第3章 見えざる手、生(せい)の境界線
【カフェインの毒と、祖父の静寂】
守護の光を灯した千夜子だったが、幽界の鏡に映し出される進のその後の姿に、再び息を呑んだ。
時は1995年、年が明けたばかりの冬。
深夜労働と勉強の両立に追い詰められた進は、文字通り命を削っていた。
「オールP」や「エスタロンモカ」といった、大量のカフェイン剤。
それをまるで命の灯火を無理やり燃やす燃料のように胃袋へ流し込み、震える手で六法全書をめくる我が子。
眠さに耐えかねて、押しピンを何度も指に突き立てる進。
心臓の早鐘、悲鳴を上げる胃壁。
その苦痛は、霊体となった千夜子の胸にもダイレクトに突き刺さる。
千夜子はたまらず、隣で静かに佇む父・治郎蔵を見上げた。
治郎蔵は髭を蓄えた厳格な面持ちのまま、ただじっと孫の姿を見つめている。
微塵も動揺していない。
「お父さん……」千夜子はすがるように声をかけた。
「なぜ、そんなに冷静でいられるの? 進はお父さんにとっても、血を分けた大切な孫でしょう? ほかにもたくさん孫はいるけれど、こんなに苦しんでいるのよ。どうしてそんなに、遠い国の事みたいに見ていられるの?」
治郎蔵は進が生まれる9年前、昭和33年にすでにこの世を去っている。
生前、進の顔を見ることは叶わなかったはずだ。
だが、それにしてもこの静けさは何なのか。
千夜子にはそれが、時に冷酷にさえ思えた。
治郎蔵はすぐには答えず、ただ深く、長い息を吐き出すようにして口を開いた。
「千夜子。私たちが現世の肉体を脱ぎ捨ててここにいるのは、なぜだと思う。生前、私はお前たちの苦しみをすべて肩代わりしてやることはできなかった。だがな、ここから見える景色は、地上の人間が見ている景色とは、まるで違うのだ」
多くを語ろうとしない父の横顔に、指導霊がそっと言葉を添えた。
「千夜子よ。治郎蔵が冷静なのは、冷酷だからではない。彼は『知っている』のだ。人間がどれほど不条理に塗れ、死の淵を歩いているように見えても、魂のシナリオというものは、常に『見えざる手』によって完璧に守られているということを」
【神戸の誘い、断腸の拒絶】
その時、鏡の中の時空が動き、ある日の夜の光景を映し出した。
進が働く塾の同僚講師が、疲弊しきった進の肩を叩いている。
「進さん、今夜うちへ来ないか。たまには息抜きをしよう。神戸の自宅でゆっくり飲み明かそう。うちの両親が旅行中だから、進さんは一階で寝ることができますよ」
それは、孤独な荒波を漂う進にとって、あまりにも甘美で温かい誘いだった。
一晩中、誰かと語り明かし、温かい布団で泥のように眠る。
今の彼が最も欲している休息が、そこにあった。
千夜子は思わず祈った。
(お願い、進……行って。たまには息を抜いて、誰かに甘えて頂戴……!)
しかし、進は寂しげに首を振った。
「……申し訳ありません。明日の朝、製造業のシフトが早いんです」
断腸の思いで頭を下げ、進は一人、京都の冷え切った六畳一間へと帰っていった。
画面を見ながら、千夜子はがっくりと肩を落とした。
「ああ、あの子ったら、どこまでクソ真面目なの。せっかくの優しさを断るなんて。また自分を追い込んで、孤独の闇に戻っていくなんて……」
だが、治郎蔵は何も言わず、ただ進の帰るアパートの屋根に、ひときわ強い、厳格な光の障壁を張るような仕草をした。
【咆哮する大地と、剥き出しの生】
運命の瞬間は、それから間もなく訪れた。
1995年1月17日、午前5時46分。
突如として、幽界の鏡が激しく激震した。
地上の関西一円を、未曾有の大震災が襲ったのだ。
大地が激しく咆哮し、一瞬にして街の灯りが消え、多くの命と建物が薙ぎ倒されていく。
阪神・淡路大震災。
数日後、京都の街で無事だった進は、風の噂で、あの夜誘ってくれた同僚講師の「その後」を知ることになる。
あの夜、進を招こうとしていた神戸の自宅は、激震によって一階部分が無惨に押し潰され、完全に圧死する形で全壊していたのだ。
もし、あの夜。
進が自分の「生真面目さ」を緩め、誘いに応じて一階の客間で泥のように眠っていたら。
間違いなく、進の命はあの瓦礫の下で途絶えていた。
「あっ……あ、ああ……!」
千夜子は口を押さえ、恐怖でガタガタと震えだした。
進が選んだ、あの割に合わない、睡眠時間を削るための「早朝のシフト」。
あの子を苦しめていたはずの過酷な労働環境こそが、結果として、進を神戸の死地から遠ざける「蜘蛛の糸」になっていたのだ。
進はアパートの部屋で、剥き出しになった生の実感を前に、言葉もなく、ただ自分の震える手を凝視していた。
生かされた。なぜ自分は生きているのか。
その問いが、彼の魂に深く刻まれていく。
【天網の采配】
千夜子は呆然としながら、父・治郎蔵の顔を見た。
治郎蔵は、相変わらず静かな目で千夜子を見つめ返した。
「分かったか、千夜子。お前があの子を哀れみ、可哀想だと嘆いていた『過酷な現実』が、実はあの子の命を繋ぎ止めるための、最大の守護だったのだ。人間の浅はかな知恵で『どちらが幸福か』など、測れるものではない」
千夜子は涙が溢れるのも忘れ、ただただ天の采配の恐ろしさと、奥深さに平伏するしかなかった。
1枚300円の添削で味わった屈辱も、減給の不条理も、カフェインに頼るほどの過労も、すべては進を「その日、その時刻に、その場所」に留めておくための、精緻に組まれたパズルのピースだったのだ。
「お父さん……私、何も見えていませんでした。ただ目の前の苦しみだけを見て、大騒ぎして……」
「それでいいのだ、母親なのだから」
治郎蔵は初めて、千夜子の頭に優しく手を置いた。
「だが、もう知ったろう。進の命は、現世の不条理ごときで潰されるほど柔ではない。あの子は、生かされたのだ。これほど大きな天の意思によってな」
指導霊が静かに告げる。
「さあ、千夜子。あの子はこれから、さらに過酷な『生』の意味を背負って立ち上がる。お前の祈りを、恐れからではなく、絶対の信頼へと変える時です」
千夜子は深く頷いた。
1995年の凍える京都の空の下、奇跡的に繋がれた命を抱きしめるようにして佇む進。
その細い、けれど決して折れない背中に向かって、千夜子は今、ただただ深い感謝と、確信に満ちた守護の光を送り続けるのだった。




