第15話 空気を読めない下級魔族
悲鳴が響いた瞬間、ディアボロスとセシリアは同時に立ち上がった。
公園の入り口の方角から、黒い靄のような影が幾つも湧き上がり、人々が悲鳴を上げながら逃げ惑っている。
「あれは……下級魔族!」
ディアボロスは、その姿を見て眉をひそめた。角の生えた小鬼のような魔族たちが、十体ほど群れをなして街に侵入してきていたのだ。
(なぜこんな場所に下級魔族が……。まさか、俺が城を留守にしている間に、統制が緩んだせいで、はぐれ者どもが人間界に迷い込んだのか……! いや、それとも――)
彼の脳裏に、一つの可能性がよぎった。
(まさか、四天王どもが、俺を捜索するために放った偵察部隊が、統制を外れて暴走したのではあるまいな……)
もっとも、この時のディアボロスには知る由もなかったが、四天王たちは彼が「聖女とのハニートラップ作戦」に身を投じていると信じ込み、あえて手出しをせずに見守っている最中だった。目の前の下級魔族の群れは、単に統率の乱れた野良の魔族が、たまたま人間界との境界の綻びから迷い込んできただけの、まったくの偶発事だったのである。
「大変です! あの魔族たちを、なんとかしなければ!」
セシリアが、既に臨戦態勢に入りかけている。ディアボロスは、慌ててそれを制した。
「ま、待て、セシル! ここは俺が――」
彼は、変装を保ったまま、目立たぬ形で事態を収拾しようと考えていた。魔王としての力を密かに使い、正体を悟られぬよう、素早く片付けてしまえばいい――そう算段していたのだが。
「しかし、あのままでは、街の人々が危険です!」
「分かっている! だからこそ、俺が――」
二人が言い合っている間にも、下級魔族たちは、逃げ惑う人々を追い立てながら、露店の品を蹴散らし、暴れ回っていた。
「ぎゃはは! 人間ども、恐れおののけ!」
下級魔族の一体が、下品な笑い声を上げながら、逃げ遅れた老人に向かって手を伸ばした。
「――っ! させるか!」
ディアボロスは、咄嗟に指先に魔力を集中させた。変装を保ったまま、目立たぬ範囲で牽制の一撃を放つつもりだった。だが、彼が魔法を発動させるよりも早く、事態は思わぬ方向へと動いた。
下級魔族の一体が、逃げ惑う母子連れに向かって鋭い爪を振りかざした。
「ひっ……!」
母親が、子供を庇うように抱きしめ、恐怖に顔を歪める。
「――しまった!」
ディアボロスは、変装のことも忘れかけながら、咄嗟に駆け出そうとした。正体を晒す危険を冒してでも、この場は自分の手で片付けねばならない――そう判断してのことだった。
だが、彼が一歩を踏み出すよりも早く、隣に立っていたはずのセシリアの気配が、すうっと変わった。
彼女の表情から、先ほどまでの穏やかな笑みが消えている。代わりに浮かんでいたのは、静かな、しかし底知れぬ怒りの色だった。
「――子供に、刃を向けるなんて」
セシリアの体から、これまでとは比較にならないほど濃密な神聖魔力が、噴水のように立ち昇り始めた。周囲の空気がびりびりと震え、公園の木々の葉が一斉に逆立つ。噴水の水までもが、彼女の魔力に共鳴するように、逆巻くように立ち上り始めた。
「せ、セシル……?」
ディアボロスは、思わず足を止めた。彼女のこれほどまでに冷たい怒りの気配を見るのは、初めてのことだった。
(まずい……! これは、これまでの『無自覚な暴走』とは、種類が違う……! この女は、本気で怒ると、こうなるのか……!)
これまで彼が目にしてきたセシリアの「破壊」は、あくまで無自覚な、悪気のないものばかりだった。石畳を砕いたのも、上着を破いたのも、すべて彼女自身が意図したものではない。
だが、今、彼女の瞳に宿っているのは、明確な意志――守るべきものを傷つけられたことへの、純粋な怒りだった。
(無自覚の暴走が恐ろしいと思っていたが……本気で怒った時の、この女は――)
ディアボロスの背筋に、これまでとは種類の違う冷たいものが走った。
セシリアは、懐から取り出した大ぶりの水瓶――普段から携帯している「聖水」の入った瓶を、静かに、しかし確かな怒気を込めて、両手で持ち上げた。
「私たちの、甘い時間を――」
彼女は、下級魔族たちを真っ直ぐに見据えながら、低く、しかしはっきりとした声で告げた。
「――邪魔しないでください」
その静かな声音は、これまでの彼女の口調とはまるで違い、聖女としての威厳すら感じさせるものだった。街の人々は、その気迫に思わず息を呑み、逃げる足を止めて見入ってしまうほどだった。
その瞬間、瓶の中身が、彼女の意志と共に大きく波打ち始めるのを、ディアボロスは呆然と見つめることしかできなかった。
彼の脳裏には、これから何が起こるのか、おおよその予測がついていた。だが同時に、それを止める術も、止める理由も、今の彼にはなかった。
(止められるものなら、止めたい。だが――)
彼は、目の前の少女の横顔を見つめた。
そこにあったのは、無自覚な聖女でも、恋する乙女でもない。ただ、守るべき者を守ろうとする、一人の強者の顔だった。
(この女は……本当は、こういう顔もできるのだな)
その事実が、ディアボロスの胸に、これまでとは違う種類の感情を静かに芽生えさせていた。




