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第5章 学習塾講師としての進の苦悩を見守る中で

【宣告される「強制」の二文字】


 幽界の鏡は、微細な砂嵐を伴いながら、再び京都の薄暗い四畳半を映し出した。

 美智子をその懐へと迎え入れ、始まった静かな二人の生活。

 それはいっときの、壊れやすい安息の毛布のようであったが、その幸福の裏側で、進の足元には底なしの沼が着実に、そして容赦なく広がっていた。


 黎明大学を卒業し、あえて退路を断つようにして司法浪人の道を選んだ進を、真っ先に襲ったのは、かつて「跳ね橋」となって自分を救ってくれたはずの、日本育英会からの督促状であった。

 かつて命を繋いだはずのその「制度」が、今や己の息の根を止めにかかる怪物へと変貌している。

 アパートの片隅に置かれた固定電話が、電子の悲鳴を上げ、進は受話器を耳に押し当てた。その指先は、微かに震えていた。


 「……そこをなんとか、返済の猶予をいただけないでしょうか。今は司法試験の勉強に専念しており、まとまった収入を得る手段がございません。合格すれば、必ず一括で……」


 進の言葉は、冷徹な論理を重んじる彼にしては珍しく、懇願の色彩を帯びていた。

 しかし、電話の向こうの担当者が返す声には、人間的な温かみなど一欠片も交じってはいなかった。  

 「規定ですので、個人の事情による例外は認められません。お支払いがない場合は、法的な手続きに基づいた強制徴収に移らざるを得なくなります」


 強制徴収。

 その四文字が、進の背中に氷の刃を突き立てた。

 これから自分が生涯をかけて学び、駆使しようとしている「法律」という名の暴力が、牙を剥いて自らに向けられている。

 その不条理に眩暈を覚えながらも、進は己の無力さを噛み締めた。

 さらに、担当者は感情を排した声で、逃げ場を塞ぐように追い打ちをかけた。

「本人が無理であれば、当然、連帯保証人の方へ請求がいくことになります」


 その瞬間、進の脳裏に、鹿沢慎之助の顔が鮮烈に浮かんだ。

 自らも事業の失敗で苦境にありながら、身寄りのない自分を引き取り、夜の高校へ行かせてくれた恩人。

 かつて友人の連帯保証人となって夜逃げされ、辛酸を舐め尽くしたあの鹿沢さんに、今度は自分が同じ呪いをかけるのか。

(それだけは、死んでもできない)


 受話器を置いた進は、夕闇の迫る部屋で、一人で拳を固く握りしめた。

 勉強時間を削ってでも、肉体を摩耗させてでも、金を稼がなければならない。

 それは進にとって、論理的な選択ではなく、人間としての最低限の「義」を守るための、血の滲むような決意であった。


 千夜子は鏡の前で両手を合わせ、すがるように父・治郎蔵を見た。

「お父さん、進がまたこんな……法律の力で追い詰められているわ。あの子が何をしたというの」

 治郎蔵は髭を蓄えた厳格な顔を崩さず、ただ静かに言った。

「法を司る者が、法の厳しさを知らぬわけにはいかぬ。あ奴は今、法の表と裏、その両方の重みを同時に背負わされているのだ」


【三足の草鞋わらじと、止まった時計】


 美智子との生活を守りながら、司法試験という天空の頂を目指す日々は、進の肉体と精神を極限まで摩耗させていった。

 進の一日は、まだ街が深い死の静寂に沈んでいる午前4時前に始まる。


 京都の、底冷えのする始発前の冷気に身を縮めながら、進が向かうのはサンドイッチ製造の工場だった。

 午前5時から10時まで、容赦なく回転するベルトコンベヤーの前に立ち、流れてくるパンに、機械的に具材を挟み続ける。

 冷房の効きすぎた室内で、指先の感覚は瞬く間に失われ、思考さえも凍りついていく。

「一分一秒を惜しんで六法全書をめくりたいのに、自分はここで何をしているんだ」

 そんな焦燥を、衣服に染み付くマヨネーズの酸っぱい匂いとともに、進は喉の奥へと強制的に飲み込んだ。


 10時に退勤のチャイムが鳴ると、休む間もなく母校・黎明大学へと自転車を猛烈な勢いで走らせる。

 昼時は、学内の弁当販売のアルバイトが待っていた。

 かつて自分が憧れ、そして今は自分の学問の居場所であるはずのキャンパス。

 そこで進は「売る側」として、華やかな学生たちの波に向かって声を張り上げた。

 「お弁当、いかがですか!」

 サークルの話に花を咲かせる同世代の学生たちが通り過ぎる横で、進は油染みのついた小銭を数え、己の生活の細い糸を繋いだ。


 午後、ようやく手に入れた「勉強時間」は、大学図書館の薄暗い静寂の中にあった。

 しかし、ようやく開いた『基本六法』の文字は、疲労の重みに耐えかねた瞼の裏へ、蜃気楼のように消えていく。

(寝るな……寝てはいけない……ここを耐えねば、鹿沢さんに顔向けができない……)

 どれほど精神の蝋燭を燃やそうとも、朝からの重労働で体は鉛のように重かった。

 不意に意識が飛び、気づけば数時間が経過して、夕暮れの斜光が机の上を赤く照らしている。

 捗らない学習計画、白紙に近いノート。

 進は、己の不甲斐なさに血が滲むほど奥歯を噛み締めた。

 その時、彼の時計は、焦燥の中で完全に止まっているかのようだった。


 そして夜。夕方からは学習塾での講師の仕事が待っていた。

 子供たちの前では、疲れを見せない「教育者」の仮面を貼り付け、明晰な論理で正解を説く。

 しかし、深夜にアパートへ帰り着く頃には、進の魂は抜け殻のようになっており、美智子の淹れてくれた冷めた茶をすする気力すら残っていなかった。


【跳ね上がった苛立ちと、噛み合わない歯車】


 運命は、限界を迎えた弱者に対して、さらなる試練を強いる性質を持っている。

 京都市内の学習塾で掴んだ非常勤講師の職は、進にとって、自らの「知性」と「プライド」を保つことができる唯一の聖域であるはずだった。

 しかし、三足の草鞋による慢性的かつ深刻な睡眠不足は、進の頑なな自制心を、確実に、内側から削り取っていた。


 ある日、中学受験を間近に控えた小学生のクラスを指導していた際のことだった。

 親に強制されて机に座っている、あまりにやる気のない生徒たちの弛緩した態度、私語の雑音。それが、その日の進の脳髄に、不協和音となって突き刺さった。

(なぜ、これほど恵まれた環境にいながら、こいつらは学ぼうとしないのか)

 進の中で、何かがぷつりと切れた。


 「やる気がないなら、今すぐ帰れ!」

 進は手近にあった鉄製のパイプ椅子を、威嚇のつもりで強く床に叩きつけた。

 しかし、極限の疲労による力の加減の狂いか、あるいは机の角に当たったためか、椅子は進の予想に反して猛烈な勢いで跳ね上がり、あろうことか教室内を鋭く引き裂いて、天井のボードを直撃した。


 「ゴン!」という、耳を聾するような鈍い音が響き渡り、教室内は一瞬にして凍りついた。

 子供たちは恐怖に目を見開き、息を止めている。

 その大きな衝撃音に、上の階の住人が血相を変えて階段を降りてくる騒ぎとなり、進はその日のうちに塾長から厳重注意を受けることとなった。

 「キレたら何をするかわからない、危険な男」

 そんなレッテルが、瞬く間に職員室に広がっていく。

 しかしそれは、傲慢さゆえの暴挙ではなく、限界を超えた進の肉体が上げた、悲痛な悲鳴そのものだった。


 指導霊が鏡を見つめながら、静かに告げた。

「器に水を満たしすぎれば、いつかは溢れる。進よ、お前が他者を論理で裁こうとする時、お前自身もまた、その感情の濁流に呑まれているのだ」


【虚無を導く苦行】


 教室内での暴発の後、進は一人の高校生の個別指導を任されることとなった。

 担当科目は現代文と日本史。少年の両親は一流大学への進学を熱望し、多額の月謝を塾に注ぎ込んでいた。

 しかし、当の本人は、毎日、家に帰るとプレイステーションのコントローラーを握りしめ、画面の中のゲームの海へ逃避する毎日だった。


 「大学に行って、君は何をしたいんだ?」

 進がノートを開きながら、極めて低い声で問う。 

 少年は画面から目を逸らさず、面倒くさそうに「特にない」と短く答えた。


 進の脳裏を、黒い虚無がよぎる。

(目的もない人間に、無理に進学を強いる必要などないのではないか。この指導に、一体何の意味があるのか)

 しかし、業務としての現実はそれを許さない。

 学費を全額親に出してもらえる恵まれた環境、冷暖房の完備された静かな学習部屋、望めば何でも手に入る豊かな生活。

 それなのに、なぜこの少年は、目の前にある「未来への切符」を、これほど簡単に捨てようとするのか。


 定時制高校時代、一日の労働で疲れ果てた細い指で、空腹と眠気に耐えながら、1分1秒も惜しんで受験勉強に励んだ自分。

 大学の学費を稼ぐために、定時制高校時代、どれだけ耐えに耐えてきたか。

 進は、内側に煮えくり返るような激しい嫉妬と、それに伴う自己嫌悪の辛い気持ちを押し殺し、ただ虚無に等しい学習の作業を少年に施し続けた。


 結局、少年の学力は最後まで横ばいだったが、偶然の風の吹き回しによって、兵庫県内の中堅私立大学に一般入試で滑り込んだ。

「合格だ。よかったな、これで大学生になれる」   

 進が事務的に告げた言葉に対し、少年から返ってきたのは、進のすべての時間を嘲笑うかのような、絶望的な一言だった。

「……遠いから、そこ行かない。めんどくさいし」


 何のための指導だったのか。

 自分がかけた労力と工夫は、何のためだったのか。

 進は、あまりに深い徒労感の前に、言葉を失い、一人立ち尽くした。


【繰り返される喜劇と悲劇】


 怒り狂ったのは、本人の怠惰を棚に上げた少年の両親だった。

「あんな中堅大学しか受からないなんて、先生の指導が悪いからよ! お金をいくら払ったと思っているの!」

 塾の受付に激しいクレームを叩きつけた両親は、息子をこんな三流の個別指導ではなく、大手予備校に通わせて浪人させると息巻いた。


 対応に当たった塾の業務主任は、進を背後に庇いながら、その両親に対して静かに、しかし毅然とした口調で告げた。

「残念ですが、予備校の大きな教室に行っても、今の本人の意識のままでは、結果は伸びないでしょう。どうしても浪人されるというのであれば、まずは本人の覚悟を固め、管理の行き届くこの個別指導を継続すべきです」

 だが、進歩のないプライドと社会的世間体に支配された両親が、その忠告に耳を貸すことはなかった。彼らは契約を打ち切り、嵐のように去っていった。


 数年後、進の耳に、塾の風の便りでその後の噂が届く。

 翌年、有名な大手予備校に通ったその少年は、前年に合格したはずの、あの兵庫の中堅私大にさえ不合格となり、そのまま受験の世界から、そして社会の表舞台から消息を絶ったという。


 恵まれた環境が、必ずしも人を強くするわけではない。

 むしろ、それは魂をふやかし、危機感を麻痺させる毒にもなり得る。

 その残酷な人間の対比が、進の心に、消えない冷たい澱として残った。

 補助霊として、じっと我が子・進を見つめる千夜子。

 傍らで治郎蔵が言う。

 「人は、飢えていなければ歩けない生き物なんだ。進は、今回それを学んだのだ」

 導き霊が横で頷いた。


【無給の山小屋、孤独な合宿】


 進の心身が限界の閾値を超えようとしていたその夏、追い打ちをかけるように、塾の恒例行事である「夏期勉強合宿」の幕が開いた。

 場所は、京都北部の峻烈な自然に囲まれた、携帯の電波も届かないような山奥の山小屋。

 二泊三日、受験生たちを軟禁状態にして勉強に没頭させる過酷な合宿だった。


 進はこの合宿に、主力講師として強制的に駆り出された。

 だが、その実態は、塾の経営陣による「教育の情熱」という美しい言葉の傘に隠された、完全無給の奉仕活動、すなわち強制労働であった。

 自らの生活費を削り、一百円の奨学金返済の金額に一喜一憂している進にとって、無給で三日間拘束される時間は、精神的な拷問以外の何物でもなかった。


 山小屋の夜。虫の鳴き声だけが響く静寂のなか、疲れ果てた受験生たちが雑魚寝している横で、進は一人、ランプの暗い光を頼りに、ノートの隅で翌月の奨学金返済の冷徹な計算を繰り返していた。

 教育という聖域の名の下で行われる、大人の搾取。

自分を救ってくれた法律が自分を追い詰め、自分を支えてくれるはずの教育が自分から時間を奪っていく。

 いや、本当は進には分かっていた。

 これが労働法違反であることを。

 ただ、敢えて進はそれを口にしなかった。

(トラブルを起こして辞めたら、またどこかに採用してもらわないといけない。それはかえって面倒だ。黙っているしかない)


 進の心は、目の前で無邪気に合格を信じる教え子たちへの純粋な情熱と、自身のあまりに惨めな困窮の間で、激しく、引き裂かれそうに揺れ動いていた。 (僕は、何のために法律家を目指している? この不条理を正すためか、それとも、この不条理から逃げ出すためなのか)


 幽界の鏡を見つめる千夜子は、進のその張り詰めた横顔に、もはや声を上げることもできず、ただ涙を流してその背中をさすろうと手を伸ばした。

 しかし、霊体の手は進の身体を虚しくすり抜ける。


 治郎蔵がその時、千夜子の肩を強く引き寄せ、言った。

「見るのだ、千夜子。進の心は今、現世の不条理という大槌で激しく叩かれ、鍛えられている。無給の労苦も、理不尽なクレームも、すべては進のなかに『弱者への眼差し』と『揺るぎない法の正義』を確立するための、天の荒療治なのだ。進は折れぬ。我が孫は、この闇のなかで、誰よりも強固な城を築くだろう」


 指導霊が静かに二人の背後に立ち、京都北部の深い山の夜空へ、ひときわ眩い、知性の青い星を輝かせた。

 その光は、暗闇の中で一人、計算を終えて六法全書を開き直した進の瞳に、静かに宿るのだった。

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