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第1章 追い風と前進

【立ち退きという名の追い風】


 幽界の鏡を満たしていた暗い霧が、にわかに晴れ渡り、そこへ柔らかな光が差し込んできた。


 千夜子は思わず鏡に一歩近寄り、歓喜に胸を震わせた。

 そこに映し出されていたのは、進と美智子が暮らす京都の安アパートに、役所の担当者が訪れている光景だった。


 都市計画による道路拡張。

 住み慣れた古びた部屋を明け渡す代わりに、進の前に提示されたのは、百五十万円という立ち退き補償金だった。


 かつて進の小学校の担任が、進を「とろっくさい」から交通事故に遭ったのだと決めつけた。

 元同僚の鈴木ふさゑが吐き捨てた、進を根底から否定するような呪詛もあった。

 それらの冷たい記憶をすべて吹き飛ばすかのように、進は自宅の使い古された机の上で、毅然とした態度で立ち退きの書類にサインを交わした。


「150万……。美智子さん、これがあれば、君に苦労をかけずに済むかもしれない」


 通帳に印字された、これまで見たこともない桁の数字を見つめ、進が静かに呟く。

 美智子は少し不安そうに首を傾げた。


「引っ越すの? この部屋、狭いけど、私は好きだったよ。伊崎君がいつもここで一生懸命に勉強してたから」


「ああ、でもこれはチャンスなんだ。新しい場所で、やり直せる」


 二人は前を向いた。

 二十万円ほどの費用で手際よく引っ越しを終え、手元に残ったのは百三十万円という純然たる「軍資金」だった。


 進はその半分を、かつて鹿沢さんへの迷惑を恐れて夜も眠れぬほど追い詰められていた、あの奨学金の返済へと一気に充てた。

 心の重荷が音を立てて外れていく。

 そして残りの半分を、かつてはパンの耳を囓りながら指をくわえて見上げるだけだった、司法試験予備校の正規受講料へと迷わず注ぎ込んだのだ。

 今までは、型落ちの入門講座の一部と、模試しか申込めなかった。

 今は違う。

 初めて、裕福な受講生と全く同じ講座が受けられるのだ。

 しかも、仕事を減らせる。

 進はもう、嬉しくて仕方なかった。


 千夜子は、その一連の光景を涙ながらに見つめていた。

「お父さん、見て……! 進の足元を縛っていた鎖が、一気に解けていくわ。立ち退きだなんて、まるで神様が、あの子の背中を後ろから押し出すために風を吹かせてくれたみたい」


 治郎蔵は髭を蓄えた顔に深い笑みを浮かべ、満足そうに頷いた。


 「案ずるなと言ったろう、千夜子。不条理の嵐を耐え抜いた者には、しかるべき時に、しかるべき天の恵みがもたらされる。進が頑なに守り通した『思い』が、この追い風を呼んだのだ」


 正規の講義と最新の教材は、これまで独学で泥を啜り、暗闇を這うようにして知識を蓄えてきた進の頭脳に、驚異的な速度で血を通わせていった。

 受講後ほどなくして、進は難関とされる司法試験の択一試験合格を果たす。


「受かったよ、美智子さん! 択一試験を通った!」


 進が合格通知の紙を高く掲げると、美智子は弾かれたように立ち上がり、パタパタと小さな足音を立てて進の元へ駆け寄った。


 「すごい……すごいね。進君、ずっと夜中まで頑張ってたもんね。お祝い、何がいい? 私、頑張って何か作るよ」


 「ありがとう。でも、ご馳走は最終合格まで取っておこう。今は、この扉が開いただけで十分だ」


 二人が手を取り合って喜ぶ姿に、千夜子は胸がいっぱいになり、何度も何度も何度も頷いた。

(あの子の努力が、ようやく報われ始めている。)

 その確信が、千夜子の霊体に温かな光を取り戻させていた。


【神隠しの街、再会の二人】


 択一試験の合格という一つの山を越えた二人は、ささやかな自分たちへのお祝いとして、街の映画館へと足を運んだ。

 劇場を埋め尽くしていたのは、日本中の人々を熱狂させていた宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』だった。


 千夜子もまた、治郎蔵や指導霊とともに、幽界の鏡越しにその映画のスクリーンを見つめていた。


 名前を奪われ、八百万の神々が蠢く不条理な異世界の湯屋で、それでも己を見失わずに必死に生き抜こうとする少女・千尋。


 進は、それを単なる子供向けのアニメーションとして観ることはできなかった。

 それは、かつて名前ではなく「とろっくさい」と侮蔑され、理不尽な大人たちの支配下で窒息しそうになっていた少年時代の自分そのものであった。頼れる者もなく、不確かな生活基盤のもと、孤独に生きてきた自分たちの姿に、あまりにも酷似していたからだ。


 「千尋、頑張ってたね。名前を取り戻せて、本当によかった」


 上映終了後、劇場の明かりが灯る中で目を輝かせる美智子の横で、進は静かに拳を握りしめていた。

 自分もまた、自らの論理と執念によって「伊崎進」という人生の主導権を完全に奪い返す旅の途中にいるのだと、深く確信していた。


 「……そうだね。僕たちも、この街でしっかり生きていこう」


 異世界の湯屋から、現実の光の中へと力強く戻っていく千尋のように、進もまた、一つの大きな関門を抜け、新たな決意を胸に京都の街を歩き出した。


 千夜子は、進のその引き締まった横顔を見つめながら、指導霊に声をかけた。


 「あの映画の女の子のように、進も自分の名前を、自分の人生を取り戻そうとしているのですね。あの子はもう、誰に蔑まれても揺らがない強さを持っているわ」


 指導霊は静かに微笑み、青い光を放ちながら告げた。


 「その通りです、千夜子。彼が求めているのは、単なる社会的地位ではない。かつて自分を不当に扱った世界に対して、自らの『正当な存在証明』を突きつける戦いなのです。そしてその戦いは、今、新たな形へと進化しようとしています」


 千夜子は、今度こそ平穏な日々と喜びに満ちた道が開けていると思った。

 しかし進の前には、まだ大きな試練が待っていたのだった。

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