第5章 「沈黙の修行」プログラムその②
【令和2年、舞台の灯が消える時】
そして、プログラムは真に過酷な第二段階へと移行する。地上の時は進み、令和2年の初春。
近畿各地の大学を鮮やかに渡り歩き、次世代の講義スタイルを確立させていた進の眩い日常が、目に見えないウイルスの影によって呆気なく断ち切られたのだ。
自宅のパソコン画面に並ぶ、『重要』『中止』『延期』という無機質な文字列。
各地のキャンパスで待っているはずだった何百もの瞳が、一瞬にして遠のいていく。
「仕事が、消えたな……」
独り言のように呟いた進の力なく垂れた肩に、美智子がそっと手を置いた。
「進君。また、あの時みたいだね。平成7年の、あの時みたい」
「ああ。でも、今度はどこにも逃げ場がない。地球ごと止まってしまったみたいだ」
阪神・淡路大震災のあの悪夢のような記憶が、二人の間に蘇っていた。
千夜子は鏡にすがりつきそうになった。
我が子が再び、社会的信用や仕事を奪われ、暗闇に取り残されようとしている。
指導霊としての強大なパワーを使えば、進の元に新しい仕事の縁を引っ張ってくることも、彼の不安を直感で消し去ることもできるはずだった。
「千夜子、動いてはなりません」
指導霊の声が冷徹に響く。
「これが主護霊へと至るための、究極の沈黙のプログラムです。あの子の底力を信じなさい」
千夜子は溢れ出そうになる青い光を必死で抑え込み、霊体を引き裂かれるような痛みに耐えながら、ただ沈黙の光として進の背中を見つめ続けた。
【原稿用紙のささやきと、醜さの受容】
主戦場を奪われた進に残されたのは、報酬の乏しい「論文・作文添削」という地道な作業だけだった。
画面上の解答一行一行に目を凝らし、ただ寄り添うように『がんばりましょう』と朱を入れる進。
夜、独りパソコンに向かう進の耳に、ラジオから中島みゆきの『幸福論』が流れる。
その鋭い歌声は、進の胸中にある複雑な葛藤――まだ未来がある若者への微かな嫉妬や、仕事を失った同業者への暗い共感と裏返しの安堵という、人間の「醜さ」を容赦なく暴き出していた。
「……僕も、ただの人間なんだな」
冷めかけた茶を啜りながら、自らの弱さを受け入れる進の姿を見て、千夜子は涙が止まらなかった。
手出しをしたい、励ましてあげたいという母親としての本能的な愛着が胸を焦がしたが、千夜子は耐え抜いた。
進は、その醜ささえも自らの論理で抱きしめ、誰かを恨むことなく、ただ目の前の一枚の原稿用紙に向き合い続けていたからだ。
あの子は、私の助けなどなくとも、絶望の底で腐らずに生きる強さを、すでに持っていた。
【暴かれた「言葉」の虚構と、真の自立】
そして、この未曾有の静寂のなかで、進の魂に決定的な「救済」が訪れる。
外界との接触が絶たれた書斎で、歴史考証や百科事典の資料を読み進めていた進は、幼少期から己を縛り付けてきた「栴檀」の植物学的事実に辿り着いた。
香木としての栴檀(白檀)の新芽に香りは宿らない。
成長し、年輪を重ねて初めて心材に香りが蓄積される。
そして、あの日日本のあちこちで鈴木が指差した「センダン」は、そもそも香りすら持たない全く別の木であったという冷徹な事実。
さらに、北条氏政の「二度汁」の逸話さえも、後世の人間が死者に着せた虚像に過ぎなかったという歴史の新説。
「……なんだ。全部、嘘だったのか」
鏡の中の進が、自嘲気味に、しかし驚くほど晴れやかに笑った。
千夜子は、その瞬間、進を縛っていた太い鎖が音を立てて粉々に砕け散るのを見た。
(あの子が怯えていたのは、自分自身の欠点でも、父親譲りの無能さでもなかった。他人が勝手に作り上げた「負の物語」という、実体のない影に過ぎなかったのだ)
「栴檀は双葉のときには香らない。若木になって、少しずつ香り始めるんだ」
朱の筆を置き、大きく背伸びをした進の胸中から、父への恐怖、血への嫌悪、他者の刃が、音もなく消え去っていく。
コロナ禍という社会の停止が、皮肉にも進に自らの内面を深く掘り下げる「恩寵」をもたらし、本当の意味での自己受容と「自立」を完成させたのだ。
【第1プログラムの完遂、純白の輝き】
進が自分自身の中心にある静かな「芯」に触れ、明日からの添削へ向けて力強く歩み出したその瞬間、霊界の教室に、かつてないほどの凄まじい白銀の光が満ち溢れた。
「見事です、千夜子」
指導霊が感嘆の声をあげ、光の杖を高く掲げた。
「あなたは進が人生最大の壁に突き当たり、己の醜さに直面し、そして呪縛を解き明かすまでの全行程において、完璧に『沈黙の不干渉』を貫き通しました。手を差し伸べたいという本能を抑え、進の内なる火を100パーセント信じ切った。今回の過酷なプログラムを、あなたは見事に乗り越えたのです」
千夜子が自らの霊体を見ると、あの知性の青い光の奥から、エゴを完全に克服した高級霊だけが放つ、目も眩むような【純白の神界の光】が、奔流のように溢れ出していた。
隣の治郎蔵が、我がことのように顔をくしゃくしゃにして笑い、千夜子の肩を叩いた。
「よう耐えたな、千夜子! お前が進を信じ抜いたからこそ、あ奴は自力で呪いを解き、本物の『栴檀』として年輪の香りを放ち始めたのだ。お前の霊格は、今や完全に次の次元へと届いたぞ」
「お父さん……指導霊様……」
千夜子は清々しい充実感のなかで、静かに微笑んだ。
苦戦の連続で、何度も心が張り裂けそうになった試練だった。
しかし、干渉を全廃し、ただ信じて見守るという「無私の愛」を実践したことで、千夜子はヘルパーやガイドという枠組みを遥かに超え、進の全人生の設計図を永遠に司る【主護霊】の座へと、また一歩、決定的に近づいたのだ。
窓の外、新しい季節の光のなかで、より深く、より温かい眼差しで原稿に向き合う進。
その背後には、一切の揺らぎを持たない純白の光の障壁となりつつある千夜子が、宇宙のような深い慈愛の沈黙をもって、我が子の真の王道をどこまでも静かに照らし続けていた。




