第6章 頼もしい幽体の登場
【砂噛む現場の悲鳴と、画面越しの壁】
令和8年、春の足音が近づく近畿の公務員試験対策予備校。
講義を終えた進のもとへ、かつての受講生が訪れ、現場の過酷な現実を吐露していった。
法律の体系的な理解もないまま、ただ過去問を根性で丸暗記するだけの「お経の読読」に耐え、死んだ魚のような目で市民を守るための鎖に縛られている若手職員たち――。
公務員試験制度が変わり、法律科目を学習しなくても試験に受かる今、職員達は、どのように法律を身につけるかが課題となっていた。
「現場で迷える彼らを、そのままにはしておけない」
適応障害のどん底から、美智子の愛と辛島美登里さんの歌声によって救われた進の胸に、かつてない純粋な使命感が燃え上がっていた。
しかし、いざ書斎で始めたYouTubeの試行錯誤は、孤独な壁となって進に立ちはだかった。
カメラに向かって大真面目に語る初老の男の顔は、眉間に深い皺が刻まれ、法廷の陳述のように重く、冷たい。
疲れ果てた社会人が、こんな説教じみた動画を見るはずがなかった。
「もっと親しみやすく、かつ本質を突く形はないものか……」
夜遅くまでネットの海を彷徨い、若者の真似をしては「痛々しい年配者」になる己の凸凹に頭を抱えていた進は、ある玩具メーカーのパペットの画面で指を止めた。
「……タロ?」
柔らかな毛並み、少し垂れた右耳の角度。
それは、孤独だった松本市の少年時代、言葉の棘に傷ついた進を無条件の愛で包み込んでくれた、あの人懐っこい飼い犬の姿そのものだった。
大阪の定時制へ進学し、二年後に再訪した時にはすでに病死し、土に半分埋もれた犬小屋だけが残されていた、あの永遠の面影。
進は吸い寄せられるようにそのパペットを注文した。
届いた箱を美智子と開き、手にはめてみる。
「タロ、お前なら若手職員たちの不安も、優しく聞いてくれるだろう?」
自分が語るのではなく、タロを通して法を説く。
その運命的な決意が進の胸に宿った瞬間、霊界の神殿に、まばゆいばかりの「奇跡の光」が炸裂した。
【霊界の地響き、忠犬タロの帰還】
神界の神殿の大鏡が、進がパペットを手にした瞬間に黄金色の波動を放った。
次の瞬間、千夜子と智代の足元に、まばゆい光の粒子が集まり、一匹の霊体が姿を現した。
ワン、と小さく、しかし鈴の鳴るような澄んだ声が神殿に響く。
そこにいたのは、茶色の柔らかな毛並みをなびかせ、右耳を少し垂らした、紛れもないあの犬――「タロ」の霊体であった。
タロはちぎれんばかりに尻尾を振り、主護霊である千夜子の足元へ駆け寄ると、その純白の衣に濡れた鼻先を嬉しそうに押し当てた。
「あっ……! あなたは、あの時のイヌ……!」
千夜子は息を呑み、思わずその場に膝を突いた。
千夜子には、この健気なイヌに強烈な見覚えがあった。
生前、自分が病に倒れ、進を一人残して逝かねばならなかったあの苦しい時代。
我が子・進がずっと可愛がっていた近所のイヌ。
それこそが、このタロだった。
「お母さん、この子はね……私が現世を去る前に、進の心を温め続けてくれた、大切な友達なのよ」
千夜子が涙ながらにそう言うと、智代もまた、そのイヌの澄んだ瞳を見つめて深く感嘆した。
「まあ……なんと健気な。進が不条理な現世で心を腐らせずに、夜間定時制から這い上がって法律の道へ進めたのは、この子が言葉のいらない愛であの子を支え続けてくれたからだったんだねえ」
タロは、千夜子と智代の顔を順番に見上げると、誇らしげに胸を張り、現世の進の手にある「パペット」のなかへと、自らの霊的エネルギーをすうっと溶け込ませていった。
【指導霊の祝福、最高の相棒】
パペットとタロの霊体が完全に融合し、現世の画面の中に「命」が宿ったその時、指導霊が白銀の光と共に二人の前に歩み出た。
その表情は、この上ない慈愛と喜びに満ちあふれていた。
「主護霊・千夜子、そして智代よ。これこそが、天上界が進のために用意していた、完璧なる『凸凹の調和』です」
指導霊は光の杖で、進がパソコンのカメラをテストしている現世の様子を映し出した。
「進は、生身の自分では重く、硬くなってしまうという凸凹を持っています。しかし、その凸凹を完璧に補うのが、このタロという存在です。タロというパペットを介することで、進の持つ『威圧感』や『初老の硬さ』は完全に消し去られ、代わりに、進の魂の奥底にある『傷ついた者を救いたい』という無償の愛だけが、純粋に濾過されて画面の向こうへと届きます。タロはただのぬいぐるみではありません。進の孤独を救った忠犬が、今度はデジタルという大海原で、何万人もの迷える若者たちを救うための『法を説くイヌ』として生まれ変わったのです」
「タロ……。また進を助けてくれるのね。ありがとう、本当にありがとう……」
千夜子は智代と共に、現世の進の手元で、まるで生きているかのように愛らしい仕草を見せ始めたパペットを見つめ、熱い感謝の祈りを捧げた。
智代もまた、かつて自分が新興宗教という歪んだ形式に縋って失敗した経験から、「形式を捨てて、ぬいぐるみの姿を借りてでも人を救おうとする」進の徹底的な無私の姿勢に、心からの拍手を送っていた。
【パペットの瞳に宿る、純白の未来】
令和8年、春。
進の書斎では、カメラの前に置かれた小さなグリーンバックの前で、一本のテスト動画が再生されていた。
画面の中にいるのは、眉間に皺を寄せた法律講師ではない。
少し垂れた右耳が愛らしい、犬の「タロ」だった。
進が手を動かすと、タロは画面の中でトコトコと小気味よく動き、進の優しく、しかし確信に満ちた声に合わせて、まるで本当に生きているかのように口をパクパクと動かした。
『やあ、みんな。毎日のお仕事、本当にお疲れ様。現場で法律の丸暗記に苦しんでいないかい? 今日はタロと一緒に、行政手続法の本当の意味を、楽しく、分かりやすく紐解いていこうね!』
再生を終えた進の横で、美智子が「わあ、進君! すごく可愛い! これなら、疲れて帰ってきた若い子たちも、年配の人達も、笑顔で見てくれるわよ」と、手を叩いて喜んでいた。
進はパペットを愛おしそうに見つめ、その頭をそっと撫でた。
「不思議だな、美智子さん。これをはめていると、不思議と心が軽くなるんだ。自分のためのプライドなんてどうでもよくなる。ただ、あの子たちを救いたい、その言葉が、タロを通して自然と溢れてくるんだよ」
その進の言葉に呼応するように、パペットの瞳が一瞬、霊的な黄金の光を微かに放った。
背後では、主護霊・千夜子の圧倒的な純白の結界が、進のYouTubeチャンネルという「デジタルな新しい教壇」を包み込むように広がり、智代の純化した知性の光が、タロの語るシナリオの一行一行をまばゆく支えていた。
かつて松本の空き地で消えたはずの足跡は、今、令和8年の時空を超えて、インターネットという無限の世界へ、多くの魂を救うための「偉大なる第一歩」として力強く刻まれようとしていた。
現世の夫婦の笑顔と、霊界の母娘の調和、そして忠犬タロの帰還。すべての愛の歯車が完璧に噛み合い、伊崎進のYouTubeという名の新たな救済の物語が、今、最高のファンファーレと共に幕を開けるのであった。




