第11話 待ち合わせは命がけ
人間界の街に足を踏み入れた初日は、特に大きな騒動もなく(花が突然満開になった程度で)過ぎ去った。
ディアボロスは、これを機に「正式なデート」の段取りを整えることにした。行き当たりばったりで動くよりも、あらかじめ待ち合わせ場所や時間を決めておいた方が、不測の事態を避けられると考えたのだ。
魔王城に一度戻った彼は、その夜、自室で一人、明日の予定について思案を巡らせていた。
(人間界の恋愛小説とやらには、確か『待ち合わせ』という儀式が頻繁に登場すると聞く。まずはそこから始めるのが妥当だろう)
彼は、侍従から急遽取り寄せた恋愛指南の書物を数冊ぱらぱらとめくりながら、眉間に皺を寄せていた。魔界の絶対君主が、深夜、人間の恋愛作法について真剣に研究する――傍から見れば、これほど滑稽な光景もないだろう。
「時計塔前、正午……。この辺りが、無難というものか」
彼は、街の中央にそびえる時計塔を待ち合わせ場所に定めた。人通りが多く、目印としても分かりやすい。何より、周囲に破壊されて困るようなものが(時計塔本体を除けば)少ないという、彼なりの安全上の配慮もあった。
*
翌朝、街の中央にそびえる時計塔の前。
ディアボロスは、昨日と同じ黒髪の変装姿で、腕を組んで壁にもたれかかっていた。正午の少し前だというのに、既に到着している辺り、彼の几帳面な性格が窺える。
(さて……セシリア、いや、セシルは時間通りに来るだろうか。それとも、はしゃぎすぎて何か騒動を起こしてから来るだろうか)
不安と諦観の入り混じった表情で、彼は空を見上げた。
そう考えていた矢先、遠くから軽やかな足音が近づいてくるのが聞こえた。
「ディオ様! お待たせしました!」
町娘姿のセシリアが、満面の笑みを浮かべながら小走りに駆けてくる。
その姿を見た瞬間、ディアボロスは思わず身構えた。だが、幸いにも道中で何かを破壊してきた様子はない。彼は密かに安堵の息を吐いた。
「おはようございます! 今日という日を、ずっと楽しみにしていました!」
「お、おう。おはよう」
ディアボロスは、彼女の弾けるような笑顔に思わずたじろぎながらも、努めて平静を装った。
「ふふ、待ち合わせって、なんだか素敵ですね。少女漫画で読んだ通りです!」
セシリアは、両手を胸の前で合わせ、感極まったように呟いた。
「憧れの人と待ち合わせをして、少し早く着いてしまって、相手が来るのをドキドキしながら待つ……。そういう場面が、大好きだったんです」
「そ、そうか。それは、なによりだ」
「これから、恋人同士みたいに、待ち合わせをして、一緒にお出かけをして……! 想像するだけで、胸がいっぱいです」
彼女の心が高揚するにつれて、その体からうっすらと漏れ出す神聖魔力の圧が、じわじわと強まっていく。ディアボロスは、その気配にいち早く気づいた。
「せ、セシル、少し落ち着いて――」
「ああ、嬉しくて、つい!」
セシリアは、感情の昂りのままに、軽やかにその場でくるりと一回転し、小さくステップを踏んだ。
まるで恋する乙女が喜びを表現するような、可憐な仕草。
――だが、次の瞬間。
「――バキィッ!!」
彼女のつま先が触れた場所を中心に、時計塔前の石畳が、蜘蛛の巣状に大きくひび割れ、次いで数メートル四方が粉々に砕け散った。
「な……!?」
周囲を歩いていた人々が、悲鳴を上げて飛び退く。
「じ、地震か!?」
「い、いや、今の娘が踏んだだけで……!?」
「馬鹿な、そんなはずが」
セシリアは、きょとんとした顔で自分の足元を見下ろした。
「あら、少し力が入ってしまいましたね」
「少し、どころではない……」
ディアボロスは、崩壊した石畳を見つめながら、深いため息をついた。
(軽くステップを踏んだだけで、公共施設が破壊された……。これが、この女の『日常』なのか……)
彼の胃の奥に、早くも鈍い痛みが走り始めていた。まだ待ち合わせをしただけである。デート本番は、まだ始まってすらいない。
*
騒然とする周囲を、ディアボロスは必死に取り繕った。
「す、すまない! 皆の衆! 荷馬車の車輪が外れて、たまたま石畳にぶつかったのだ! 大したことはない!」
彼は魔力を使い、さりげなく人々の記憶に軽い暗示をかけて誤魔化した。魔王としての力の中でも、こうした細やかな精神干渉は得意分野の一つだった。
「なんだ、そういうことか」
「驚かせやがって……」
人々は、納得したような、しないような顔でその場を離れていく。
(こんな地味な魔法ばかり使う羽目になるとはな……。本来ならば、この力は戦において使うべきものだというのに)
「ふう……」
事態を収めたディアボロスは、額の汗を拭いながらセシリアを振り返った。
「セシル。今後は、感情が高ぶりそうになったら、深呼吸をして落ち着くように心掛けてくれ」
「はい、頑張ります!」
セシリアは元気よく頷いたが、その反省の色は薄く、むしろ今日という一日への期待に満ちた笑顔のままだった。
「あの、ディオ様」
「なんだ」
「今の私の仕草……その、可愛らしく見えましたでしょうか?」
不意にそう尋ねられ、ディアボロスは一瞬言葉に詰まった。彼女の瞳には、少しばかりの不安と期待が入り混じっていた。
(この状況で、そんなことを気にするのか……)
だが、その素直な問いかけに、ディアボロスは思わず正直に答えてしまった。
「……仕草そのものは、悪くなかった。石畳さえ砕けなければ、な」
「本当ですか! よかったです!」
セシリアは、破壊の余波などまるで気にならないとばかりに、ぱあっと表情を輝かせた。
「では、改めて。今日は何をいたしましょうか?」
「そうだな……」
ディアボロスは、崩壊した石畳を横目に、これから始まる長い一日を思い、静かに覚悟を決めた。
(この調子で、一日を無事に乗り切れるのか……。いや、乗り切らねばならん。魔界と、この街の平和のために)
「まずは……街を、ゆっくり歩いてみよう。あまり気負わず、な」
「はい! 楽しみです!」
セシリアは、両手を後ろで組んで、子供のように弾んだ足取りで隣を歩き始めた。その一歩一歩が、心なしか慎重になっているのは、先ほどの失敗を多少なりとも気にしている証だろう。
(多少は、学習しているのか……いや、油断は禁物だな)
ディアボロスは、油断なく彼女の一挙一動に目を配りながら、崩れた石畳を背にして歩き出した。
こうして、記念すべき「初デート」は、待ち合わせ場所を半壊させるという波乱の幕開けと共に、本格的に始まったのだった。




