第17話 クレープ屋の行列と物理の法則
公園での騒動を後にして、二人は改めて街の中心部へと足を向けた。
「あ、あちらを見てください、ディオ様!」
セシリアが、通りの向こうを指差して声を上げた。その先には、色とりどりの旗を掲げたクレープ屋の屋台があり、若い娘たちを中心に長い行列ができている。
「あれは、確か街で今流行っているという、クレープという食べ物ですね! 教会の若いシスターたちが、休憩時間によく話題にしていました」
「ほう、あれがそうか」
「一度、食べてみたいと思っていたんです! よろしいでしょうか?」
セシリアは、期待に満ちた瞳でディアボロスを見上げた。その無邪気な様子に、ディアボロスは思わず頬を緩めた。
「構わぬ。並んでみるとしよう」
「はい!」
二人は、行列の最後尾に並んだ。周囲には、若い男女のカップルや、友人同士で訪れたらしい娘たちの姿が多い。並んで待つという行為自体、セシリアにとっては新鮮な経験らしく、彼女はきょろきょろと辺りを見回しながら、楽しげな様子を見せていた。
「こうして列に並ぶのも、なんだか素敵ですね。教会では、いつも私が並ぶ側ではなく、対応する側でしたから」
「そうなのか」
「はい。困っている方が並んでいらっしゃると、いつも私の方から駆けつけていましたので」
セシリアは、懐かしむようにそう言った。聖女としての彼女の日常が、いかに人々に献身するものであったかが、その一言から窺える。
*
列がゆっくりと進み、二人の順番が近づいてきた頃、後方から柄の悪い声が聞こえてきた。
「おい、そこの嬢ちゃん」
振り返ると、派手な身なりの若い男が三人、こちらに向かってにやにやと近づいてくるところだった。街のならず者、いわゆるヤンキーと呼ばれる類の連中である。
「一人か? 俺たちと遊ばねえか」
「そちらの地味な兄ちゃんじゃ、物足りねえだろ」
三人組の一人が、下卑た笑みを浮かべながらセシリアの肩に手を伸ばした。
「――っ」
ディアボロスは、咄嗟に前に出ようとした。だが、それより先にセシリアが、控えめな、しかし芝居がかった仕草で一歩後ずさった。
「は、はわわ……こ、怖いです……」
セシリアは、両手を胸の前で握りしめ、震える声でそう呟いた。
(な……! セシルが、怯えている……! こんな姿は初めて見るな……)
ディアボロスは、一瞬彼女の変化に驚いたが、すぐに違和感を覚えた。
(いや、待て。この娘が、ただ怯えるだけで済むはずが……)
案の定、肩に手をかけようとした男の一人が、業を煮やしたように懐からナイフを取り出した。
「ごちゃごちゃ言ってねえで、大人しくしてろ」
刃が、陽光を反射して鈍く光る。
「ひ、酷いです……。そんな物騒なもの、危ないですよ」
セシリアは、なおも怯えたような口調を崩さぬまま、するりと自然な仕草で、その男の手からナイフを取り上げた。
そして――。
「――ぐしゃり」
彼女の細い指先が、刃渡り十五センチほどの鋼鉄製のナイフを、まるで濡れた紙のように握り潰した。金属片が、ぱらぱらと地面に零れ落ちる。
「な――!?」
三人組の男たちが、揃って目を見開いた。
「て、てめえ……何しやがった……!?」
「あら、大変。刃物なんて危ないですから、お預かりしますね」
セシリアは、あくまで怯えた町娘の演技を崩さぬまま、しかし確実にナイフを凶器として使えない代物へと変え果てていた。演技と実力のギャップに、周囲で見ていた人々も、ぽかんと口を開けている。
(怯えた演技をしながら、素手でナイフを握り潰す娘など、この世に存在してはならんはずだが……!)
ディアボロスは、内心で呆れと戦慄が入り混じった感情を抱きながら、その一部始終を見守っていた。
*
三人組の男たちは、あまりの出来事に顔面蒼白となり、握り潰されたナイフの残骸を拾うことすら忘れて、逃げるようにその場を後にした。
「……セシル」
「はい?」
「先ほどの、その、『怯えているふり』とやらは、何だったのだ」
セシリアは、少し恥ずかしそうに頬を染めた。
「実は、恋愛小説に書いてあったんです。ヒロインが危機に陥った時、怯えたふりをして相手の油断を誘い、隙を見て反撃する、という展開が」
「な、なるほど……」
「ただ、反撃の際、少し力の加減を誤ってしまったかもしれません」
「少し、というレベルでは、断じてない」
ディアボロスは、地面に散らばった金属片を見下ろしながら、深いため息をついた。
だが同時に、彼の胸中には、複雑な感情も渦巻いていた。
(この娘は、いざとなれば自分の身も、他人の身も、しっかりと守れる力を持っている。それを、恋愛小説の一場面のように、あえて『演技』として使ってみせたのか……)
その発想の突飛さには、相変わらず呆れるしかなかったが、同時に、彼女なりに「普通の恋」というものを一生懸命に模倣しようとする健気さも感じられた。
「では、改めて、クレープを買いに参りましょうか!」
セシリアは、何事もなかったかのように、けろりとした顔で列に並び直した。周囲の客たちは、まだ驚きの表情を隠せずにいたが、幸い、直接の被害者が出なかったこともあり、大きな騒動には発展せずに済んだ。
しばらくして、二人はようやく順番を迎え、湯気の立つ甘いクレープを手に入れた。
「わあ、美味しそうです!」
セシリアは、両手でクレープを持ち、満面の笑みを浮かべた。生クリームとフルーツがたっぷりと詰まった、ごく普通の、なんの変哲もないクレープである。
一口食べた瞬間、彼女の表情がぱっと輝いた。
「美味しいです、ディオ様! これが、巷で人気のクレープなのですね!」
「ああ、そうらしいな」
その屈託のない笑顔を見つめながら、ディアボロスは、ようやく彼女らしい平和な時間が戻ってきたことに、密かに安堵の息をついたのだった。




