4.旦那様
「大奥様に見つかる前に着替えましょう」
真面目な顔でそう言ったグレースにこくこくと頷いたアンナだったが、今は二人揃って気まずい顔をしながら玄関ホールで立っている。
目の前には、腕を組んで不機嫌そうなエミリーが立っていた。
「使用人の真似事が好きなのかしら」
眉間に深々と皺を刻み込み、じろじろとアンナを観察するその目はとても冷たい。
今すぐに逃げ出したくなったが、流石に義母の前から脱兎の如く逃げ出す勇気はない。
「申し訳ありません…」
小さな声で詫びるのが精一杯で、隣でオロオロしているグレースは悪くないのになんだか申し訳なくなった。
「おはよう。どうかした?」
階段を降りて来たエリオットが呑気な声を出したが、泥だらけのアンナに気が付くと目を見開いて驚いていた。
「どうしたんだい?」
「あの…お庭を散歩していて…」
「転んだのかな?怪我はない?ああ、早く着替えをしないと。体も冷えているじゃないか。グレース、すぐに着替えさせてやってくれないか?」
「畏まりました、旦那様」
これ幸いと、グレースはエミリーに頭を下げてからアンナを急かして階段を上がる。助かったと内心エリオットに感謝しながら一緒に階段を上がったのだが、アンナの背中にはエミリーの視線が突き刺さっている気がする。
「母上、私たちは先に食堂に行きましょう。今朝は冷えますから、温かいスープが楽しみだ」
「…そうね」
ありがとう、旦那様!
後でしっかりお礼をする事にして、アンナは大急ぎで朝の身支度をもう一度する事になったのだった。
◆◆◆
新しいドレスに着替えたアンナは、そうっと食堂の扉を開く。先に座っていたエミリーは既に食事を始めているが、エリオットはお茶を飲みながら待っていてくれたようだ。
「アンナ、君の席はここだ」
そう言って、エリオットは座りなさいとアンナの為に椅子を引いてくれた。それは私の仕事ですと執事が言ったが、一度くらい良いじゃないかと笑っている。
エリオットの隣、エミリーの正面に座ったアンナは、出されたスープに目を輝かせる。ふわりと香る良い香りに、腹の虫がくぅと鳴った。
「アンナ、昨日はよく眠れたかな?」
「はい、とても。ふかふかのベッドは初めてです」
「今まで藁の上で寝ていたのかしら?」
「母上」
意地の悪い事を言ったエミリーを咎め、エリオットは小さく「すまない」とアンナに詫びる。別にこれくらいの事でいちいち傷付いたり怒ったりはしないのだが、夫が味方をしてくれるのは心強い。
「あの、ローラさんは…」
「熱があるから部屋にいるそうだ。後で医師を呼ばないとね」
やはり昨日無理をさせてしまったのかと、アンナは何だか申し訳なくなった。何だか嫌な人だと思っているのだが、体が弱いのは大変だろう。
「普段は一緒に食べるんだけれどね。まあ、よくある事だから」
「そうですか。あ、そういえば実家で弟が熱を出した時に薬草スープを作った事があります。持って行っても宜しいですか?」
「使用人になりたいのなら、そのドレスを今すぐ脱ぎなさい」
スープを食べ終えたエミリーが言った。別に使用人になりたいわけではないし、純粋に厚意のつもりで言った言葉だ。
ここまで嫌われているとどうにもやりにくい。
「心配してくれたんだね。でも、スープはシェフが作ってくれるし、薬は医師が用意してくれるから大丈夫」
やんわりと「必要ない」と言ったエリオットは、美味しそうにスープを食べ始める。アンナもスプーンで掬って口に運んだが、待たせている間に冷めてしまっていた。
「後で町に行こうか。そんなに大きくはないけれど、退屈しのぎにはなると思うよ」
「はい、是非」
「よし、決まり。早く食べて出かけよう」
まだ来たばかりだが、正直この屋敷は居心地が悪い。義母のエミリーは意地悪な事ばかり言うし、ローラは睨みつけてきて怖い。
エリオットだけが、アンナの心の拠り所だった。
◆◆◆
あんぐりと口を開いたアンナは、余所行きのドレス姿で立ち尽くす。まだ朝だというのに三度目の着替えをするだけで疲れていたのだが、馬車に揺られて辿り着いた町に驚いた。
実家にいた時も町に出掛ける事はあったがこんなに大きくなかった。沢山の人が歩いているし、店も沢山ある。
「旦那様は嘘を言いました…」
「ええ?嘘なんて言ってないよ」
「こんなに大きな町は初めてです。人ってこんなに沢山いたのですね」
はあ、と声を漏らしながら周りを見渡しているアンナが面白いのか、エリオットはクスクスと笑いながら腕を出す。掴まっておけば良いのだろうと判断し、そっと腕を掴んだのだが、よく考えたら男性と腕を組むなんて初めての経験だ。何だか気恥ずかしい。
「何処から見ようか?」
「何があるのかさえ見当も付かないのですけれど…」
「それもそうか。それじゃあ…ぶらぶらしよう」
にっこりと笑ったエリオットの顔を見上げると、何だか安心した。この人は私を大切にしてくれる。そんな気がした。
夜会で初めて会ってから、エリオットと顔を合わせたのは昨日が初めてだ。長時間一緒に過ごすのは今日が初めて。何を話せば良いのかも、どう接したら良いのかも分からなかった。
「何か欲しいものは?結婚式はまだ先だけれど、私の妻になってくれるのだから贈り物をしたいな」
「欲しい物…これといって思い付きません」
以前ならばドレスが欲しいとか、宝石が欲しいと思ったのだろうが、衣裳部屋には山のようにある。自分の為に用意された物でなかったとしても、今は自分の物なのだからそれで良い。
新しいドレスを着られる事がこんなに嬉しい事だと知らなかった。朝一番に着せてもらったドレスを汚してしまった事はグレースに詫びたが、新しいドレスがすぐに出てくる事が当たり前の生活に、この先慣れる事が出来るのだろうか。
「そういえば、朝はどうして泥だらけだったんだい?転んではいないだろう?」
怪我はない?と心配してくれていたのは演技だったようだ。恐らくエミリーから引き剥がす為に矢継ぎ早に言葉を紡いでいるうちに出た言葉だったのだろう。
「お庭をお散歩していたらお墓を見つけたんです。汚れていたので、綺麗にしようと思って…」
「父の墓だね。掃除してくれたの?」
「はい。墓石の周りは綺麗だったんですが、墓石は少し汚れていたので拭きました。夢中になっていたら汚してしまいまして…」
朝の事を思い出し、アンナはしょんぼりと肩を落とす。忙しいグレースに余計な仕事をさせてしまったと落ち込んだのだが、エリオットはけらけらと笑った。
「そういう事だったんだね。ありがとう、父も喜んでいると思う」
「お義父様、墓地には埋葬しなかったのですね」
「あれは仮の墓なんだ。本当は墓地に埋葬する予定だったんだけれど、母が嫌がってね」
曰く、夫を亡くした義母は憔悴し、少しでも傍に居てほしいからと庭の片隅に埋葬したそうだ。毎日夫の墓に行っているようで、墓石の周りが綺麗だったのはエミリーが夫の為に掃除をしているとの事だった。
「まさか掃除をするとは思わなかったよ」
「実家に使用人がおりませんから。掃除には慣れておりますし、畑仕事も出来ますよ」
「何でも出来るんだね」
「雑草と言われた事もあります。雑草、とっても強いんですよ」
ふふんと笑ったアンナは、何年か前のデビュタントの事を思い出す。真っ白なドレスを着て緊張していたのだが、周りの令嬢たちがコソコソとアンナを見ながら囁いていたのだ。
「今日のドレスを用意出来たのね」「まるで雑草ね。お金も無いのにどうにかしてしまうのだから」「またどこかから借りたのよ」
クスクスと笑われた事を思い出し、余計な事を言うのでは無かったと恥ずかしくなって俯いた。
あの時は雑草は凄いんだぞと睨みつけただけだったが、今となれば盛大に馬鹿にされ、わざわざ聞こえるように言われたのだと分かる。
「あの…雑草はいくら踏みつけられてもまた起き上がるんです。ですから、私もそのように強いので…」
どうにか誤魔化そうと言葉を続けたのだが、何を言っているのか自分でも分からない。余計に恥ずかしい思いをしただけではないかと後悔したのだが、エリオットは優しい声で慰めてくれた。
「強いんだね、君は。でもあまり無理はしないでほしい。母のあの様子では苦労するだろうし…」
「私、お義母様に嫌われているのでしょうか」
そういえばと思って聞いてみたのだが、エリオットは「ああ」と小さく声を漏らして溜息を吐いた。
「以前の妻たちにもあの調子だったよ。やめろと何度も言っているのに…」
つまり、義母であるエミリーは嫁というだけで敵意を抱くという事なのだろう。そういう人もいると聞いた事はあるし、噂好きの婦人たちが「あの家は嫁姑の関係が悪い」なんて話しているのを盗み聞いた事があった。
それではエミリーと仲良くなれる可能性は絶望的ではないかと頭を抱えたくなったが、アンナよりも先にエリオットの方が頭を抱えている。
「何か言われたらすぐ教えてほしい。母を追い出す事は出来ないが、せめて君の味方でありたいんだ」
「分かりました。でも私は大丈夫です。あれくらいでへこたれるようなヤワな女ではありません」
雑草ですからと胸を張ったアンナに、エリオットはふっと顔を綻ばせて笑う。笑った顔が綺麗だななんてぼうっとその顔を見ていたのだが、エリオットは嬉しそうな顔をしながらそっとアンナの頬に触れた。風で乱れた髪が頬に張り付いていたのを退けてくれただけなのだが、指先でそっと触れられるなんて初めての経験に顔が熱くなる。
「君が来てくれて良かった。嫁いで良かったと思ってもらえるように頑張るから、これからよろしくね」
「あ…はい、こちらこそ」
ドキドキと心臓が煩い。綺麗な顔をした人が優しい声でこんな事を言ったのなら、どんな女も赤面して俯くだろう。花も恥じらう何とやら…と頭に浮かんだが、違うな?とすぐに頭を振って考える事をやめた。
この結婚はお金と跡継ぎの為の結婚であって、恋愛感情などない。愛のない結婚は貴族令嬢ならよくある話。少し優しくされたからといって勘違いしてはいけない。ちょっと顔が綺麗な男の人が傍に居るからって…。未だ煩い心臓を黙らせようと、アンナはこっそりと深呼吸を繰り返した。
「そうだ、これから夫婦になるのだから、私の事はエリオットと呼んでほしい。旦那様は距離を感じるから。君の事はアンナと呼んでも?」
「あ、はい勿論!」
「では、改めてよろしくね、アンナ」
「こちらこそ、よろしくお願い致します、エリオット様」
にっこりと微笑み合い、二人はゆっくりと町を回る。また新しい嫁だとコソコソ言っている声も聞こえたが、陰口を言われる事には慣れている。堂々とエリオットの腕に掴まりながら、背筋を伸ばして歩く。
エリオットは気を遣っているのか、住民たちの陰口が聞こえないように色々と話をしてくれるのだが、面白そうに見ている視線は流石に防げないと分かっているようだ。
「…ごめんよ、思っていたより君に興味があるようだ」
「領民ですもの、仲良くしましょう」
気にしなくて良いと首を横に振ると、アンナは此方を見ている住民たちににっこりと微笑みながら手を振った。
「ごきげんよう。良い香りね」
「奥様、おひとつどうでしょ」
パン屋の主人は、自分から声を掛けて来たアンナに驚いたような顔をしていたが、すぐさま商品のパンを指差した。
「今はお腹がいっぱいなの。お勧めはどれかしら」
「そうですね…ブリオッシュはどうでしょう」
「美味しそうだ。帰る前に戻ってくるから、一つ包んでおいてくれないか?」
ポケットから小さな袋を取り出して、代金を支払ったエリオットはにっこりと微笑む。いつも笑っている人だなぁとその横顔を眺めていたのだが、アンナたちの姿を見ていた住民たちはまたコソコソと話している。
「何だか庶民的だね」
「貴族のお嬢様じゃないのかい?」
話している方を振り向いてみるが、慌てて顔を逸らされてしまった。自分からドが付く貧乏男爵家出身だと言って回る事はしないが、流石に自分の立場を少し考えた方が良かっただろうか。グルテール伯爵家に恥を欠かせたとエミリーに叱られてしまいそうで、少しだけ後悔したが、エリオットは楽しそうに笑っている。
「前の妻たちは町に来てもさっさと用事を済ませて帰る人達だったから、アンナみたいに楽しそうにしているのは珍しく見えるんじゃないかな」
「こんなに楽しそうな場所ですのに…勿体ない!」
「それじゃあ、次の面白そうな場所を探してみようか?」
行こうとまた腕を差し出したエリオットに掴まりながら、アンナは町探索を楽しむ事にした。エリオットはデートのつもりだったのだが、アンナはデートだと思っていない。ただ、優しいエリオットが屋敷から連れ出してくれたのだと思っていた。
二人の探索は夕方前まで続く。歩き疲れた二人は、帰りの馬車の中でブリオッシュを分け合って食べる事になるのだが、今の二人はまだ来たばかりの町で住民たちに「ごきげんよう」と「こんにちは」を言って回っていた。




