第7章 進のわだかまりを解く時間
【魂の演習、有益なる過去】
霊界の最高層に位置する神殿で、主護霊・千夜子と智代は、指導霊からある極めて重要な「天命」を授かっていた。
「千夜子、そして智代よ。あなた方には今、進の魂の器を完成させるための最後の『使命』があります。進は、過去の失敗や理不尽な苦しみを、いまだに『できれば忘れたい暗闇』として心に燻らせています。しかし、天の配剤に無駄な経験などただの一秒も存在しません。【すべての過去は有益であり、必ず誰かの救いになっている】という冷厳たる事実を、進の現世の五感を通じて覚醒させるのです。さあ、因縁の糸を手繰り寄せ、一つの『演習』を現世に展開しなさい」
千夜子は深く頷き、智代としっかりと手を結んだ。
二人は霊的な集中力を極限まで高め、進の過去のタイムラインから、かつて京都の学習塾で種を蒔いた「ある少年の記憶」を引き揚げた。そして、現在の進の歩む動線へと、その因縁のバトンを持つ男をそっと引き寄せたのである。
【歴史の断片、時を超えた再会】
YouTubeチャンネル「タロの3分法務講義」を開設してから数ヶ月。
進の地道な配信は、現職の公務員や試験に悩む受験生たちの間で少しずつ反響を呼び、登録者数も着実に増え始めていた。
タロのパペットをはめると、不思議なほど無私になれる。
そんなある日のこと。予備校の廊下を歩いていた進は、一人の男性に呼び止められた。
「……あの、伊崎先生……ですよね?」
見知らぬその男性は、企業研修で宅建士講座を受講している生徒だという。
進が宅建の講義をメインに担当していたのはもう何年も前のことだ。
なぜ今の自分を知っているのかと不思議に思い尋ねると、男性は懐かしそうに目を細めた。
「先生、覚えていませんか。僕、京都の学習塾で先生に習っていたんです。もう二十年以上も前になりますが」
その言葉に、進の脳裏に京都の古い教室の風景が鮮やかに蘇った。
「ああ……あの時の。ずいぶん立派になられたね」
彼は、ある不動産会社に入社し、もうだいぶ経つと言う。
今年こそは宅建試験に合格したいと、企業研修でがんばっているとの話だった。
「ありがとうございます。実は今日、どうしても先生に伝えたいことがあって。あいつ……福澤のこと、覚えていますか?」
「えっ、福澤?」
【金沢の嵐と、叔父・政夫の残響】
福澤。その名前を聞いた瞬間、進の心は一気にあの熱い夏へと引き戻された。
当時、中学受験を目指して塾にやってきた福澤少年は、算数や国語では抜群のセンスを見せる一方、社会科、特に歴史をひどく苦手としていた。
暗記中心の学習に、彼の豊かな想像力が拒絶反応を示しているようだった。
「こんなの覚えられない」
進は、彼に「覚えろ」とは言わなかった。
代わりに、塾の図書室にある歴史マンガを毎日読むように勧めた。
「福澤君。歴史は暗記じゃない。かつて生きていた人間たちの『物語』なんだよ」
その一言をきっかけに、彼は歴史マンガに猛烈にのめり込み、当時の大河ドラマ『利家とまつ』にも夢中になった。
そして、小学六年生の盆休み。
「どこか旅行に行きたいところはあるか」と父親に問われた福澤は、「金沢城を見に行きたい。前田利家の生きた場所を見たいんだ」と迷わず答えた。
進は「素晴らしいことだ。本物を見ることに勝る勉強はないよ」と背中を押した。
しかし、これに激怒したのが母親だった。
「受験学年の夏休みに旅行なんて何事ですか! 先生が余計なことを言ったせいで、息子が浮ついてしまったじゃないですか!」
塾には激しいクレームが入った。
進は塾長から「親の気持ちも考えてくれ。余計なアドバイスは慎んでくれ」とキツく注意され、唇を噛み締めた。
あの時、進の胸に過ったのは、かつて母・千夜子から買って貰った本を、叔父・政夫に「こんなゴミのようなものは役に立たん!」と塵芥のように捨てられたあの日の絶望だった。
けれど、結果は進の確信通りだった。
金沢の地を踏み、加賀百万石の空気を感じて帰ってきた福澤の社会科の成績は、休み明けに文字通り「爆発的」な伸びを見せた。
本番では得意の算数や国語でミスをしたにも関わらず、社会科が驚異的な高得点で見事、第一志望の難関校へと合格したのだ。
【繋がったバトン、降ろされた重荷】
「あいつ、そのまま歴史好きが高じて、大学も史学科に進んだんです」
廊下で再会した元教え子が、誇らしげに続けた。
「今は大学院を出て、歴史の研究者の道を進んでいます。あの日、先生がマンガを勧めて、金沢行きを肯定してくれたことが、あいつの人生を決めたんだって。……先生の影響ですよ」
進は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
政夫から「否定の言葉」を浴びせられた中で、必死に守り抜いた「学ぶ喜び」。自分を縛り付けたあの暗い記憶の反動があったからこそ、進はあの夏、ひとりの少年に「暗記ではない、生きた物語としての学び」を真っ直ぐに手渡すことができたのだ。
「……そうか。彼は研究者に」
「はい。いつか先生に会ったらお礼を言いたいって、ずっと話していました」
進は、心から嬉しかった。
宅建試験講師、公務員試験予備校講師は、いろいろあったにせよ楽しくやってきた。
でも、理不尽なクレームに晒され、自分の教育方針を否定され続けた学習塾講師時代は、進にとって「出来れば忘れたい辛い過去」だった。
でも、実は、そうでもないのかもしれない。
自分が歩んできた泥濘の道も、あの時流した悔し涙も、すべては福澤という一人の少年の人生を大いなる未来へと導くための、完璧な伏線だったのだ。
進は、長年背負い続けていた重い荷物をまた一つ、ふっと降ろしたような、深い安堵の気持ちと爽やかな喜びでいっぱいになった。
【主護霊団の微笑み、すべては蓮の花へ】
現世で進が晴れやかな笑顔を浮かべたその瞬間、霊界の神殿は、これまでにないほど澄み渡った歓喜の光に包まれた。
「見事です、千夜子。智代。あなた方の仕掛けた演習によって、進は『過去のすべての痛みが、誰かの救いになっていた』という魂の真理に、自らの力で到達しました」
指導霊が深く満足そうに頷く。
千夜子は、大鏡の向こうで前を向く我が子の姿に、そっと祈りの光を重ね合わせた。
「進……。あなたが塾講師時代に流した涙も、政夫兄さんに本を捨てられたあの日の悔しさも、何一つ無駄ではなかったのよ。あなたは自分の傷を通じて、他人の心を豊かにする最高のバトンをもう配っていたのね」
隣に立つ智代もまた、かつて自分の実家「仲倉家」の没落が家族を歪め、政夫の「本嫌い」という呪いを生み出してしまった因縁が、めぐりめぐって進の手によって「一人の少年を歴史の研究者にする」という最高の果実へと昇華された事実に、魂の底から救われていた。
「全ての過去は、有益である――」
その真理を完全に悟った伊崎進の背後で、主護霊・千夜子と智代、そしてタロの霊体は、今や現世のあらゆるネガティブな波動を撥ね退ける、黄金の守護陣を完成させていた。
過去の傷を誇りへと変えた進は、目の前のパペット「タロ」を優しく見つめ、画面の向こうで待つ、全国の迷える若者たちへ向けて、さらなる深い愛の言葉を紡ぎ始めるのであった。




