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第2章 朱筆の涙と、魂の秤

【1枚300円の生真面目】


 進がせっかく見つけた「教育」に関わる仕事。

 それは、塾の事務員から紹介された「赤ペン先生」だった。

 「これで、肉体労働を減らせる」

 そう思った進だった。

 しかし、そこで進を待っていたのもまた、持てる時間と精神を限界まで搾取される過酷な現実だった。

 幽界の鏡に映し出される1994年の暮れ。

 寒々とした六畳一間で、進は赤ペンを握りしめ、中高生の答案に向き合っていた。


「あの子ったら……1枚300円にしかならないのに、どうしてそこまで丁寧に書くのよ。適当に丸をつけて、一言二言褒めておけばいいのに……!」


 千夜子は胸をかきむしられる思いでその姿を見ていた。

 進は、生徒が書いた拙い文章の行間を読み、語彙の選択を導き、余白が真っ赤に染まるほどの熱量でコメントを書き込んでいた。

 難解な現代文ともなれば、1枚仕上げるのに1時間近くかかっている。

 時給換算でわずか300円。

 その1時間があれば、自分の司法試験の勉強ができたはずなのに。

 赤インクで汚れた指先を見つめて虚無感に襲われる我が子を見て、千夜子の心は再び引き裂かれそうになった。


【「価値」なき指弾】


 さらに千夜子を激怒させたのは、添削事務局での冷徹な一幕だった。

 「伊崎先生、この『価値観』の『値』の字、書き間違えていますね。理由をお聞かせ下さい。正当な理由がないなら、無給で特別研修を受けていただきます。交通費も全て自己負担です」


 連日の過労と睡眠不足の中での、たった一文字の誤字。

 進がどれほど生徒の未来を想い、魂を込めて添削したかには目もくれず、官僚的な記号チェックで進を追いつめる担当者。

 「結構です。本日限りで辞めさせていただきます」

 激怒を押し殺して赤ペンを置いた進の、荒れた手のひらを見た瞬間、千夜子は涙を流して指導霊にすがりついた。


 「指導霊様、お父さん! 私はやっぱり駄目です! 先ほど『すべては経験』だと自分を納得させようとしたのに、こんな不条理な仕打ちを受ける進を見たら、またあの担当者への怒りと、あの子への哀れみで狂いそうになる……。私は、何も変わっていません。ちっとも成長していない、霊格なんて全く上がっていないんだわ!」


 千夜子は自らの進歩のなさに絶望し、幽界の床に崩れ落ちた。


【悩むこと、それ自体の輝き】


 激しく泣きじゃくる千夜子の前に、指導霊が静かに歩み寄り、その手を取って立たせた。

 その眼差しは、呆れるどころか、これまでにないほど温かいものだった。


 「千夜子よ。己の霊格が上がっていないと、そうやって深く悩むこと自体が、お前の魂が一段高い階層へ上がった何よりの証拠なのだよ」


 千夜子が涙を拭いながら見上げると、治郎蔵もまた、我が子を誇るような優しい笑顔を浮かべていた。


 「生前のお前ならどうだった? 進が不条理に遭えば、ただ相手を呪い、世間を呪い、怒りの炎に身を任せていただろう。自分が成長していないのではないかと内省し、己の心の在り方に苦悩する……それは、感情の奴隷から抜け出し、魂の向上を本気で希求する者だけが持てる『聖なる悩み』なのだ」


 指導霊は地上の進を指さした。

 「見なさい。進もまた、あの担当者に激怒して辞めたが、紹介してくれた事務員が頭を下げたとき、相手を責めなかった。かつての進なら、あんなところをなぜ紹介したのだと責めたかもしれない。だが、今の進には、他人の痛みを推し量る『器』が備わりつつある」


【価値観の「値」を刻む場所】


 「進は今、文字通り『価値観』の『値』……人間としての本当の価値とは何かを、身をもって学んでいるのだ。1枚300円の労働の重みを知る者が、将来、どれほど弱者の味方になれるか。一文字の誤字で人を指弾するような冷血な者にならずに済むか。この苦い冬は、あの子の未来に不可欠な、極上の堆肥なのだよ」


 指導霊の言葉が、千夜子の冷え切った心にじわりと染み込んでいった。

 自らの未熟さに悩むこと。

 それこそが、現世の執着から離れ、高次の霊性へと向かう階段の一段目だったのだ。


 千夜子は大きく息を吸い込み、涙を拭った。

 彼女の霊体からは、先ほどの混沌とした赤色は消え、静かで、しかし確固たる意志を持った純白の光が放たれ始めた。


 「お父さん、指導霊様。ありがとうございます。あの子の手のひらに残った荒れた皮膚も、赤インクの染みも、すべてあの子が本物になるための勲章だと信じて、今度こそ、揺るがずに見守り続けます」


 薄暗い京都の夕暮れ、赤ペン先生を辞めてトボトボと歩く進の細い肩に、千夜子はそっと、温かく力強い、ブレることのない守護の光を注ぎかけるのだった。

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