第14話 漢(おとこ)ディアボロス、愛を食す
弁当箱の中身を、一つ残らず平らげたディアボロスは、しばしその場に座り込んだまま動けずにいた。
(生きている……。俺は、まだ、生きている……)
胃の奥に走る鈍い痛みは、もはや慢性的なものになりつつあった。体の内側で、神聖魔力と魔族としての生命力が、静かにせめぎ合っているような感覚がある。まるで、体内で小規模な聖戦でも起きているかのようだった。
「ディオ様、大丈夫ですか? お顔が少し青いような……」
セシリアが、心配そうに顔を覗き込んできた。
「い、いや、大丈夫だ。ただ――」
ディアボロスは、辛うじて笑みを浮かべながら答えた。もはや反射的な処世術と化していた。
「あまりに美味くて、少々、感動しているだけだ」
「まあ! そうなんですね! よかったです!」
セシリアは、単純に喜んでその言葉を受け取った。彼女の脳内では、既に「感動で言葉を失うほど美味しかった」という都合の良い変換が完了しているらしい。
(この単純さが、ある意味では救いなのかもしれん……。もし彼女が、俺の本当の内心を正確に読み取れる性分であったなら、とうに愛想を尽かされているだろうからな)
ディアボロスは、内心でそう思いながら、深く息を吐いた。
「あの、ディオ様。もしよろしければ……」
セシリアは、少し恥ずかしそうに、空になった弁当箱を片付けながら続けた。
「次は、もう少し量を増やして、品数も豊富にしてみようと思うのですが、いかがでしょうか」
「――っ」
その提案に、ディアボロスは思わず箸を落としそうになった。
(次があるのか……! しかも、量が増える……!? これ以上、我が胃は耐えられるのか……!)
「そ、それは……その、無理はしなくてよい。今日のだけでも、十分すぎるほど、その、心がこもっていた」
「そうですか? でも、次はもっと喜んでもらいたくて」
「い、いや、これ以上喜ばせようとされると、俺の胃が、その……」
「胃が?」
セシリアが小首をかしげた。ディアボロスは慌てて言葉を濁した。
「い、いや、なんでもない。今日ので、十分満足している、ということだ」
「そうですか! では、量はそのままにしますね」
「た、頼む……」
魔王としての矜持を捨て、切実な懇願をする羽目になった自分に、ディアボロスは内心でひっそりと涙した。
*
公園のベンチに並んで座り、しばし穏やかな時間が流れた。
セシリアは、噴水の周りで遊ぶ子供たちを、優しい眼差しで見つめている。その横顔は、聖女としての威圧感も、破壊の権化としての恐ろしさも一切感じさせない、ただの年頃の少女のものだった。
「ディオ様は……本当は、どのようなお方なのですか?」
不意に、セシリアがそう尋ねた。
「ん?」
「変装をされていますが、その、素顔のあなた様のことを、私はまだよく知らないなと思いまして。仕事とか、ご家族のこととか」
ディアボロスは、一瞬言葉に詰まった。
(本当のことなど、口が裂けても言えぬ。俺は魔王だ、部下は魔界の四天王だ、などと言えば、この場で何が起こるか分からん……)
「そうだな……。俺は、まあ、大所帯を任される立場にある。部下たちのことを常に第一に考えねばならん、そういう性分だ」
半分は本音だった。魔王としての彼は、確かに部下や民のことを常に案じている。
「まあ、素敵ですね。大所帯を率いるのは、大変なことでしょう」
セシリアは、頬に手を当てて微笑んだ。
「実は私も、似たようなところがあります。教会の人々や、街の皆さんのことを守りたくて、聖女としての務めを果たしてきましたから。でも、その分、自分の時間というものが、ほとんど持てませんでした」
その言葉には、これまでの彼女の人生の重みが、わずかに滲んでいた。
「二十年間、ずっと『聖女』として求められる役割を演じてきました。だから――」
セシリアは、少し照れたように微笑んだ。
「今日みたいに、誰かのために、自分の意志でお弁当を作ったり、こうして並んで座ったりするのは、本当に嬉しいのです」
「……そうか」
二人の間に、束の間の穏やかな沈黙が流れた。
不思議なことに、この沈黙は、ディアボロスにとって決して不快なものではなかった。むしろ、これまでの胃痛と緊張の連続の中で、初めて味わう安らぎのような感覚さえあった。
(この女は……悪意もなければ、打算もない。ただ、真っ直ぐなだけなのだな。そして、その真っ直ぐさの裏には、案外、孤独な日々があったのかもしれん)
そう考えた瞬間、ふと、セシリアがこちらを振り向いた。
「美味しかったですか、と先ほど伺いましたが……本当に、無理をされていませんでしたか?」
思いがけず鋭い指摘に、ディアボロスは一瞬言葉を詰まらせた。
「な、なぜそう思うのだ」
「なんとなく、です。ディオ様は、優しい方だから……。私のために、無理をしてしまわれるのではないかと」
その言葉に、ディアボロスは思わず彼女の顔を見つめ返した。
セシリアの瞳には、これまで見たことのないような、真剣な光が宿っていた。
「――正直に言うと」
ディアボロスは、少し迷った末に、静かに口を開いた。
「胃には、多少の負担があった」
「や、やっぱり……! 申し訳ございません!」
「だが」
彼は続けた。
「貴殿の『美味しいですか』という、あの笑顔を見た時――なぜか、悪くないと思ったのだ」
セシリアの頬が、みるみる赤く染まっていく。
「そ、それは……その……」
彼女は、両手で顔を覆いながら、もじもじと身をよじった。その拍子に、ベンチの脚がわずかに軋んだ音を立てたが、幸い、砕けるまでには至らなかった。
(……なんだ、この感情は。胃は痛むというのに、なぜかこの時間を、もう少し続けたいと思ってしまう)
ディアボロスは、自分の胸の奥に生まれた、名状しがたい温かさに戸惑いながらも、その正体にはまだ気づいていなかった。
長らく戦と統治にのみ生きてきた魔王の心に、初めて芽生えた小さな灯火――それはまだ、本人にすら自覚されないほど、ささやかなものだった。
だが、その穏やかな午後の時間は、長くは続かなかった。
「――キャアアアアア!!」
不意に、公園の外から、悲鳴が響き渡ったのである。




