてくれたお茶を飲みながら、パソコンの画面に向かっていた。
タロのパペットをはめた右手は、驚くほど軽やかだ。
進の胸の奥に、なぜだか分からないが、言葉にできないほどの温かいエネルギーが、満ち潮のようにじわりと湧き上がってくるのを感じていた。
まるで、目に見えない巨大な応援団が、自分の背中を力強く、優しく押し出してくれたかのように。
「よし、美智子さん。今日もタロと一緒に、次の動画の収録を始めよう。現場で孤独に頑張っているあの子たちのためにね」
「ええ、進さん。がんばって!」
凸凹だらけの人生を歩んできた男が、犬のぬいぐるみを相棒に、現世の迷宮を照らし出す。
その進の頭上には、転生へ向かった祖父・治郎蔵の祈りと、主護霊・千夜子、そして智代の放つ、どこまでも美しく揺るぎない黄金の守護結界が、未来の受講生たちの行く末をも、赫々と照らし出し続けるのであった。




