【3】定住編:無自覚な領地開拓
「管理人さん、見てください! この小屋の裏に変な落書きがあるのを見つけたんです!」
リリアは朝から一生懸命、小屋の壁を磨いていた。
指差した先には、禍々しい紫色の光を放つ複雑な幾何学模様。それは千年前、初代聖王が命を賭して魔王の魂を封じたとされる『絶命の封印陣』であった。
「待て……リリア、それに触れるな! それはこの森に眠る最も危険な——」
ゼノスが顔を青くして駆け寄る。だが、時すでに遅し。
リリアの手には、聖力がたっぷり染み込んだ特製の雑巾が握られていた。
「大丈夫です! こういう汚れは、気合を入れてゴシゴシすれば……わわっ!?」
案の定、リリアは壁の段差に躓いた。
体重を乗せた雑巾が、封印陣の中央を勢いよくスライディングする。
パリンッ!
何かが割れるような音が響き、封印陣から「ギャァァァ!」という断末魔のような声が聞こえた。直後、呪いの光はリリアの聖力に飲み込まれ、ただの白い壁へと塗り替えられた。
「よしっ、ピカピカです! なんだか今、悪い虫の羽音みたいなのが聞こえた気がしましたが、気のせいですよね?」
「……ああ。気のせいだ。魔王の魂が今、浄化という名の消滅を遂げた音なんて、俺は聞いていない」
ゼノスは遠い目をした。
世界を滅ぼしかねない最凶の封印が、ドジ聖女の拭き掃除で「落ちにくい汚れ」として処理されたのだ。
その頃、教会の女子たちは鏡の前でひっくり返っていた。
「ちょっ、今リリアが消したのって、歴史の教科書に載ってた伝説の封印じゃない!?」
「魔王様、一言も喋らせてもらえなかったわね……。南無」
「それより見て! 驚愕してるゼノス様の顔も素敵! リリア、そのままの勢いでゼノス様の心の壁も磨きなさいよ!」
リリアの無自覚な世界救済に、女子たちのツッコミが絶好調で炸裂していた。
「管理人さん! 魔の森でも、一生懸命耕せば畑ができるって分かりました!」
リリアは泥だらけの顔で、小屋の前に広がる庭(元・毒キノコの群生地)を指差した。
彼女が昨日、豪快に転んで聖力をぶちまけた場所には、今や不気味な紫色の霧など微塵もなく、ふかふかの黒土が広がっている。
「……リリア、お前が植えたのは、国が厳重に管理している『神聖種』の芋じゃなかったか? なぜそんなものが、ここにある」
ゼノスが怪訝な顔で尋ねる。
それは、追放される際に同僚のカレンたちが「お守り」として持たせてくれた袋に入っていたものだ。本来、厳しい神域でしか育たないはずの貴重な作物である。
「カレンさんたちが『飢えたらこれを植えなさい』って。でも、なかなか芽が出なくて……。だから、お水をたっぷりあげて、お祈りしながら一生懸命応援したんです!」
リリアは「お水」と言ったが、それは彼女の聖力が飽和状態になった特製聖水だ。おまけに、先ほどお祈りしようとして躓き、畑にスライディングした際に、膨大なエネルギーが土壌に直接注入されている。
ゴゴゴゴゴ……!
地響きとともに、土の中から黄金色の茎が勢いよく飛び出してきた。
「わわっ!? もう収穫ですか!?」
リリアが驚いて茎を引っ張ると、土の中から現れたのは、ラグビーボールほどもある巨大な、そして文字通り『発光している』芋だった。
「……『天光芋』か。伝説では一口食べれば致命傷すら治癒するという聖なる作物だが、こんなに光っているのは見たことがない。もはや照明器具だな」
「すごいです管理人さん! これでお夜食の時も手元が明るいですね!」
リリアは嬉しそうに、光り輝く芋を抱えて小屋へと戻っていく。
ゼノスは、本来なら国家予算レベルの価値がある芋が、リリアの手によって「お夜食兼ライト」として処理されていく様子に、もはや突っ込む気力も失いつつあった。
その頃、教会の鏡の前では——。
「ちょっと! あのお芋、一つ売るだけで私たちが一生遊んで暮らせる額になるわよ!?」
「リリア、それをゼノス様に食べさせるのね!? 精がつきすぎて夜が大変なことになっちゃうじゃないのぉぉ!」
「ミナ、あんた発想が下世話よ! ……でも、そのお芋を食べるゼノス様の美しい咀嚼シーン、録画できないかしら……」
教会の女子たちは、リリアの無自覚な錬金術(農業)に、欲望と興奮を爆発させるのだった。
その日は、珍しく朝から魔の森に激しい雨が降っていた。
リリアの浄化のおかげで不気味な黒い雨ではなくなっていたが、それでも外に出られるような天気ではない。
「管理人さん、雨の日はなんだか落ち着きますね」
狭い小屋の中。リリアはゼノスのすぐ隣に座り、一生懸命に修繕中の服を縫っていた。
だが、リリアが動くたびに、彼女の桃色の髪から漂う花の香りが、ゼノスの鼻腔をくすぐる。
「……リリア。少し離れろ。お前が動くたびに、針がこちらに刺さりそうで危ない」
それは真っ赤な嘘だった。実際には、隣にいるリリアの体温が伝わってきて、ゼノスの理性が激しく揺さぶられていたのだ。
「えっ? 大丈夫ですよ、私、気をつけてますから……わわっ!?」
言ったそばから、リリアはお約束のように座っていた切り株の椅子から滑り落ちた。
反射的にゼノスがその体を受け止める。狭い小屋の中で、二人の体は完全に密着する形になった。
「あ、ありがとうございます、管理人さん……。えへへ、やっぱり私、ドジですね」
見上げれば、そこには整いすぎたゼノスの顔。至近距離で見つめられ、リリアの胸もようやく少しだけ、不自然な鼓動を打ち始める。
一方のゼノスは、腕の中に収まった柔らかい感触と、純粋な瞳に当てられ、呼吸を忘れていた。
「……お前、本当に……警戒心というものがないのか」
ゼノスの声が低く掠れ、その手がリリアの頬に触れようとした、その時。
——ピカッ! ドォォォォォン!!
リリアが緊張のあまり無意識に放出した聖力が、雨雲を突き抜けて落雷を呼び寄せた。
雷は小屋の真横に落ち、凄まじい衝撃波が二人を襲う。
「ひゃあああっ!?」
「くっ……! リリア、落ち着け! お前のせいで天変地異が起きている!」
その頃、教会の資料室では絶叫が上がっていた。
「あああああ! いいところだったのに! なんでそこで雷を落とすのよリリアぁぁぁ!!」
「ゼノス様のあの、今にも噛みつきそうな色っぽい表情! 見た!? 今の見たわよね!?」
「雷のせいで鏡が砂嵐にっ……! お願い女神様、早く復旧させて! 続きを見せてぇぇ!!」
決定的瞬間を逃した女子たちは、資料室の床を転げ回りながら悶絶するのだった。
「管理人さん! 今日はとってもいいお天気なので、その古い鎧をピカピカに磨いてあげますね!」
リリアは、ゼノスが隅に置いていた黒ずんだ甲冑を引っ張り出してきた。
それはかつて『黒鋼の騎士』と恐れられたゼノスの愛用装備だったが、長年の呪いによって重苦しい闇の魔力を帯びていた。
「おい、やめろリリア! その鎧の汚れは、一介の聖女が落とせるような代物では——」
ゼノスが止める間もなく、リリアは気合を込めて「特製聖水入りのワックス」を塗りたくった。
「一生懸命磨けば、きっと本来の輝きが戻るはずです! えい、えい、わわっ!?」
力を入れすぎたリリアは、鎧に抱きつく形で前方へスライディング。
彼女の全身から溢れ出した聖力が、ワックスを媒介にして鎧の分子構造にまで浸透していく。
パキィィィィン!!
凄まじい浄化の光が収まったあと、そこにはかつての黒い鎧はなかった。
「……あ、あれ? 管理人さん、なんだか透明になっちゃいました……?」
そこにあったのは、ダイヤモンドよりも硬く、それでいて向こう側が透けて見えるほど澄み切った『神性透明装甲』へと進化した代物だった。
ゼノスが恐る恐るその鎧を装着してみると——。
「……リリア。これでは、中の服まで丸見えではないか。というか、鎧としての威厳が皆無だぞ」
「でもでも! とっても綺麗ですよ! 光が反射して、管理人さんがさらにキラキラして見えます!」
無邪気に喜ぶリリア。一方、ゼノスは「裸を晒しているような気分だ」と真っ赤な顔をして腕を組む。透明な鎧のせいで、彼の逞しい胸板や腹筋のラインが、服越しに以前より強調されて見えていた。
その頃、教会の資料室では——。
「ギャァァァァァァーーー!! スケルトンアーマー!? リリア、天才なの!? 神なの!?」
「見て! あの胸筋! 透明な鎧越しに見えるゼノス様の肉体美、これ実質脱いでるのと一緒じゃない!」
「カレン、鼻血! 鼻血拭いて! 鏡が汚れちゃうでしょ!」
「いいのよ、この光景を拝めるなら死んでもいいわ……。リリア、そのまま彼に抱きつきなさい! 感触を実況するのよぉぉ!!」
女子たちの狂乱は、ついに教会の外まで漏れ聞こえそうなほどの音量に達していた。
「……それでね、ワンちゃん。私、やっぱりドジすぎるんでしょうか」
小屋の前の切り株に座り、リリアは大きな白狼(元・フェンリル)の背中に寄りかかって、深いため息をついていた。
足元には、なぜかリリアに浄化されて以来、すっかり大人しくなった森の魔物たちが、まるでお説法を聞く子羊のように集まっている。
「管理人さんに『危なっかしい』って言われちゃうんです。一生懸命やってるつもりなんですけど……わわっ!」
立ち上がろうとして、リリアは自分の裾を踏んで転んだ。
そのまま、横で待機していた『森の処刑人』の異名を持つ巨大なカマキリ(の浄化個体)の頭に頭突きをかます。
ドゴォォォォン!!
カマキリは衝撃で聖力の粒子を振りまき、なぜか体がエメラルド色に輝き出した。
「キュ……キュゥゥ(無理……)」
「ああっ、ごめんなさいカマキリさん! 痛かったですよね? あ、でもなんだか色が綺麗になりましたね!」
リリアはめげずにカマキリの鎌をナデナデしながら、人生相談を続行する。
その背後で、ゼノスが頭を抱えながら一部始終を見ていた。
「リリア……。お前、魔王の残党すら恐れる『死のカマキリ』に、何を身の上話を語っているんだ。あと、そいつは今、お前の聖力で品種改良されて『光のカマキリ』に進化したぞ」
「管理人さん! この子たち、とっても聞き上手なんですよ。ねー?」
リリアが微笑むと、魔物たちは一斉に「逆らったら消滅(浄化)させられる」という本能的な恐怖から、必死に首を縦に振った。
その頃、教会の資料室では——。
「見て、リリアの背後に従う魔物の軍勢……。あれ、完全に『魔王』の構図よね?」
「でも相談内容が『どうすれば転ばないようになりますか』なのが最高にマ抜けだわ」
「というか、あのカマキリの鎌、聖属性が付与されてるわよ! リリア、一撫でで伝説の武器を量産しないで!」
「それよりゼノス様の、あの『もう好きにしろ』って顔! 愛が深まって呆れに達してるわね。眼福だわ……」
女子たちは、リリアが無自覚に「魔の森の真の支配者」へと上り詰めていく姿に、戦慄しながらも大興奮で鏡を食い入るように見つめていた。




