第四話 腫れた顔と餌の缶詰
夕方の路地は猫の時間だ。
塀の上から見下ろすと、影が長く伸びている。
西の空がオレンジに滲んで、電線が黒い線になって横切っていた。
どこかでカラスが鳴いた。
遠くに夕飯の匂い。
醤油と油の混じった、腹が鳴る匂いだ。
気ままに過ごす夕方というのも、悪くない。
路地の角に人影が現れた。
大柄だ。
制服のシャツが出ている。
歩き方が重い。
いつもと違う。
(ハヤトか)
古いアパートの外壁と塀の間、人一人がやっと通れる隙間がある。
そこにハヤトはしゃがんだ。
無造作なようで、慣れた動きだった。
缶詰を開ける音がした。
(また置きに来たのか)
顔を上げた時、街灯の光が当たった。
左頬が腫れていた。
口の端が切れている。
(お前また喧嘩してきたのか)にゃー
ハヤトがこちらを見た。
「よお、にゃん吉」
(誰だよにゃん吉って)にゃ
缶詰を地面に置いた。
丁寧に、端が当たらないように、そっと。
腫れた顔のまま、その手つきだけが妙に優しかった。
塀から飛び降りた。
ハヤトの隣にしゃがんだ格好になった。
腫れた左頬に、そっと肉球を当てた。
(お前これ大丈夫か?)にゃ
「…っ痛」
ハヤトが苦笑いした。
視線を落として、少し間があった。
「これか、だっせーよな……」
(不器用なんだよな、お前は)
(分かってもらえないのも)
ハヤトがこちらを見た。
おでこをくっつけてきた。
体温が伝わってきた。
汗と埃の匂いがした。
息が少し荒い。
「今のままじゃダメだよな」
誰に言っているのか分からなかった。
たぶんハヤト自身にも分からなかった。
尻尾を一度、ゆっくり振った。
そのままハヤトの頬を、往復した。
「っ……痛って、わかったよ」
ハヤトが小さく笑った。
「飯の邪魔してごめんな」
立ち上がった。
シャツを直して、重かったはずの足が、少しだけ軽くなった気がした。
(まあ、無理せず自分らしく頑張れや)にゃー
尻尾を振った。
路地に夕焼けが差し込んできた。
醤油の匂いが濃くなった。
どこかの家で、誰かが夕飯を呼びかける声がした。
缶詰はまだ温かかった。




