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第3章 資格試験予備校講師採用面接での戸惑い

【盲点と、焦燥の試験場】


 平成15年、初夏。

 幽界の鏡を見つめる千夜子の胸は、つい先ほどの喜びから一転して、冷たい恐怖にきりきりと締め付けられていた。


 進は、一世一代の勝負服である安物のスーツの襟を正し、ついにあの大手公務員試験予備校の重い扉を叩いたのだ。

 その細い胸に、泥を啜りながら磨き上げてきた「伝える」ことへの情熱をこれでもかと秘めて。


 しかし、その高揚感は、受付で手渡された一枚の白い用紙によって、瞬時に凍りついた。

 千夜子は思わず鏡に顔を近づけた。


 「模擬講義の前に、基礎知識の筆記試験を行います」


 案内の端に小さく記されていたその一文を、進は見落としていたのだ。

 試験科目は、宅建業法、権利関係、法令上の制限。


 進が宅建試験に合格してから、すでに二年の月日が流れてしまっていた。

 民法の論理こそ司法試験の過酷な学習で血肉となっていたが、暗記要素の強い業法の細かな数字や、建築基準法の複雑な規制は、日々の焦燥の中で記憶の彼方へと霧散していた。


 鏡の中の進の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。


 (まずい。これでは教壇に立つ資格すらないと見なされる……)


 焦燥の中でペンを握る進の手を、千夜子は思わず我が手で包み込もうとした。

 しかし、霊体の手は虚しく空を切り、進の冷や汗が掌を濡らしていく様子が痛いほど伝わってくる。


 設問を読み進めても、進の頭の中には確かな手応えが返ってこないようだった。

 覚えたはずの知識が、指の間から零れ落ちる砂のように輪郭を失っていく。

 解答欄を埋める鉛筆の鋭い音が、まるで進の未来を阻む死刑宣告の秒読みのように教室内に響き渡っていた。


 あっという間に、制限時間は終了した。


 回収される解答用紙を横目で眺めながら、進の唇は悔しさに微かに震えていた。

 千夜子は胸が引き裂かれそうになり、父・治郎蔵の袖を掴んだ。


 「お父さん、どうして……! せっかく掴んだチャンスなのに、あの子、案内を見落とすなんて。神様はどこまで進に試練を与えるの?」


【風に立つ孤独】


 しかし、今の進には落ち込んで立ち止まる時間など一秒も残されていなかった。


 次は、運命の模擬講義である。


 別の教室に案内されると、そこには予備校の厳格な職員や、鋭い眼差しを持った採用担当講師が三人ほど、値踏みするような目で待機していた。


 千夜子は息を止めて見守った。

 進は、筆記試験の動揺をその強靭な意志の力で圧し殺すと、壇上に立った。

 そして、持てる力のすべてをその声に注ぎ、法理の「なぜ」を、まるで命を削るように熱く、理路整然と語りかけたのだ。

 その講義の鮮やかさに、千夜子は涙が出そうになった。


 「お疲れさまでした。本日はありがとうございました。気を付けてお帰りください」


 事務的な声に送られ、進は予備校の門を出た。


 夕暮れの阪急電車に揺られる進の心は、冬の京都の空のようにどんよりと曇り、重く沈んでいた。

 座席に深く身を沈め、進は使い古されたiPadを取り出した。画面をスワイプし、音楽再生アプリを開く。


 彼が選んだのは、椎名恵のアルバム『ダブル・コンチェルト』。

 その中の一曲、森瑤子が詞を編んだ『風物語』が、イヤホンを通じて進の耳へ流れ出した。


 「明日は また明日の風が吹くと人は言う」


 透明感のある、しかしどこか哀切を帯びた歌声が、今の進の孤独を鋭く突き刺していく。


 誰もが「次は大丈夫」「また次があるよ」と無責任に慰めるだろう。

 けれど、今この瞬間に感じている「準備を怠った自分」への激しい情けなさ、そして掴みかけた夢が指の隙間から滑り落ちていく恐怖に、たった一人で立ち尽くしているのは、世界中で進一人だけだった。


 窓の外を流れる淀川の灰色の景色が、進の瞳の中で滲んでいくのを、千夜子はただ、愛おしさと切なさで見つめることしかできなかった。


【茶の静寂と、美智子の背中】


 京都の狭いアパートへ帰ると、美智子がいつものように温かな灯りを灯して迎えてくれた。


「……駄目だったかもしれない」


 進が玄関でぽつりと、魂の抜けたような声を零した。美智子は何も聞かず、ただ少し不器用な手つきで温かいお茶を淹れ、進の隣にそっと座った。


「案内を見落としてたんだ。完全な準備不足だ。教壇に立つ資格なんて、僕にはまだ無かったんだよ」


 進は畳を見つめたまま、自嘲気味に言葉を吐き捨てた。

 初歩的なミスを犯した自分が許せなかった。


 美智子は、湯気の立つ温かい湯呑みを、進の手にそっと握らせた。

 そして、伏せていた美しい目をゆっくりと上げ、進の顔をまっすぐに見つめた。


「……私には難しいことは分からないけど。でも、進君が今まで、あんなに一生懸命やってきたことは、絶対に無駄にならないと思う。私は、ずっとあなたの背中を見てきたから」


 その静かで、一点の疑いもない肯定の言葉が、かえって進の頑なな胸を激しく締め付けた。

 進は湯呑みを握りしめたまま、じっと唇を噛み締めていた。


 千夜子は美智子のその優しい背中に、心からの感謝を捧げた。


「美智子さん、ありがとう……。あなたがそうやって進のそばにいてくれるだけで、あの子の凍りついた心がどれほど救われているか……」


 千夜子は美智子に温かい眼差しを向けた。

 治郎蔵も指導霊も、そっと見守っていた。

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