第1章 空腹の正義、泥を啜る「正論」
多くの恨み、憎しみから解放されつつある、進の母・千夜子。しかし、我が子・進の現状は、千夜子をどうしても平静な心でいられない状況を作り出していた。
【幽界からの慟哭】
浄化が進み、穏やかさを取り戻していた千夜子の魂が、再び激しく震え始めた。
眼下の地上、平成初期の京都。
そこに、かつての自分と同じように、あるいはそれ以上に困窮し、泥を這いずるような生活を送る息子・進の姿があったからだ。
「お父さん、指導霊様……。見ていられません。あの子、タイ米に活性炭を入れて、牛脂をもらって……。あんなに痩せ細って、それでも本を手放さないなんて。なぜ、一生懸命に生きようとする者ばかりが、こんな目に遭わなければならないのですか!」
進は、司法試験の予備校費用捻出に苦戦していた。
できるだけ食費を安く済ませたいと考えた進は、タイ米を主食にすることを考え付いた。
食感と独特の風味を改善しないといけなかった。
そして、活性炭を入れて炊く方法、もち米をほんの少し混ぜる方法を開発した。
油は、無料の牛脂を使った。
しかし、千夜子は、進がようやく編み出した「タイ米と餅米の黄金比」に歓喜した直後、米不足の解消によって安価な糧を失い、絶望する姿を見て、たまらず治郎蔵の衣の袖を掴んだ。
「あの子に食べさせてあげたい。あの子が大好きだった、私が握ったおにぎりと卵焼きを……。どうして私は、ここにいるの!」
【「正論」という名の諸刃の剣】
さらに千夜子を苦しめたのは、進の「善意」が招いた最悪の結末だった。
塾の教壇に立つ進。
自分自身の栄養失調による体調不良を自覚しているからこそ、生徒には「健康な食事が大事」と説いた。
しかし、その言葉が、貧困と多忙に喘ぐ家庭の逆鱗に触れた。
塾長から浴びせられる怒号。
「インスタントがだめだなんて、みんなの前で言うんじゃない。メシを食わせる親の大変さを知れ!共働きの親は、インスタントしか準備できないんだよ」
その言葉は、かつて女手一つで進を育て、身を削ってパートを掛け持ちした千夜子自身の人生を肯定する言葉でもあった。
だが、同時に、今まさに餓死寸前で踏ん張っている進にとっては、あまりに過酷な追撃だった。
「君は来月から減給だ。生徒が4人も辞めたんだ。当然だろう。迷惑なことされると、困るんだよ」
激怒した共働きの家庭。
その家の子だけでなく、友達3人が、一緒に塾を辞めてしまった。
かなり大きな打撃だ。
その原因は進だとされたのだ。
「塾長の言うことは分かります。でも、進はあの子たちの合格を願っただけなのに。減給なんて……深夜の工事現場まで行かせるなんて、あの子の体が持たないわ!」
千夜子は指導霊に食ってかかった。
「これが『研磨剤』なのですか? これがあの子の魂を磨くために必要なことなのですか? 磨きすぎて、あの子が壊れてしまったら、何の意味もないじゃない!」
【指導霊の静かなる「鏡」】
指導霊は、千夜子の激昂を静かに受け止め、鏡のような水面を指し示した。
「千夜子よ。お前が進の代わりに食事を運ぶことはできない。だが、今の進が学んでいるのは、学問ではなく『人間という生き物の不可解さと痛み』だ。彼は今、かつて自分が軽蔑したかもしれない『自堕落に見える人々』の背後にある絶望を、その身をもって知ろうとしている。正論が、時に人を殺す凶器になることも、空腹がどれほど人の誇りを奪うかも」
治郎蔵が、千夜子の震える肩を抱き寄せた。
「千夜子、思い出せ。お前もそうだったろう。俊郎と別れ、木島の家を飛び出した。事情があるのはわかる。だがな、もし誰かに『親の勝手で子供を振り回すな』と正論を言われたら、どう思った?」
千夜子は言葉を失った。あの時の自分なら、きっと相手の顔を爪で引き裂いていただろう。
「千夜子、お前が男を見る目がないから、息子をこんな目に合わせたんだと誰かから言われたらどうする。腹が立つだろう」
確かにその通りだった。
治郎蔵が続けて言う。
「進は今、その『痛みの淵』に立っている。お前がやるべきことは、泣くことではない。あの子が、その暗闇の中で『自分の心』という光を見失わないよう、ただひたすら、強い祈りの光を送り続けることだ」
【祈りの解像度】
千夜子は、乱れた呼吸を整えた。
感情的になればなるほど、自分の光は曇り、進には届かなくなる。
彼女は目を閉じ、進の冷え切った六畳一間のアパートに、温かな橙色の光を送るイメージを浮かべた。
「……進。ごめんなさい、お母さん、また取り乱してしまったわ。塾長に怒鳴られても、パンの耳を囓っていても、あなたは決して卑怯な道には逃げなかった。タイ米を美味しく食べようと工夫したあなたのその強さは、お母さんの自慢よ。工事現場の寒さの中で、あなたの指先が凍えないように。深夜の工場で、あなたの心が折れないように。お母さんは、ここでずっと、あなたの魂を温め続けるから」
千夜子の魂から、激しい赤色が消え、深い藍色と黄金の混じった、静謐な守護の光が放たれた。
地上の進は、深夜の建築現場で重い資材を運びながら、ふと、不思議な温かさを感じて顔を上げた。
夜空の向こうに、自分を見守る誰かの眼差しがあるような——。
進は再び軍手を締め直し、泥にまみれたその手で、明日への一歩を踏み出した。
(あと、もう少しで大学卒業時の借金返済が、半分終わる。)
進は、「あと半分、あと半分」と繰り返していた。
父・治郎蔵や指導霊に導かれ、またも学びの時間を与えられた千夜子。この場はこれで収まります。しかし、また進が出会う困難を目にする千夜子。千夜子は、今度こそ平静でいられるのか?次回に続きます。




