第5話 世界一不憫な魔王の誕生
(このままでは、死ぬ)
ディアボロスの脳裏に、その一言だけが繰り返し木霊していた。
目の前の少女――セシリアは、再び両手に光の粒子を集め始めている。彼女の表情に迷いは一切なく、むしろ「次はどんな愛を届けようか」とでも言いたげな、無邪気な笑みすら浮かべていた。
(普通の敵ではない。話が通じないわけではない……いや、通じてはいるが、根本的に思考回路がズレている……!)
ディアボロスは瓦礫の中で必死に頭を働かせた。魔界の絶対君主として幾多の戦を制してきた彼の戦略眼が、今この瞬間、警鐘を打ち鳴らしていた。
(正面から戦えば、魔界が滅ぶ)
これは決して大げさな表現ではなかった。
たった一撃の「愛の癒やし」で、魔界随一の要塞である魔王城がここまでの惨状に陥ったのだ。もしセシリアが本気で敵意を持ち、全力で攻撃を仕掛けてくれば、魔界そのものが地図から消え去りかねない。
(この女は、悪意なく世界を滅ぼせる。正確に言えば、悪意がないからこそ手加減という概念が存在しない……!)
ディアボロスの背中に、冷たい汗がびっしょりと浮かんでいた。魔王としての誇りも、絶対君主としての威厳も、今この瞬間はすべて二の次だった。
「ま、待ってくれ!」
ディアボロスは叫んだ。生存本能が、彼の口を勝手に動かしていた。
セシリアが集めていた光をふと止め、小首をかしげる。
「?」
「そ、その、もう少し話をしよう。なぜなら――」
ディアボロスは必死に思考を巡らせた。彼女を止める理由。彼女が納得する理由。そして、自分が生き延びられる理由。
(あの女の目的は『世界平和』ではなく『寿退社』だ。つまり――魔王討伐そのものが目的ではなく、あくまで『普通の恋』を叶えるための手段に過ぎない)
その瞬間、ディアボロスの脳裏に一つの光明が差した。
「な、なぜならば――貴殿の目的は、俺を倒すことそのものではあるまい!」
「え?」
「貴殿の本当の望みは……『普通の恋をして結婚すること』のはずだ。違うか?」
セシリアの表情が、ぱっと変わった。まるで長年誰も分かってくれなかった悩みを、初めて理解してもらえたかのような、驚きと喜びの入り混じった顔。
「そ、その通りです! よくお分かりで……!」
「な、ならば――俺を倒す必要など、そもそもないのではないか?」
ディアボロスは、震える声を必死に絞り出しながら続けた。
「討伐というのは、あくまで手段の一つに過ぎまい。もし他に、貴殿の目的を叶える手立てがあるとすれば――」
セシリアの瞳が、きらきらと輝き始めた。
「他の手立て、ですか……?」
ディアボロスは、この一瞬に全てを賭けることにした。魔王としての矜持を投げ捨て、生存という最も原始的な欲求のために。
「そうだ。例えば――」
*
沈黙が玉座の間、もとい吹きさらしになった瓦礫の広場に流れた。
ディアボロスは、汗だくになりながらも、覚悟を決めた表情で言い放った。
「――俺が、貴殿の『婚活の練習相手』になろう」
「……え?」
セシリアが、ぽかんと口を開けた。
「貴殿の言う『普通の恋』というものが、一体どういうものか、俺には分からぬ。だが、貴殿もまた、それをよく分かっていないのではないか? 何しろ、貴殿の知識のソースは『少女漫画と官能小説』程度なのだろう」
「な、なぜそれを……」
「言動から一目瞭然だ」
ディアボロスは、内心の恐怖を必死に隠しながら、可能な限り威厳のある声で続けた。
「ならば、実践あるのみ。俺が仮の恋人として、貴殿の婚活の練習相手になってやる。人間の街に出て、普通のデートというものを経験してみればいい」
「わ、私と……あなたが、デート……」
セシリアの顔が、みるみる赤く染まっていく。両手が頬に添えられ、瞳がうるうると潤み始めた。
(よし……! この女、単純だ……! 押せば通じる……!)
ディアボロスは内心で快哉を叫びながらも、表情には出さず、あくまで泰然自若とした態度を装った。
「その代わり――条件がある。デートの間は、絶対に、街や人々に危害を加えないこと。それから、この魔界にも、二度と単身で攻め込まないこと」
「は、はい! 分かりました!」
セシリアは、まるで恋する乙女のように頬を染めたまま、こくこくと何度も頷いた。
「では……よろしくお願いします、ディアボロス様……!」
「あ、ああ……こちらこそ、よろしく頼む……」
その握手を交わす手が、ディアボロスの方だけ、小刻みに震えていた。
(生き延びた……。生き延びたぞ、俺は……!)
魔王城の瓦礫の中、絶望的な状況から、辛うじて命を繋ぎ止めた魔王。
だが同時に、彼はまだ気づいていなかった。この瞬間から、地獄のような「婚活訓練」の日々が、いよいよ幕を開けようとしていることに。
こうして、世界史上最も不憫な魔王が、この日、誕生したのだった。




