第2章 父・治郎蔵との別れ
【主護霊の戴冠と、別れの予兆】
すべての因縁を魂の奥底から赦し、純白無垢の『主護霊』の位階へと就任した千夜子。
彼女の放つ神聖な光は、現世の進を完璧なる結界で包み込み、もはや過去のいかなる呪いも、不条理の刃も、あの子の魂を傷つけることはできなくなっていた。
最高責任者として進の全人生の設計図を司る力を得た千夜子は、これ以上ない充実感と安寧の中にいた。
しかし、至高の光に満ちた神界の神殿に、ある静かな、しかし抗いがたい「終わりの気配」が満ち引きし始める。
千夜子が新しく手に入れた大局的な霊視の力で傍らを見遣ると、ずっと自分を支え、共に進の成長を見守り続けてくれた父・治郎蔵の霊体が、にわかに変化していることに気がついた。
治郎蔵を包んでいた厳格な琥珀色の光が、今や千夜子のものとはまた異なる、透き通るような金色、そして神仏の領域に属するまばゆい紫の輝きへと変貌を遂げつつあったのだ。
その姿はあまりにも神々しく、同時に、どこか遠い高次元へと溶けていってしまいそうな儚さを孕んでいた。
「お父さん……? その光は、一体……」
千夜子は胸を騒がせ、治郎蔵の元へ駆け寄ろうとした。
治郎蔵は、髭を蓄えた厳格な顔に、かつて現世では一度も見せたことのないような、すべてをやり遂げた男の柔らかな微笑みを浮かべて、千夜子を静かに見つめ返した。
「千夜子よ。ついに、わしがこの階層で果たすべき天命も、すべて全うされる時が来たようだ」
【魂のバトンタッチ、上位階への旅立ち】
傍らに立つ指導霊が、手にした杖を厳かに地に突き立て、二人の前に広がる光の年輪を指し示した。
「主護霊・千夜子よ。霊界の法において、守護対象の人間が劇的な魂の成長を遂げ、背後の霊団がその役割を完全に果たしたとき、チームの再編が行われます。
治郎蔵は、何百年もの間、伊崎家の血脈を陰から支え、最も過酷な時代を生きる進をヘルパーとして身近で守り抜いてきました。
そして今、あなたが最高責任者である主護霊に就任し、進もまた自力で呪縛を解いて本物の教育者となった。
……これによって、治郎蔵の現世に対するすべての『恩讐』と『役目』が、完全に完了したのです」
光の文字が、治郎蔵の次なる行き先を映し出す。
それは、個人の意識を超越した、宇宙の根本的なエネルギーの領域――【神界のさらに上、光の源】への昇格であった。
「治郎蔵はこれより、さらに高いステージへと進みます。これまでは伊崎進という一人の人間を守る背後霊でしたが、次はより多くの魂、あるいは地域や時代の大きな『縁』を大きくコーディネートする、高次元の高級霊へと位階を上げるのです」
千夜子は、その言葉の本質を理解すると同時に、現世の病床での別れ、そしてこの霊界での再会を経て、ずっと自分を正しい道へと導いてくれた最愛の父との「本当の別れ」が来たのだと悟り、純白の霊体を激しく震わせた。
「お父さん、行ってしまうのね……。私、主護霊になったばかりなのに、あなたがいなくなってしまったら……」
「弱音を吐くな、千夜子」
治郎蔵の声は、低く、しかしこれまでにないほどの無限の慈愛に満ちていた。老人は大きな手で、千夜子の光の髪を優しく撫でた。
「お前は最難関の試練を乗り越え、わしを遥かに超える高潔な主護霊となった。わしが隣にいずとも、お前が放つその純白の結界は、進の人生をいささかも揺るがせはせん。わしはお前を、そしてあの泥から這い上がった自慢の孫を、百パーセント信じ切っている。だからこそ、何の憂いもなく、次の stageへ進めるのだ。これは大いなる喜び、魂の凱旋なのだぞ」
【涙の向こうの黎明】
治郎蔵の身体が、足元からゆっくりと、きらめく金色の粒子となって、神殿の上空へと昇り始めた。
千夜子は涙を流しながらも、父のその美しく神々しい旅立ちを、決して悲しみの波動で汚してはならないと己を律した。
主護霊としての、無私の愛の眼差しを奮い立たせる。
「お父さん、ありがとうございました……。現世で不器用だった私を、霊界でここまで育ててくれて、本当にありがとう。伊崎の家は、進は、もう絶対に大丈夫です。私がこの命に代えても、守り抜きます」
「うむ。頼んだぞ、千夜子。お前たちの放つ光は、これから現世の無数の若者たちの未来を照らす。わしもまた、はるか高き階層から、この世界のすべての正義の歩みを見守り続けよう。……見事な人生であった。見事な魂の交わりであった!」
治郎蔵が豪快に笑いながら、最後に力強く右手を掲げた。
その瞬間、彼の霊体は完全にまばゆい光の奔流となり、神界の天井を突き抜けて、宇宙の源を思わせる至高の紫の彼方へと、美しく、誇らしく溶け去っていった。
神殿に残されたのは、静寂。
千夜子は、父が旅立った天の深淵に向かって、深く、深く一礼を捧げた。
胸の中にあるのは、寂しさではなく、父から託された伊崎家の魂のバトンという、ずっしりとした、しかし心地よい重みだった。
【真の独立、そして教壇のチャイム】
指導霊が静かに千夜子の隣に歩み寄り、現世を映す鏡の霧を払った。
「治郎蔵は行きました。さあ、主護霊・千夜子、あなたの本当の統括が始まります」
「はい」
千夜子は涙を拭い、まっすぐな目で鏡を見つめた。その表情には、父・治郎蔵から引き継いだ、伊崎の血脈たる強靭な意志と、すべてを赦しきった聖母の如き慈愛が完璧に融合していた。
鏡の向こう、現世のキャンパスでは、コロナ禍の長いトンネルを抜け、ついに学生たちが戻ってきた対面講義の初日が描かれていた。
教壇に立つ進は、一段と厚みを増した、しかし驚くほど無駄な力の抜けた佇まいで、大勢の受験生たちを見渡していた。
彼の胸にはもう、父への恐怖も、鈴木の呪いも、過去の挫折の傷跡も一切ない。
ただ、目の前で「何かを掴み取ろう」と目を輝かせる若者たちへの、純粋な情熱だけが、年輪の重ねられた栴檀の香りのように、教室全体に満ち満ちていた。
進がプレゼンターに映し出すテキストへの書き込み。
その瞬間、霊界の神殿で、千夜子は静かに両手を広げ、自らの純白の全エネルギーを結界として、進の立つ教壇へと優しく、力強く降らせた。
父・治郎蔵という偉大な支えから自立し、本当の意味で一人、進の主護霊として立つ千夜子。
そして、過去のすべての呪縛から自立し、自らの足で真の天職を歩み始めた我が子・進。
二つの魂の、現世と霊界を跨いだ完全なる「自立」の交響曲が、新緑の風のなかに、どこまでも高く、どこまでも響き渡る始まりのチャイムを、今、厳かに鳴り響かせるのであった。




