第十一話 就職と旅立ち
三月の夕方は風がまだ冷たい。
でも日差しに春が混じり始めていた。
路地の影が長く伸びて、石畳を橙に染めていた。
どこかで梅の匂いがした。
いつもの場所に向かった。
古いアパートの外壁と塀の間の隙間。
人一人がやっと通れる、あの狭い場所だ。
遠くから人影が見えた。
大柄だった。
でも歩き方が違う。
いつもはシャツが出ていた。
今日は制服がきちんとしていた。
ネクタイが締まっていた。
髪が整っていた。
右手に缶詰。
左手に筒。
(ハヤトか)
近づいて、顔を見た。
腫れていない。
口の端も切れていない。
傷一つない顔だった。
ハヤトがこちらを見た。
「よお、にゃん吉」
(誰だよにゃん吉って)にゃ
いつもと同じ言い方だった。
でも声が違った。
どこか、腹の底から出てくる声になっていた。
しゃがんで、缶詰を置いた。
あの時と同じ手つきで、丁寧に、端が当たらないように、そっと。
缶詰を開ける音がした。
しばらく黙っていた。
「高校、卒業した」
缶詰の蓋を脇に置きながら言った。
「就職して、街出るんだ」
「…遠くに」
路地に風が抜けた。
電線が揺れた。
カラスが一声鳴いて、飛んでいった。
ハヤトが左手の筒を見た。
少し間があった。
「これからは、自分の力で生きていく」
筒を持ち直した。
「それだけは決めた」
誰かに言い聞かせるんじゃなかった。
自分に言い聞かせるんでもなかった。
ただ、決まっていることを口に出しただけだった。
三十八年間、そういう顔をした人間を何人も見てきた。
覚悟が決まった人間の顔だ。
缶詰を地面に置いた。
「これで最後になるけど」
「ごめんな」
(謝るな)
(お前が置いてきたもんは全部食った)
(一度も残したことはない)にゃー
ハヤトがこちらを見た。
おでこをくっつけてきた。
あの時と同じ体温だった。
でも今日は埃の匂いじゃなかった。
清潔な、どこか緊張した匂いがした。
少し間があった。
ハヤトが立ち上がった。
筒を脇に抱えた。
背筋が伸びていた。
制服がきちんとしていた。
「にゃん吉も元気でな」
踵を返した。
背中が大きかった。
歩き方が迷っていなかった。
今日のハヤトは大人の顔をしていた。
角を曲がって、見えなくなった。
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缶詰が残っていた。
最後まで食べた。
路地に夕焼けが差し込んできた。
風がまだ少し冷たかった。
でも確かに、春の匂いがした。




