第35話 聖女の愛が重すぎる(質量的な意味で)
魔王城の一室で、ディアボロスは、四天王から提出された政務報告書に目を通しながら、比較的穏やかな午後の時間を過ごしていた。
(今日は、セシルの方から特に連絡もない。少し、静かな一日になりそうだな)
そんなことを考えながら、彼が書類のページをめくっていた、その時だった。
城の外、遠く離れた場所から、突如として、これまでにない規模の魔力の奔流が、こちらに向かって急速に近づいてくるのを、彼は肌で感じ取った。
「――なんだ、この気配は」
ディアボロスは、思わず立ち上がり、窓の外へと視線を向けた。
遥か彼方の地平線の向こうから、まばゆい光の筋が、まるで彗星のように、一直線にこちらへと向かってくるのが見える。
「まさか……」
彼の脳裏に、一つの人物の顔が浮かんだ。だが、それにしても、これまで感じたことのないほどの、桁違いの魔力の圧である。
「せ、聖女の魔力反応です!」
慌てた様子の伝令兵が、部屋に飛び込んできた。
「なんだと!? どういうことだ、詳しく報告しろ!」
「そ、それが……。魔力の観測記録によれば、これまでの聖女様の反応の、優に十倍以上の規模です! このままでは、着弾地点が甚大な被害を受けることは、間違いございません!」
「――なっ」
ディアボロスは、思わず言葉を失った。
(十倍以上の魔力……!? 一体、あの女に何があったというのだ……!)
彼の背筋に、これまでにない冷たいものが走った。
*
「至急、避難指示を出せ! この城の者たちを、可能な限り遠方へと避難させるのだ!」
ディアボロスは、切迫した声で命令を下した。
「は、はい! 直ちに!」
伝令兵が、慌てて駆け出していく。
その間にも、光の筋は、確実にこちらへと近づいてきていた。
(一体、何が起きているのだ……。あの女が、これほどまでの魔力を放出するとは……)
ディアボロスは、混乱する頭を必死に整理しようとした。
(もしや、俺が何か、彼女を怒らせるようなことをしてしまったのか……。いや、今日は一度も会っていないはずだ……)
彼の脳裏に、これまでのセシリアとの日々が、次々と蘇ってきた。石畳を粉砕したステップ、上着を引き裂いた指先、王子の骨を砕いた握力――だが、そのどれもが、今回のこの桁違いの魔力反応とは、明らかに規模が異なっていた。
(これまでの『無自覚な暴走』とは、次元が違う。これは、彼女自身の、強い意志によるものだ……!)
その事実に気づいた瞬間、ディアボロスの背筋に、これまでとは種類の違う緊張が走った。
*
光の筋は、あっという間に魔王城の上空へと到達した。
「――ディオ様ぁあああああああ!!」
まばゆい光の中から、聞き覚えのある声が、大音声で響き渡った。
「せ、セシル……!?」
ディアボロスは、思わず目を見開いた。
光の中心から現れたのは、確かにセシリアだった。だが、その姿は、これまで彼が見てきた彼女とは、明らかに様子が異なっていた。
彼女の全身から、これまでにないほど濃密な神聖魔力のオーラが立ち昇り、その瞳には、これまでにない強い決意と情熱の色が宿っている。
「私も、あなたを愛しています!」
セシリアは、そう叫びながら、まっすぐにディアボロスの方へと突き進んできた。
その速度と勢いは、もはや人間の動きとは呼べないほどのものだった。彼女が通過した後の空間には、まるで隕石が通り過ぎたかのような、光の残像が焼き付いていた。
「な――!?」
ディアボロスは、突然の告白と、その桁違いの勢いに、思わず言葉を失った。
(あ、愛している、だと……!? 一体、何が起きているのだ……!)
彼が混乱する間にも、セシリアは、既に城の敷地内へと到達していた。彼女の手の中には、何か、まばゆい光を放つ巨大な物体が、急速に形成されつつあった。
その光の質量は、これまでに見たどの魔法よりも、明らかに桁違いの規模だった。
「――ディオ様! この想いを、受け取ってください!」
セシリアの声が、城全体に響き渡る。
その手の中に生成されつつある、途方もない質量を持つ光の塊を目にした瞬間、ディアボロスは、これから何が起ころうとしているのかを、本能的に悟った。
(――まずい。これは、これまでのどの攻撃よりも、桁違いに危険だ……!)
彼は、生まれて初めて、心の底から、絶望にも似た戦慄を覚えていた。




