第16話 私たちの甘い時間を邪魔しないで!
セシリアが掲げた水瓶の中で、聖水がゆっくりと、しかし確実に渦を巻き始めていた。
「く、来い……!」
下級魔族の一体が、母子連れに向かって爪を振り下ろそうとした、まさにその刹那。
「――邪魔しないでください、と言いました」
セシリアの声が、静かに、しかし確かな圧を伴って響いた。
次の瞬間、彼女は水瓶を大きく振りかぶり、下級魔族たちに向かって、その中身を豪快にぶちまけた。
「くらえっ!」
瓶の中身が、まるで意志を持つかのように空中で弧を描き、下級魔族たち全員を一度に飲み込むように降り注いだ。
それは、彼女が普段から携帯している「聖水」だった。本来であれば、微量を用いて魔を浄化する神聖な水である。だが、セシリアが手ずから聖別したそれは、もはや濃縮硫酸にも匹敵する濃度の神聖エネルギーを内包していた。
「――ギャアアアアアッ!!」
聖水を浴びた下級魔族たちは、断末魔の悲鳴を上げる暇すらなく、瞬時に白い光と共に溶解し、跡形もなく消滅した。
辺り一帯に、しゅうしゅうと聖なる湯気が立ち込める。母子を庇うように爪を振り下ろそうとしていた個体も、着地する間もなく光の粒子となって消えていった。
*
一瞬の静寂の後、公園に居合わせた人々が、恐る恐る顔を上げた。
そこにあったのは、恐怖に襲われるはずだった魔族の群れが、跡形もなく消え去った光景だった。地面には、僅かに焦げたような跡が残るのみで、あれほど暴れていた魔族たちの姿はどこにもない。
「た、助かった……のか?」
「あの娘さんが、一瞬で……」
「見たか、今の……。水をかけただけで、魔族が消えたぞ……」
人々のざわめきをよそに、セシリアは、水瓶を片手にぶら下げたまま、母子連れの元へと駆け寄った。
「大丈夫でしたか? お怪我はありませんか?」
先ほどまでの静かな怒りは、既に彼女の表情から消え去り、代わりに優しい微笑みが浮かんでいた。この切り替えの早さもまた、彼女らしいところだった。
「あ、ありがとうございます……! あなたは、一体……」
「通りすがりの者です。皆様がご無事で、なによりです」
セシリアは、にこやかにそう答えると、母子に軽く一礼をして立ち去ろうとした。まるで、正体を明かさぬヒロインのように振る舞うつもりらしい。もっとも、これだけの騒動を起こしておいて正体を隠しきれるものかどうかは、甚だ疑問だったが。
一方のディアボロスは、その光景をやや離れた場所から見つめながら、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
(下級とはいえ、魔族十体を、一瞬で、跡形もなく……。しかも、本人はいたって涼しい顔だ……!)
彼の背筋に、今更ながらに冷たいものが走った。目の前の少女が持つ力の底知れなさを、改めて思い知らされた瞬間だった。
(これが、正面から怒りを向けられた時の力か……。普段の無自覚な暴走ですら手に負えぬというのに、本気で戦えば一体どうなるのか、想像するだけで恐ろしい)
セシリアが、母子連れとのやり取りを終え、小走りにディアボロスの元へと戻ってきた。
「お待たせしました、ディオ様!」
先ほどまでの厳しい表情はどこへやら、既にいつもの朗らかな笑顔に戻っている。
「セシル……。今のは、少々やりすぎではないか……?」
「そうでしょうか? 皆さんを守るためですし」
「い、いや、そうなのだが……。もう少し、手加減という――」
「あら、ディオ様。お怪我はありませんか?」
セシリアは、ディアボロスの心配などどこ吹く風といった様子で、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。その距離の近さに、ディアボロスは思わず言葉に詰まった。
(この距離感といい、力加減が分からぬところといい……本当に、この女は……)
彼は、深いため息を一つついてから、静かに答えた。
「……いや、俺は無事だ。だが、二度とこのようなことがないよう、頼むぞ」
「はい! 気をつけます!」
セシリアは、元気よく頷いた。だが、その返事に反省の色があるかどうかは、甚だ疑わしいものだった。
*
騒動が収まった後、二人は公園のベンチに戻り、しばし言葉少なに座っていた。
「あの……ディオ様」
セシリアが、少し躊躇いがちに口を開いた。
「先ほどの私、少し怖かったでしょうか」
不意にそう尋ねられ、ディアボロスは意外な思いで彼女を見た。彼女がそのようなことを気にするとは、思いもよらなかったのだ。
「……なぜ、そう思う」
「なんとなく、です。普段の私は、その、失敗ばかりしていますから……。でも、大切な人や、守りたいものを傷つけられそうになると、我を忘れてしまうところがあって」
セシリアは、少し寂しそうな笑みを浮かべた。
「昔から、そうなんです。優しくしたいだけなのに、力加減が分からなくて、周りを困らせてしまう。今日も、待ち合わせ場所を壊してしまいましたし、ディオ様の上着も破いてしまいました」
「……」
「怒った時は、もっと力が制御できなくなってしまいます。だから、その……もし、怖いと思われたなら、申し訳ございません」
ディアボロスは、しばし黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「――怖くは、なかった」
「え?」
「正直に言えば、驚きはした。貴殿の力の底知れなさに、改めて戦慄もした。だが」
彼は、少し言葉を選びながら続けた。
「あの母子を守ろうとした貴殿の姿は、少なくとも俺の目には、恐ろしいものには映らなかった」
セシリアの瞳が、みるみる潤んでいく。
「ディオ様……」
「それに」
ディアボロスは、少し照れくさそうに、しかし確かな声で付け加えた。
「大切なものを守るために、力を使うことは、決して悪いことではあるまい。ただ――」
「ただ?」
「今後は、俺にも一言、相談してから聖水をぶちまけてくれると、助かる。心臓に悪いのでな」
その言葉に、セシリアはくすりと笑った。
「はい! 次からは、そうします!」
彼女の笑顔が戻ったことに、ディアボロスは密かに安堵の息をついた。
こうして、公園での穏やかな昼下がりは、下級魔族の消滅という物騒な形で幕を閉じつつも、二人の間に、これまでとは少し違う種類の絆を残すことになったのだった。




