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第4章 美智子への救い

【砕かれた約束と、熱に浮かされた朝】


 幽界の鏡は、凍てつく京都の街から、さらに東へと時空を滑らせていった。

 千夜子が息を詰めて見つめるその鏡面には、灰色に煙る東京の街並みが映し出されている。

 そこには、進の孤独とはまた質の異なる、しかし同じように底冷えのする地獄を彷徨う一人の若い女性の姿があった。

 定時制高校を卒業したのち、東京という巨大な磁場に吸い込まれるようにして働き始めた美智子。

 それが彼女の現在の姿だった。


 器用に立ち回ることができない彼女の気質は、東京の速度に馴染めず、仕事はなかなか長続きしなかった。

 しかし、そんな泥濘のような日々のなかに、ささやかな救いの光が差し込んだことがあった。

 一人の男性との出会い。

そして、婚約。

 それは彼女にとって、ようやく手に入れた「普通の幸福」という名のささやかな停泊地になるはずだった。


 しかし、その約束はあまりにも容易く、音を立てて砕け散った。

 「君とは、家庭を築くイメージが持てない」

 男の口から放たれた冷徹な断絶の言葉は、美智子の胸を容赦なく貫き、彼女から生きる気力を根こそぎ奪い去った。

 鏡の向こうの美智子は、薄暗い部屋で横たわったまま動かない。

 家事すら手につかず、ただ天井の一点を見つめている。

 自己嫌悪という名の泥沼。

 自分は社会の余剰物、誰からも必要とされない出来損ないの種なのではないか。

 そんな悲痛な自問自答が、彼女の痩せた輪郭から滲み出ていた。


 耐えかねた美智子は、震える手で受話器を握り、父親に電話をかけた。

 美智子の両親もまた、進の家庭と同じように崩壊し、離婚を経験していた。

 彼女は父親に引き取られ、その厳格な視線のもとで育ったのだ。

 だが、受話器の向こうから返ってきたのは、救いの手ではなく、冷たい突き放しだった。

「お前は昔からそうだ。いつも途中で投げ出す。今回だって、お前が悪いんじゃないのか。もう少しだけがんばってみろ」

 美智子は何も言い返せなかった。

 ただ、涙を浮かべながら静かに受話器を置くしかなかった。


 千夜子は鏡を見つめながら、我がことのように胸を痛め、その華奢な肩を抱きしめるように身をよじった。

 「ああ、この子もまた、自分の血筋や存在を否定されて苦しんでいる……。お父さん、どうして神様は、この子たちにこんなに冷たいの?」


 治郎蔵は答えず、ただ静かに髭を蓄えた顎を引き、鏡の奥の美智子を見つめていた。

 その眼差しは、先ほど進の危機を見つめていた時と同じ、深い沈黙に満ちていた。


 美智子は、泥沼の底から最後の一歩を踏み出そうとしていた。

「もう一度だけ、抗ってみよう」

 彼女は震える指先で、都心でのアルバイト面接を予約した。

 平成7年3月のその朝。

 彼女は営団地下鉄に乗り込み、新しい自分を始めるはずだった。


 だが、運命の当日の朝、激しい悪寒が彼女の肉体を襲った。

 寝返りを打つことすらままならないほどの重い疲労感。

 体温計の目盛りは、無情にも38度を超える熱を示していた。

「……申し訳ありません、熱が出てしまって。今日の面接を辞退させてください」

 受話器を置いた彼女は、自らの不甲斐なさに激しい涙を流した。

ここ一番のチャンスさえ、己の体調管理のせいで不意にしてしまう。

 自分という人間の無能さに、心底絶望していた。


 どのくらいの時間が流れただろうか。枕元に置かれた氷嚢が溶け、少しだけ身体が楽になった美智子は、這うようにしてテレビのスイッチを入れた。

 ブラウン管に映し出されたのは、現実のものとは思えない、地獄の絵図だった。


 築地、霞ケ関、神谷町。

 白煙が立ち込める駅の構内、衣服を乱し、ホームや路上に崩れ落ちていく無数の人々。

 苦悶に歪む人々の顔と、狂乱する救急車のサイレン。

 地下鉄サリン事件。


 もし、彼女が健康であったなら。予定通りにあの時刻、あの車両に乗り込んでいたなら、彼女の命が明日を迎えることは確実になかった。

 美智子をその場に縫い付けた「暴力的な高熱」こそが、彼女を未曾有の虐殺から救い出した、見えざる盾だったのだ。


【二人の「回避」、見えざる糸】


 「なんということに……」

 千夜子は幽界の冷気の中で、自身の霊体が引き裂かれるほどの衝撃に立ち尽くした。


 平成7年という、日本の地殻が激しく揺れ動いた年。

 進は関西で、過酷な深夜労働と早朝シフトという鎖に縛られることで、神戸の全壊した家屋から遠ざけられた。

 美智子は関東で、自らの無能を呪うような高熱という檻に閉じ込められることで、東京の猛毒の車両から引き離された。


 二人はまだ、互いの存在すら知らぬまま、それぞれの絶望の淵に立たされていた。

 しかし、死の影が網の目のように張り巡らされたその都市の中で、二人は紙一重のところで同時に「死」を回避させられていた。


「これが……見えざる手、なのですか」

 千夜子は震える声で呟き、父・治郎蔵を振り返った。


 治郎蔵は、その厳格な面持ちのまま、静かに、しかし確信に満ちた声で語りかけた。

「そうだ、千夜子。人間は目の前の不運を嘆き、病を呪い、不条理に涙する。だが、天の網の目は、人間の浅はかな吉凶の基準を遥かに超えて編まれているのだ。あの娘の流した涙も、高熱の苦しみも、すべては『生かす』ための峻烈な采配だったのだ」


 指導霊が、二人の間に立ち、鏡の向こうで震えている美智子と、京都の部屋で生き残った己の手に魂を凝視している進、その二つの命を指し示した。

「千夜子よ、よく見なさい。この二人の命の軌道は、ただ偶然に生き残ったのではない。それぞれが死の淵ですれ違いながら、今、一本の見えない糸によって引き寄せられようとしている。残酷な神の気まぐれに見えるものこそ、いつか二人が出会い、ひとつの大いなる物語を編み上げるための、運命の設計図なのだ。彼らはまだ、その邂逅の意味を、夢にも思っていないがね」


 千夜子は涙を拭い、二つの小さな命の灯火が、見えない引力によってゆっくりと近づいていく様子を、畏怖の念とともに見守るしかなかった。


【崩れゆく既成概念】


 1990年代初頭。日本社会はまるで足元から砂が崩れていくような、巨大な地殻変動の只中にあった。   

 世界が、そして日本が、昨日までの形を維持できずに崩壊していく。

 その歪みは、幽界の鏡を通しても、生々しい震動として伝わってきた。


 1993年、戦後の日本を形作ってきた、38年間にわたる自由民主党の一党支配がついに終わりを告げた。

細川護煕内閣を首班とする「非自民・非共産連立政権」の誕生。

 テレビのブラウン管の中では、ニュースキャスターたちが興奮を隠せない声で「五五年体制の崩壊」「歴史的転換点」という言葉を幾度も繰り返していた。


 それは、進が四畳半の安アパートで、擦り切れるほど読み込んでいる政治学や法学の教科書が、目の前の現実によって次々と「過去の遺物」へと書き換えられていく、目まぐるしい変革の象徴だった。

 昨日までの正解が、今日には通用しない。既成概念という強固に見えた壁が、音を立てて崩れていく。


 しかし、社会がどれほど劇的な「新時代」を謳おうとも、進のミクロな世界に変化は訪れなかった。   

 ただ、型通りの机に向かい、冷え切った指先を息で温めながら、六法全書という名の「理性の檻」に閉じこもる日々。

 司法試験という、天空に聳え立つ巨大な絶壁を見上げ、一歩ずつ、血の滲むような歩みで岩肌を登り続ける孤独な格闘。


 世間が連立政権の行方や選挙制度改革に一喜一憂し、新たな時代の狂騒に沸く傍らで、進は四畳半の静寂の中で、一人だけ時間の止まった世界に取り残されたような、逃れようのない焦燥感と戦っていた。  

 「世界はあんなに変革しているのに、なぜ僕は、まだここにいるのか」

 進の心に、鈴木ふさゑのあの呪詛が再び首をもたげる。

(お前は無能な種だ。何も成し遂げられずに終わる)

 進はそれを打ち消すように、さらに激しく基本書にペンを叩きつけた。

 彼にとって、法を学ぶことは、崩壊していく世界の中で唯一信じられる「絶対的な論理」を掴み取るための戦いだった。


 千夜子はその姿を哀しげに見つめていたが、治郎蔵は進のその頑ななまでの孤立を、むしろ頼もしそうに見つめていた。

 「社会の崩壊に惑わされず、己のなかの法を築こうとしている。あ奴は、古い時代の瓦礫の上で、新しい芽を吹こうとしているのだ」

 祖父の言葉に、指導霊も静かに頷いた。


【幻影の再来】


 平成8年。

京都の冬は、骨の髄まで浸透するような、鋭利で硬い静寂を纏っていた。

 司法試験の短答式の結果を待ちながら、暗い部屋で一人、冷えた空気を吸い込んでいた進のもとに、一通の予期せぬ報せが届く。


 かつて大阪の定時制高校という、社会の片隅に置かれた場所で、共に夜を分け合い、空腹と孤独を凌いだ美智子が、東京での過酷な生活に区切りをつけ、自分を訪ねて京都に来ているというのだ。


 京都駅の冷たい喧騒、プラットホームに滑り込む列車の風の中で、進は美智子と再会した。

 人混みの中に立つ彼女の姿を見つけた瞬間、進は息を呑んだ。

 彼女はかつての面影を残しながらも、どこか焼きを失敗した壊れかけた陶器のような、触れれば一瞬で粉々に砕けてしまいそうな危うさを漂わせていた。


 東京での生活。信じていた者からの婚約の破棄。キャリアの挫折。

 そして、1995年のあの地下鉄での、死の淵を覗き込んだ惨劇。

 彼女が背負ってきた空白の時間は、進が司法試験のページを捲り続けてきた指先よりも、はるかに深く、痛々しくひび割れていた。


駅近くの薄暗い喫茶店。

 運ばれてきた珈琲の湯気の向こうで、美智子は小さく震える手をカップに添えながら、絞り出すように言った。

「伊崎君。私……もうあそこには、いられないの。東京の街も、あの地下の空気も、すべてが私を拒絶しているみたいで……」

 彼女の声は、冬の北風にかき消されそうなほど細く、頼りなかった。


 進は、美智子のその痛々しい姿を見つめながら、同時に頭の中で、狭いアパートの机に積み上がった、埃をかぶった司法試験の参考書や六法全書の束を思い出していた。

 自分の人生さえ、未だ一行の判決文すら下されていない宙吊りの状態なのだ。


「美智子さん」

 進の声は、努めて冷徹に、突き放すような響きを帯びた。

「僕はまだ、暗闇の中にいるんだ。君を構ってあげる余裕なんて、今の僕のどこにもない。次の試験に受かるまでは、自分のことで精一杯なんだよ。今の僕には、他人の人生を背負う重さは耐えられない」


 それは冷徹な拒絶のつもりだった。

 自らの合格を第一に考える受験生としての、何一つ間違っていない「正論」のはずだった。

 人を救う前に、まず自分が泥沼から這い上がらねばならない。それが進の構築してきた論理だった。


 だが、美智子は進のその冷たい言葉に対しても、怒ることも、泣くこともせず、ただ静かに首を振った。

 その瞳には、進の正論をも包み込むような、底知れない寂寥と、奇妙な確信が宿っていた。

 「構わなくていいの。邪魔もしないわ。ただ、あなたのそばで、あなたのページを捲る音を聞いていたいだけ……一人でいるのが、怖いの」


 その言葉を聞いた瞬間、進の胸の奥で、かつて大阪の夜の高校で感じた、あの説明のつかない「共鳴」が、より切実なものとして蘇ってきた。

 お互いに、出来損ないの種として世界から弾き出されかけた者同士。死の影を間一髪で潜り抜けてきた者同士。

 二人を包む京都の冷気は、その共鳴を、もはや拒絶することのできない、二度と逃れられない宿命のようなものへと変質させていった。


 幽界の鏡を見つめる千夜子は、涙を流しながら二人の姿を見つめていた。

「進……美智子さんを、離しちゃダメよ。あなたたちは、二人で一つの一本の木なのだから……」


 治郎蔵は、進が美智子の震える手を見つめ、静かに自らの外套のポケットへその手を導く様子を見て、初めて満足そうに深く頷いた。

「天の采配は、ここに極まれり。一人の論理では超えられぬ絶壁も、二つの魂が寄り添えば、それは生きるための大いなるのりとなる。千夜子、あ奴らの物語は、ここから本当の『生』を紡ぎ始めるのだ」


 1996年の凍てつく京都。

 二人の若者は、互いの傷口を合わせるようにして、静かに歩み始めた。

 まだ何一つ解決していない、暗闇の只中ではあったが、彼らの足元には、どんな震災にも、どんな猛毒にも侵されなかった、強靭な「生」の根が、確かに張り巡らされていた。

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