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第4章 ついに開かれた資格試験予備校講師への道

【研修の終わり、明かされた真実】


 翌日、進の仕事は珍しく夕方からだった。

 毎日毎日、限界まで根を詰めた日常が続く進にとっては、それが久しぶりの、天から与えられたような休息の時間になるはずだった。

 しかし、昨夜の進は一晩中眠りが浅く、何度も寝返りを打っていた。


「なんてことをしてしまったんだ。きちんと準備していけば、もっと自信を持って問題が解けただろうに。せっかくのチャンスを、自分の手で潰してしまった……」


 天井を見つめる進の胸に、黒い後悔が何度も何度も湧きあがっていた。


 そんな時だった。


 静まり返った部屋に、携帯電話の鋭い着信音が鳴り響いた。

 画面に表示されたのは、あの予備校の番号だった。

 進は緊張で喉を鳴らしながら、受話器を耳に当てた。


「昨日はお越し頂きありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました……」


「総合的に判断した結果、伊崎さん、あなたを講師として採用させて頂くことになりました」


「えっ……あ、あっ、ありがとうございます!」


 思いがけず届いた「採用」の二文字に、進はまるで狐に包まれたような心地で呆然としていた。

 千夜子は嬉しさのあまり、「やったわ!」と声を上げて治郎蔵の手を握りしめた。


 もちろん、プロの世界は甘くない。

 そこから一ヶ月間、寝る時間さえ惜しむような過酷な講師研修が行われた。

 だが、進の顔に苦痛の色は全くなかった。 

 ここを泥にまみれて戦い抜けば、その先には新しい、自分が求めてやまなかったステージが開けていると知っていたからだ。


 研修の最終日。


 担当のマネージャーが進の元へ歩み寄り、書類をファイルに収めながら話しかけた。


「これで研修の全日程が終了しました。本当にお疲れさまでした、伊崎さん。何か、最後に聞いておきたいことはありますか?」


 進は、ずっと胸の奥に引っかかっていた、あの初日の疑問を思い切ってマネージャーにぶつけた。


「あの……初日の基礎知識の筆記試験ですが、私は本当に散々な出来だったはずです。見落としもあり、準備もできていなかった。なぜ、そんな私を採用してくださったのでしょうか」


 マネージャーは進の真面目すぎる顔を見つめ、それからふっと口角を上げて、愉快そうに笑った。


「散々な出来? 伊崎さん、あなた一体何を言っているんですか。あなたのスコアは、30問中29点。受験者の中で、圧倒的なトップですよ」


「……えっ」


 絶句する進の脳裏に、あの冷や汗をかいた試験場の光景が鮮烈に蘇っていた。


 手応えがない、忘れてしまった、そう思い込んで焦っていた進の肉体と頭脳は、あの極限の極貧生活と孤独な独学の中で、すでに「生存本能」のように、正確な正解をその指先から導き出していたのだ。

 忘れたはずの知識は、彼の血肉そのものとなって、彼を裏切らずにそこに在り続けたのだ。


【報われた歳月と、真の天職】


 その夜、進はアパートへ帰るなり、美智子にその事実を報告した。

「29点だったんだ。圧倒的トップだったそうだ」

 その数字を伝えると、美智子は少しだけ目を丸くし、それから春の柔らかな日差しのような、本当に嬉しそうな微笑みをその顔に浮かべた。


「ほらね。無駄にならなかったでしょ。私、分かるのよ、進君の努力はずっと本物だったもの」


「……ああ。美智子さん、本当にありがとう」


 窓の外を見遣れば、京都の街には新しい季節のまばゆい光が溢れていた。


 パンの耳を囓り、押しピンを指に突き立て、マヨネーズの匂いに塗れながら、泥を啜るようにして生きてきたあの孤独な歳月。

 そのすべての苦しみが、この「二十九点」という数字の中に、そして明日から彼が堂々と立つべき教壇の中に、美しく報われる瞬間を待っていたのだ。


 千夜子は、進が自分の(てのひら)を見つめ直す姿を、涙で潤んだ目で見つめていた。

 あの子の胸には今、かつて私が心の底から夢見ていた、大勢の聴衆を前にして、堂々と「正義」と「法」を語る我が子の姿が、確かな、決して消えない輪郭を持って浮かび上がっているのが分かった。


【あの日の定時制高校教師の予言】


 採用の報せを握りしめ、自らの掌を見つめていた進の脳裏に、ふと、もう一つの古い記憶が蘇っていた。

 それは、黎明大学への合格が決まった直後の、あの春の宵のファミリーレストランでの会話だった。


 向かいに座っていたのは、あの大阪の定時制高校で、飢えと孤独に震える進をいつも温かく見守ってくれていた、家庭科担当の軽部先生だった。

 先生は進の大学合格を、まるで自分の子供のことのように涙を流して喜び、当時まだ珍しかったファミリーレストランへ連れ出して、ささやかな祝宴を開いてくれたのだ。


 ハンバーグの温かな湯気の向こうで、軽部先生はグラスを置くと、ふと真剣な、深い眼差しを進に向けた。


「進君、これからはあくまで私の独り言として聞いてね」


 先生は静かに言葉を繋いだ。


「私はね、進君は弁護士より、教师の方が向いているとずっと思ってきたのよ」


 当時、弁護士バッジを目指して一辺倒だった進は驚き、手にしていたフォークを止めた。


「……それは、学校の先生ということでしょうか」


「いいえ、違うの」


 軽部先生は優しく首を振った。


「そこが自分でもうまく説明できないんだけど……。進君はね、たぶん『やる気のない子』を無理やり向かせるのは、あまり得意じゃないかもしれない。でもね、やる気はあるのに理解が追いつかない人や、情熱はあるのに勉強の要領が掴めなくて暗闇で泣いている人、そんな人を教えるのは、本当に天才的よ。高校の家庭科の授業の時だって、隣の席の子に教えているあなたの姿を見て、私、教師の私より教えるのが上手いなと思ったくらいなんだから」


「とんでもないです……」


 進は恐縮して顔を赤らめていた。しかし、軽部先生の予言のような言葉は止まらなかった。


「たぶん、小中学校の先生は向いてないわ。あそこは勉強以前の生活指導が多すぎるから。でもね、もっと別の……人生のなかで『何かを掴みたい』『ここから這い上がりたい』と切望している大人たちを相手にした時、進君、あなたの言葉は、誰よりも強い、彼らの行く手を照らす光になる気がするのよ」


【繋がった点と線】


「ああ……軽部先生……」


 千夜子は鏡の向こうのその古い記憶の映像に向かって、深く、深く頭を下げた。

 進がまだ「司法試験」という目に見える輝かしい頂だけを目指し、法律家になることこそが母との約束を果たす唯一の正解だと信じて疑わなかったあの頃に、進の「真の天職」を見抜いていた人がいたのだ。


 30問中29点という圧倒的な数字。


 そして、宅建講師から、これから始まる公務員試験講師への道。

 それは、かつての自分と同じように、不条理な社会の底で「武器」を求めて必死にもがいている受験生たちに、法律という名の最強の剣を授ける聖職だった。


(軽部先生、あなたはあの時、すでに今の僕の姿が見えていたんですね……)


 進はアパートの窓に映る、自分の引き締まった大人の顔をじっと見つめ、静かに、そして深く頷いた。


 弁護士バッジを胸に輝かせることだけが正義ではない。

 暗闇で立ち往生し、どうやって歩めばいいか分からずに震えている受験生たちの手を力強く引き、自らが磨き上げた理路整然とした法の論理で、彼らの世界を、彼らの未来を鮮やかに照らし出すこと。


 「やる気はあるが、要領が悪い人を救う。不条理に泣く人の手を引く」


 その言葉こそが、伊崎進という男が命をかけて歩むべき、真の「正義」の形だったのだ。


 千夜子は、その進の晴れやかな、迷いの消えた横顔を見つめながら、声をあげて泣いた。

 それは悲しみの涙ではなく、あまりに美しく繋がった運命の糸への、圧倒的な感動の涙だった。


 「お父さん……指導霊様……進は、自分の本当の居場所を見つけたわ。あの子の叩き込んできた知識が、これからは無数の人たちの命を救う光になるのね……!」


 治郎蔵は、千夜子の肩をそっと抱き寄せ、その厳格な顔にこの上ない誇らしさを湛えて、鏡の中の孫へ向かって深く頷いた。


「そうだ、千夜子。進は現世の不条理を自らの力で裏返し、他者を照らす本物の灯火となったのだ。天の采配に、一片の狂いもなし」


 指導霊が静かに手を掲げると、京都の夜空に、進の未来を祝福するかのような、ひときわ大きく、揺るぎない知性の青い星が、黎明の光の中に溶けていくように美しく輝き渡るのだった。

 進の本当の「講義」が、今、満天の拍手の中ではじまろうとしていた。

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