第20話 お別れの握手(骨折の予感)
夕暮れの噴水広場から、二人はそれぞれの帰路につくべく、街の外れの転移地点へと向かって歩き始めた。
「今日は、本当にありがとうございました、ディオ様」
セシリアが、隣を歩きながら、しみじみとした口調で言った。
「いや、こちらこそ、世話になった」
ディアボロスは、素直にそう返しながらも、内心では今日一日の出来事を振り返り、複雑な感情を抱いていた。
(波乱づくめの一日ではあったが……。振り返ってみれば、悪くない時間だったのかもしれん)
胃の痛みは相変わらず続いていたが、それでも彼の胸の中には、これまでに味わったことのない、不思議な充足感のようなものが確かに存在していた。
*
転移地点にほど近い、人通りの少ない裏路地に差し掛かった頃、セシリアがふと足を止めた。
「あの、ディオ様」
「なんだ」
「今日一日、本当に楽しかったです。改めて、感謝の気持ちをお伝えしたくて」
セシリアは、真剣な表情でそう告げると、右手をそっと差し出した。
「よろしければ、握手をしていただけますか。今日という日の、締めくくりとして」
ディアボロスは、その差し出された手を見て、思わず身を強張らせた。
(――握手、だと……!?)
彼の脳裏に、これまでの一日で起きた数々の惨事が、瞬時に走馬灯のように蘇った。
石畳を粉砕したステップ。上着を引き裂いた「ちょこん」。金属製のナイフを握り潰した細い指先。
(この娘の『触れる』という行為は、常に何かしらの破壊と隣り合わせだった……! ならば、握手ともなれば――)
彼の全身から、冷や汗が噴き出した。
「せ、セシル。その、握手というのは、その、もう少し軽く――」
「はい、もちろんです! きちんと、力加減には気をつけます!」
セシリアは、力強く頷いた。だが、その「力加減には気をつける」という宣言自体が、これまでの実績を鑑みるに、まったく信用の置けるものではなかった。
(信じてよいのか……。いや、信じるしかあるまい。ここで断れば、それはそれで彼女を悲しませることになる)
ディアボロスは、覚悟を決めた。魔王として、これまで数多の死線を潜り抜けてきた男である。たかが握手一つ、乗り越えられぬはずがない――そう自らに言い聞かせながら。
「わ、分かった。では、頼む」
彼は、震える手を、そっと差し出した。
*
セシリアの手が、ゆっくりとディアボロスの手に重なった。
その瞬間、ディアボロスは全身の神経を極限まで研ぎ澄ませ、来るべき衝撃に備えた。
(来るぞ……! 骨が砕ける音が、今にも聞こえてくるはずだ……!)
彼は、奥歯を噛み締め、痛みに耐える準備を整えた。
だが――。
セシリアの手は、思いのほか、優しく、そして控えめな力加減で、彼の手をそっと包み込んだ。
「……」
ディアボロスは、拍子抜けしたような顔で、自分の手を見下ろした。骨が砕ける音も、激痛も、何一つ起こらない。
「ディオ様、今日は本当にありがとうございました。次の機会も、楽しみにしております」
セシリアは、にこやかにそう言うと、丁寧に手を離した。
(――やった……。無事だ……! 骨も、皮膚も、何一つ損傷していない……!)
ディアボロスは、内心で快哉を叫びながら、密かに安堵の息をついた。
「あ、あぁ。こちらこそ、世話になった」
彼は、努めて平静を装いながら、そう答えた。
*
だが、その安堵も、束の間のものだった。
「あ、そういえば」
セシリアが、ふと何かを思い出したように言った。
「握手の力加減、練習の甲斐があって、うまくできましたね! 実は、先ほどまで、心の中でずっと『優しく、優しく』と唱えながら、力を込めないよう、必死に自分を制御していたんです」
「……そう、なのか」
「はい! ただ――」
セシリアは、少し照れたように付け加えた。
「あまりに緊張しすぎて、逆に、少しだけ力んでしまったかもしれません」
その言葉と同時に、ディアボロスは、自分の手のひらに、じわじわと鈍い痛みが広がっていくのを感じた。
「――っ」
先ほどまでは気づかなかったが、よく見れば、彼の手のひらには、うっすらと赤い痕が残っている。骨折こそ免れたものの、彼のHPは、確実に残りわずかとなっていた。
(骨は、折れていない……。折れてはいないが……! この痛み、明日には青あざになるであろうことは、間違いない……!)
奇跡的に骨折という最悪の事態は回避できたものの、ディアボロスの手には、確かな握力の痕跡が刻まれることとなった。
「では、ディオ様。また今度、よろしくお願いいたします!」
セシリアは、満面の笑みでそう言うと、軽やかな足取りで転移地点へと向かって歩いていった。
一人残されたディアボロスは、赤く腫れた手のひらをそっと押さえながら、深いため息をついた。
「……はぁ」
胃は痛み、手のひらも痛む。だが、それでも彼の胸の中には、今日一日で芽生えた、何とも言えない温かな感情が、確かに残っていた。
(この娘との時間は、命がけであると同時に――どこか、心地よいものでもあるのだな)
夕闇が完全に降りた街並みを一人歩きながら、ディアボロスは、自分でも説明のつかない、複雑な感情を胸に抱えたまま、魔王城への帰路についたのだった。
こうして、波乱に満ちた「普通のデート」訓練の初日は、辛うじて骨折を免れるという奇跡的な結末と共に、幕を閉じたのである。




