第28話 魔王、深夜の読書会(生存戦略)
魔王城に戻ったディアボロスは、その足で自室に籠もると、机の上に山のように積まれた本の数々に目を落としていた。
「恋する乙女の心理学」「必勝!女心の掴み方」「なぜ彼女は怒るのか――男が知らない一〇〇の理由」
いずれも、侍従に命じて人間界から急遽取り寄せさせた、恋愛指南書の類である。魔界の絶対君主が、深夜、蝋燭の明かりの下で真剣にこれらの書物と向き合っている姿は、傍から見れば、これ以上ないほど滑稽な光景だっただろう。
「まったく……。俺ともあろう者が、なぜこのようなことを……」
ディアボロスは、自嘲めいた呟きを漏らしながらも、ページをめくる手を止めることはなかった。
「なぜ怒らせた!? どうすれば機嫌が直る!? 次は俺の骨が折れる!」
彼は、一冊の本の見出しを声に出して読み上げながら、思わず身震いした。
「これだ……。これこそが、俺が今、最も知りたい情報だ」
彼は、真剣な眼差しでページをめくり続けた。
*
「ふむ……。『女性が怒る時、その多くは、話を聞いてもらえていないと感じた時である』、か」
ディアボロスは、ぶつぶつと呟きながら、要点をメモに書き留めていく。
「つまり、俺がセシルの話に、より真剣に耳を傾ければよいということか」
彼は、次のページをめくった。
「『褒め言葉は、具体的であればあるほど効果的』……。なるほど、これは参考になる」
「『デートの後は、相手が無事に帰宅したかを気遣うメッセージを送るとよい』……」
ディアボロスは、一つ一つの項目を、まるで戦の作戦を練るかのような真剣さで吸収していった。彼のこれまでの人生において、恋愛という分野は、完全に未知の領域だった。だからこそ、彼はこの未知なる敵――もとい、未知なる課題に対して、持てる限りの知略を総動員しようとしていたのである。
「しかし……」
彼は、ふと本を閉じ、深く息を吐いた。
「これらの助言は、あくまで一般的な人間の女性を想定したものであろう。セシルは、その、少々――いや、かなり特殊な存在だ」
彼は、これまでのセシリアとの日々を思い返した。
石畳を粉砕するステップ。上着を引き裂く力加減。素手でナイフを握り潰す膂力。そして、王子の手の骨を完膚なきまでに砕いた握力。
「一般的な恋愛指南書の知識だけでは、到底対応しきれまい……」
ディアボロスは、腕を組み、しばし黙考した後、一つの結論に至った。
「ならば――俺自身が、セシル専用の対応マニュアルを作成するしかあるまい」
彼は、新しい紙を取り出すと、そこに丁寧な文字で書き記し始めた。
「一、感情が高ぶった際は、まず深呼吸を促すこと」
「二、褒める際は、行動そのものよりも、その動機や気持ちを称賛すること」
「三、彼女が何かを『やってしまった』際は、まず結果を咎めるのではなく、その意図を汲むこと」
「四、不用意に他の異性の話題を振らないこと」
書き進めるうちに、彼のペンは、次第に迷いのないものへと変わっていった。
*
夜が更けていく中、ディアボロスは、自らが書き記したマニュアルを、改めて見返していた。
「四番目の項目は……。まあ、王子のような存在との比較を、二度と口にしない、ということだな」
彼は、その一文を見つめながら、先日の中庭での自分自身の告白を思い出した。
(――貴殿が、俺以外の誰かのものになるという想像だけで、胸が締め付けられるような感覚を覚えたのだ)
あの言葉を口にした瞬間の、自分自身の心境を思い返すと、ディアボロスは、なんとも言えない気恥ずかしさを覚えた。
「……俺は、一体、いつからこのような感情を抱くようになったのだ」
彼は、独り言のように呟きながら、窓の外に広がる夜空を見上げた。
魔界の空には、人間界のものとはまた違う、深い紅色の星々が瞬いている。その光を眺めながら、ディアボロスは、これまでの自分の人生を振り返った。
魔界の絶対君主として、常に冷静沈着に、合理的な判断のみを下してきた自分。そんな自分が、たった一人の少女の存在によって、これほどまでに感情を揺さぶられる日が来るとは、半年前の彼には、想像すらできなかったことだった。
「まあ、いい」
彼は、静かにそう呟くと、書き上げたマニュアルを丁寧に折りたたみ、懐にしまい込んだ。
「明日からは、このマニュアルを胸に、より万全の態勢で、あの女と向き合うとしよう」
魔王としての威厳など、もはやどこかに置き忘れてしまったかのような、この深夜の読書会。だが、その真剣な取り組みの中には、確かに、彼なりの不器用な誠意が込められていたのだった。
蝋燭の火が、静かに揺れる中、ディアボロスは、明日という日への決意を新たにしながら、ようやく眠りについたのだった。




