5.義母との仲
屋敷に戻った二人は、歩き疲れた足を休めながらのんびりと語り合う。談話室はすっかりアンナのお気に入りの場所になっていた。
大きな暖炉と、フカフカのソファー。体が沈み込む大きなソファーは、今もアンナの体を優しく支えてくれていた。
「寒くないかい?」
「はい、暖かいです」
暖炉の火で温められた部屋は過ごしやすい。クッションとブランケットに包まって温かいお茶を飲んでいるアンナの頬は、血色良くほんのりと赤く染まっていた。
「町の方々、皆さん親切でしたね」
「君が良い人だからだよ」
そう言ったエリオットは、領主としてよく町の様子を見に行っているそうだ。いつも町の住民たちと話をするが、今日ほど穏やかに世間話をした事は無かったという。
アンナは領主の妻としてではなく、新顔の住民として町の人々に挨拶をした。新しい奥様はどんな人だろうと興味津々な住民たちの前でコロコロと表情を変え、素直に喜んだり、驚いたり、よく笑うアンナという女性に、住民たちはすぐに心を開いた。
皆好意的にアンナに接してくれたおかげで、楽しい散歩をする事が出来たのが嬉しい。
「ブリオッシュ、美味しかったです」
「ああ、絶品だった。また行った時の楽しみにしよう。今度は母上とローラの分も買って来ようか」
「グレースにもお土産にしたいです。私の世話をしてくれるので…」
「侍女を大切にしておくと、きっと君の一番の味方になってくれると思うよ」
きっとエミリーならば、使用人とお友達にでもなりたいの?なんて言うだろう。
仕事とはいえ、毎日身の回りの世話をしてくれているのだから、給金とは別にお礼をしたって良い筈だ。主人が使用人を大切にしてくれる人だと分かってもらえれば、仕事を頑張ろうと思ってくれるだろうし、働きやすい職場ならば長く働いてもらえるだろう。
「そうそう、君にお願いがあるんだ」
「何ですか?」
「今度友人がちょっとしたパーティーに招待してくれているんだ。君も一緒にどう?私の妻だと紹介したいんだけれど…」
「宜しいのですか?」
夫の友人に紹介してもらえるのはとても嬉しい。パッと顔を輝かせてエリオットの顔を見上げたのだが、今までの人生で碌に社交の場に出てこなかった事を思い出した。
「あの…パーティーって何をするのでしょう」
「え?ああ…ダンスをしたり、食事をしながらお喋りをしたり?昼間のパーティーだから、そんなに堅苦しくないよ」
「う…」
ダンス、と言われてアンナの動きが止まる。
未来の夫を求めて何度か夜会に紛れ込んだ事があるが、ダンスは殆ど踊った事が無い。レッスンを受けた事はあるが、申し訳程度のレッスンのみで殆ど踊れないのだ。
以前踊った時はドレスの裾に引っ掛かったり、相手の足を踏んづけたりしてしまった。エリオットの足を踏んでしまったらどうしよう?そんな事を考えながら踊っていては、絶対に無様な姿を晒してしまう。
「…もしかして、ダンスは苦手?」
「その通りです」
「試しに踊ってみよう。ほらおいで」
アンナの手からカップを取り上げ、テーブルに置くと、エリオットはアンナの手を引いて立ち上がる。
少し開けた場所まで歩いて行き、慣れた様子でアンナの腰を抱いた。
「足を踏んでも許していただけますか?」
「勿論。骨が折れなければね」
流石にそこまで思い切り踏みつけるような事はないだろうが、緊張しているアンナはぎゅっと唇を引き結び、エリオットの肩に手を添えた。
「そうだな…ワルツからやってみる?せーの…」
すっかりやる気のエリオットは、鼻歌を歌いながら動き始める。ワルツと言われても、ステップがどんなものだったか思い出す事すら出来ない。
踊れないのならせめて足を踏まないようにと、下を見ながら必死で足を動かした。
「はは、こっちを見なくちゃ。顔を上げて…そうそう、上手」
「足!足を踏んでしまいます!」
「うーん…これは流石に、良い先生を呼んだ方が良いかもね」
眉尻を下げて笑ったエリオットは、そっと動きを止めた。やっと終わったと体を屈めたアンナは、エリオットの言う「良い先生」とやらの事が気になった。
「この先君は私の妻として社交界に出てもらうからね。ダンスが踊れないとその…困る」
「そう、ですよね」
「ダンスだけではありません。テーブルマナーもです」
いつの間に入って来たのか、厳しい顔をしたエミリーが話に加わってきた。
驚いて目を見開きながら、慌てて姿勢を正したアンナは、フンと鼻を鳴らしたエミリーの言葉に唇を噛む。
「ダンスもテーブルマナーもなっていない。貴方のご両親は娘に使用人の真似事しか教えて来なかったの?」
「母上!」
怒りで体が震えるとはこういう事を言うのだろう。ぎゅっと握りしめた拳に爪が食い込んでいる事が分かる。
確かに実家にいる頃、アンナは淑女としてのマナーを殆ど教わっていない。社交の場に出る為に必要な最低限の教育は受けているが、それは家庭教師を雇ってしっかりと教わったものではなく、母から教わったものだった。
生きる為に必死だった。エミリーの言う「使用人の真似事」は、自分たちでやらなければ生活が出来なかったからやっていただけの事。
生まれも育ちも恵まれていて、婚家も大金持ちの伯爵家であるエミリーは、きっと床に這いつくばって掃除をした事も、泥だらけになりながら畑の手入れをした事も、ボロボロのドレスを直しながら着た事も無いのだろう。
「アンナ、貴方を当家の妻として相応しい淑女に育て直します。良い先生は私がお呼びしましょう」
「母上、それは私が…」
「黙りなさい。貴方に何が分かるの?淑女に必要な事を教えてくれる先生を選ぶのに、何が重要か分かっているつもり?」
「それは…誰かに聞けば…」
「誰かに聞くくらいならば、私が選びます。良いですね、アンナ」
キッと睨みつけてくるエミリーの迫力に負け、アンナはコクコクと何度も頷いた。エリオットはまだ母に文句を言っているが、途中で出て来た「母上が前の妻たちを追い出したんじゃないか!」という言葉が気になった。
「また妻を追い出すつもりですか?息子にこれ以上苦しめと!不名誉な二つ名を付けられたのは母上のせいだ!」
「喚くのも大概になさい。アンナは頷いたわ。そうでしょう?」
「はい、お義母様」
エミリーの事は苦手だが、淑女としての立ち居振る舞いが出来ていない事は事実だ。
今からきちんと教育してくれると言うのなら、有難く受け入れた方が良い。二十歳になってもダンスを踊れないのかと馬鹿にされるのはもう嫌だった。
「大丈夫ですエリオット様。お義母様はきっと、素晴らしい先生を呼んでくださいます」
エリオットの服の袖をそっと摘まみながらそう言うと、エミリーは満足げに口元を緩ませた。
「息子より、嫁の方が聞き分けが良いようね。アンナ、こちらに来なさい」
「苛めないでくださいよ」
「私を悪魔か何かだとでも思っているのかしら」
面白くなさそうに鼻を鳴らしたエミリーは、くるりと振り返って談話室を出る。何だか気まずいが来いと言われたのなら行くしか無いだろう。
思っていたよりも歩くのが早い事に驚きながら、アンナはエミリーの後を追う。何処に行くのかは知らないが、どうやら外に行くつもりのようで、玄関扉を開いて行ってしまった。
夕方の庭は風が冷たい。肩を竦めて歩いていると、エミリーがふいに足を止めた。
「これ、貴方がやったのよね?」
「はい…?」
エミリーの視線の先には、今朝掃除をした墓石があった。朝供えたコスモスの他に、名前の分からない真っ白な花が供えられている。
「今朝お散歩をしていたら見つけて…少し汚れているようでしたのでお掃除をして、ブルックスにお花を摘んでもらってお供えをしました」
「…そう」
また何か小言を言われるのかと身構えていたが、エミリーはじっと墓石を見つめたまま動かない。
「あの…いけなかったでしょうか?」
「いいえ、助かったわ」
「良かった…また、お掃除をしても良いでしょうか?」
「ドレスを汚さない程度になさい」
いっそのこと汚れても良いドレスがあったら良いのにと考えて、アンナは実家から持って来た荷物の中に何着か服がある事を思い出す。それならば自分一人で着られるし、いくら汚しても問題無いだろう。
「今朝はごめんなさい。夫のお墓の掃除をしてくれたのに叱りつけてしまったわ」
「えっ」
自分の耳を疑った。まさかエミリーが謝るとは思わなかったのだ。まだこの屋敷に来て二日だが、絶対に謝らない人だと思っていた。
だがそれはアンナの勝手な思い込みで、エミリーはきちんと詫びる事の出来る人だったようだ。
「本当は私が手入れをしたいのだけれど…歳は取りたくないわね」
ふうと小さく息を吐いたエミリーは、そっと夫の墓石の前に跪く。アンナも同じようにすると、二人は揃って亡き夫と義父の安らかな眠りを祈った。
「エリオットから聞いているでしょう。以前の妻たちは私と折り合いが悪かったと」
「はい…そう、伺っております」
気まずそうに返事をしたアンナに、エミリーはふっと口元を緩ませた。
「夫が亡くなったその日の朝、私は約束したの。グルテール伯爵家は私が守ると」
ぽつぽつと言葉を続けるエミリーは、うっすらと目尻に涙を溜めていた。その横顔をじっと見つめるアンナは、黙って話を聞き続ける。
「前の嫁たちは私が選んだわ。でも、彼女たちは私が求める嫁ではなかった。未熟だったの。だから育てるつもりだった」
伯爵夫人としての立ち居振る舞いが出来るように、そして屋敷の一切を任せられるように育てるつもりだった。だが上手くいかなかった。
エリオットは妻を守ろうとしたが、守られているだけの妻では心許ない。大切に守られるだけの存在は、我が家に二人もいらない。
そう言葉を続けたエミリーは、じっとアンナを見つめる。真っ黒な瞳が、まるで夜空のように美しく思えた。
「正直に言うわ。貴方は我が家にふさわしくない」
「…そうでしょうね」
「ですが、これ以上息子に不名誉な二つ名を背負わせたくはありません。何としても、貴方にはグルテール伯爵夫人として相応しい淑女になってもらいます」
吸い込まれそうな程美しい瞳を見つめ返しながら、アンナは黙って考える。
屋敷に来てからずっと、エミリーはアンナに対して意地の悪い事ばかり言ってきた。
「高い買い物でしたものね」
にんまりと笑ったアンナの言葉に、エミリーは「本当よ!」と声を上げた。
「どうしたらあんなに借金を抱える事が出来るの?娘にドレスを作る事すら出来ないなんて、親として恥ずかしくないのかしら!」
「父は情けないと涙を浮かべておりましたよ…」
母は自分が新しいドレスを作っていないのに、娘になんて!と怒るような人だったが、父は申し訳ないといつも涙を浮かべていた。
実家の借金の殆どは、父の父、アンナの祖父の代で出来たものだが、なかなか上手い具合に返済が出来ずにいたのだ。
「天候のせいで不作が続いてしまったので…領民を助ける為に少し無理をしたようですが…女が関わる話では無いと言われてしまったのでよく知らないのです」
「全く…もうこれ以上、貴方のご実家に援助は出来ませんからね。望むのなら…」
「跡継ぎを産め…ですね」
分かっていますよと小さく息を吐くと、アンナは立ち上がって深々とお辞儀をしてみせた。貴族令嬢らしくカーテシーをしたつもりだったのだが、エミリーの反応はよろしくない。
「重心が不安定だからフラフラするのです。練習なさい」
「…はい、お義母様」
見ておけよとエミリーを憎々しく思いながら、アンナはぎこちない笑みを浮かべた。
「感情が表情に出すぎです」
フンと鼻を鳴らしたエミリーも立ち上がり、トントンと腰を叩いた。歳は取りたくないと言っていたし、腰を痛めているのだろうか。
「さあ、戻りますよ。夕食前に着替えをしていらっしゃい」
「…一日で四回も着替えるのは初めてです」
まだ出かけた時の余所行きドレスのままだった事を思い出し、アンナはコルセットの圧迫感にうんざりとした顔をした。
今朝よりも少しだけ柔らかい表情のエミリーと並んで歩きながら、アンナは今日の夕飯のメニューは何だろうと考えた。




