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第5章 天網(てんもう)の果て、善悪の彼岸

【 五人の影、五つの報い】


 千夜子の魂がかつてない透明度を見せる中、治郎蔵が静かに問いかけた。

「千夜子、まだ心の片隅に残っている者たちはいないか。あの五人はどうだ……お前と進を蔑み、傷つけた者たちは」


 千夜子は少しだけ考え、小さく微笑んだ。

「お父さん。以前なら名前を聞くだけで動悸がしたかもしれません。でも今は……きっと、あの方たちも哀れな人生を歩んでいるのだろうな、と思えるのです」


 指導霊が静かに頷き、幽界の霧の向こうに、五人の「その後」を映し出した。


 俊郎の元妻は、俊郎の実家から得た多額の慰謝料で、勝利を確信したはずだった。

 だが、その直後に末期の癌が発覚した。

 無機質な病室で、死の淵に立った彼女が最期に呼び続けたのは、あれほど憎み、生ゴミを浴びせた俊郎の名であった。


 葬儀で治郎蔵の死を嘲笑ったその男は、オイルショックの荒波に呑まれ、会社が倒産した。

 かつての傲慢さは見る影もなく、冬の路上で凍えるホームレスへと転落していた。


 進の小学校の時の担任・角川は、交通事故に遭った進をあざ笑った男だ。

 定年退職時に、生徒たち全員から、とんでもない酷い寄せ書きをもらう。

 精神的に打ちのめされた後、家庭内暴力が噴出し、一家離散。

 今は誰にも看取られぬ孤独な余生を送っていた。


 学歴を理由に千夜子を面接で不採用にした学習塾塾長は、信奉していた「旧帝大卒」の講師が不祥事を起こし、塾を閉鎖した。

 かつて自分が千夜子にしたように、今は自分が面接の門前払いを食らい続ける日々を過ごしている。


  進を傷つけた息子をかばい、「馬鹿にされるのは自業自得」と言い放った進のクラスメイト加登の母親。

 彼女の息子は、高校中退後に引きこもりとなった。

 さらに夫の不正疑惑で親戚中から爪弾きにされることになった。

 「なぜ私がこんなイジメを受けなければならないの……」と、かつて自分が進に与えた苦しみの中に、自ら囚われていた。


「復讐など、自らの手でする必要はない。天網恢恢疎にして漏らさず。天の網は広く、目は粗いようだが、悪人を漏らすことは決してないのだ」

 指導霊の声が、冷徹な真理として響いた。


【善悪という名の「眼鏡」】


 五人の末路を見届けた千夜子は、どこか物悲しさを感じていた。

 最初は、自分を傷つけた者たちが不幸になったことで、喜びが湧くかと思っていた。

 しかし、そこにあるのはただ、乾いた風が吹き抜けるような虚無感だった。


「指導霊様。結局、因果応報があるのなら、この世は『悪』が裁かれる場所なのですね?」


 千夜子の問いに、指導霊はゆっくりと首を振った。

「千夜子よ。ここで最も大切なことを教えよう。お前が見てきた『善人』や『悪人』……それは、あくまで人間という視点から見た仮の姿に過ぎない。この宇宙には、絶対的な善も、絶対的な悪も存在しないのだ」


 千夜子は驚き、隣の治郎蔵を見たが、彼はただ穏やかに目を閉じている。


「例えば、お前を不採用にした塾長がいなければ、お前は別の道を探し、進を育てるための強さを得られなかったかもしれない。進を笑った角川がいたからこそ、進は『人を見下す大人にはなるまい』と心に誓い、今の深い慈悲を持つ講師になれた。……彼ら『悪役』は、お前たちの魂を磨くために、その人生において忌まれ役を演じてくれた『研磨剤』でもあるのだ」


【魂のパズル】


「研磨剤……。あんなに酷い仕打ちをした人たちがですか?」

 千夜子の困惑に、指導霊はさらに言葉を重ねた。


「光が強ければ影も濃い。木島も、鈴木ふさゑも、それぞれの欠落と恐怖の中で、精一杯に生きていた。彼らが放った悪意という火種を、呪いとして一生抱え続けるか、それとも自分を焼き鍛える炎として使うか。それは受け取る側の魂の選択だ。お前たちは、その火を光に変えた。だからこそ、今こうして高い階層へと昇っている」


 千夜子は、自分の人生というパズルを見つめ直した。

 欠けていたピース、汚れのついていたピース。

 それらすべてが組み合わさって、今の「千夜子」という魂の形ができている。

 もし、あの五人が「聖人君子」ばかりだったら、自分はこれほどまでに深く人を愛し、進を案じることはできなかったかもしれない。


「絶対的な悪はない……。ただ、未熟な魂が、痛みを伴いながら学んでいるだけなのですね」


 千夜子がそう呟いたとき、彼女の背後に、さらなる高みへと続く光の階段が現れた。


「その通りだ、千夜子。お前はもう、誰かを『悪』として裁く必要はない。ただ、すべてを『経験』という輝きに変えて、進の行く先を照らしてやりなさい」


 治郎蔵が千夜子の手を取った。

 二人の影は、もはや現世の恩讐に揺らぐことはない。

 千夜子は、地上でシャープペンシルを握り、真剣な眼差しで答案に向き合う進の姿を、宇宙の深淵から見守るような慈愛で見つめていた。

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