表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
20/42

第2章 一難去ってまた一難

【停滞する日々、夜空の旋律】


 しかし、運命の歯車はそう容易くは最終合格の果実を与えてはくれなかった。合格の二文字をその掌に掴みかけたその時、進の心の内には、ある静かな、しかし抗いがたい変化が生まれていた。


 六法全書の文字を頭に詰め込み、自分一人が問題を解けるようになること以上に、進は「法律を人々に伝えたい」と思うようになっていた。

 いや、以前からそうだった。法律について「誰かに伝える」ということに、魂が激しく突き動かされるような魅力を感じ始めていたのだ。


 進は司法試験の勉強を続けながらも、自らの知識を証明するかのように、次々と他の難関資格をも制覇し、ライセンスをその掌に収めていった。

 しかし、現実はどこまでも甘くはなかった。


「自分の言葉で、受験生たちを導きたい」


 その情熱を胸に、ありとあらゆる予備校や教育機関に履歴書を送り続けたが、返ってくるのは決まって「今回は採用を見送らせていただきます」という、冷ややかな不採用通知の束ばかりだった。実績のない若者に、壇上を任せるほど甘い世界はどこにもなかった。


 美智子との慎ましい生活を維持するため、皮肉にも再び日々のアルバイトに追われる時間が狂い始める。

 講師への夢が、夕闇の彼方に溶けていく幻影のように思えたある夜、進はアパートの小さなラジオから流れる、ある感傷的な旋律にふと耳を止めた。


 キンモクセイの『二人のアカボシ』。


 窓の外、夜空には明星――アカボシが寒そうに輝いている。

 進はその歌詞の一言一言を、自らの乾いた心に染み込ませるように噛み締めていた。


 立ち退きによって新しく整備されたはずの京都の道路も、今の自分にとっては、どこへも続いていない行き止まりの迷路のように思えてならなかった。

 美智子を連れて、この出口のまるで見えない、いつ終わるともしれない現実から、いっそどこか遠くへ逃げ出してしまおうか。

 そんな、めったに抱くことのない弱気が、夜の静寂の中でふと頭をよぎる。


 進は、自分の横で無防備に、しかし信頼を寄せて静かに眠る美智子の寝顔をじっと見つめた。


 いや、逃げてなるものか。


 彼は奥歯を噛み締め、胸の前で強く拳を握り直した。


 「逃げるんじゃない。この道を、僕たちが誇りを持って歩くための道に、僕自身の手で変えてみせる」


 千夜子は鏡の中の進の葛藤を見つめながら、その痛切な夜の祈りに寄り添うように、自らの光をそっと進のラジオの灯りへと重ね合わせた。


 「進、負けないで。あなたの声は、あなたの言葉は、必ず誰かが必要とする時が来るわ。お母さんには聞こえるの。あなたの心のなかの、大きな講義のきざしが……」

 霊界の声は、進には届かなかった。

 だが、現実は、すぐそこにあったのだ。


【沈黙の果てに届いた封書】


 明けない夜はないという言葉が、現世にはある。


 出口の見えない焦燥と葛藤の日々に、ついに一条の光が差し込み、長く続いた沈黙の季節に終止符が打たれる瞬間が訪れた。


 ある日の夕暮れ。進がいつものように疲れ果てた足取りでアパートへと戻ると、一通の白い封書が、錆びついた郵便受けに静かに刺さっていた。


 これまで何度も受け取ってきた、あの薄く不吉な「お祈りメール」の定形外封筒とは明らかに違う、何かが厳かに封入された独特の重み。進の喉が、緊張で小さく鳴った。


 部屋に入り、美智子が見守る中で、進は震える指先でその白い封を切った。

 中から現れた上質な紙面には、これまでの冷淡さを覆すような、力強く、重みのある文言が並んでいた。


「講師職の面接、および模擬講義の案内」


 それは、全国に名を馳せる大手公務員試験予備校からの、正式な招聘状であった。


 世間の多くの人々が、進の職歴のなさに目を曇らせ、門前払いをしていく中で、彼が泥を啜り、血を吐くような不条理に塗れながらも這い上がってきた、その裏に潜む「本物の執念」と「圧倒的な法的論理」の凄みを、見抜いた者が確かに存在したのだ。


 進は、その紙を破れんばかりの力で握りしめた。驚きと歓喜が、彼の張り詰めていた表情を劇的に変えていく。


 すぐ隣で、夕食の準備をしようとして洗濯物を畳みかけ、進の様子に戸惑っている美智子の華奢な身体を、進は衝動的に、しかし壊れ物を労るように強く、深く抱き寄せた。


 「美智子さん、呼んでくれた……! 僕の声を聞きたいと、僕の授業を受けたいと言ってくれる場所が、ついに現れたよ!」


 進の胸に顔を埋めた美智子は、一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに嬉し涙を浮かべ、進の背中に小さな手を回した。


「よかった……よかったね、伊崎君。あなたの努力を、ちゃんと見ててくれた人がいたんだね」


 幽界の鏡の前で、千夜子はついに大粒の涙を流し、治郎蔵の胸に顔をうずめて泣き崩れた。


 「お父さん……! 進の時代が始まるわ。あの子が、あの子だけの教壇に立つ日が、ついに来るのね……!」


 治郎蔵は、涙を流す娘の肩を大きな手で優しく包み込み、自らもまた、熱いものが胸を込み上げるのを自覚しながら、静かに微笑んだ。


「うむ。千夜子、お前の祈りは天に届いた。あ奴はこれから、自らが受けた理不尽のすべてを、机に向かう無数の若者たちを救うための『智慧』へと変えるのだ。見事な生き様ではないか」


 指導霊が二人の傍らに立ち、京都の街を覆っていた冬の星座の彼方から、新たな夜明けの旭光を呼び込むように、その杖を大きく振るった。


 2000年代初頭の、骨の髄まで冷える京都の長い冬が、今、静かに終わりを告げようとしていた。


 伊崎進という一人の男の、波乱に満ちた人生という名の「真実の講義」が、ついに最初の、そして最も力強い始まりのチャイムを、現世の静寂の中に鳴り響かせようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ