さあ、お仕事の時間だ。……あそこにいる『迷子』に、帰り道を教えてあげよう
4/2掲載
満開の桜が、月光に照らされて淡い毒のように白く光っている。
深夜二時、隅田川沿いの並木道。本来なら酔客も寝静まる時間だが、今夜は「特別」だった。
木製のデッキが続く遊歩道を、一人の少女が歩いている。
厚手の紺色のコートに、赤いスカート。足元は歩きやすそうなスニーカー。どこにでもいる女子大生のような服装だが、その顔には、不釣り合いなほど鮮やかな「狐の面」が張り付いていた。
「……さて。準備はいいかな、みんな」
少女——「琥珀」は、独り言を呟きながら、胸元に固定した小型のジンバルカメラとマイクを軽く叩いた。
直後、彼女の視界の端に浮いている仮想ディスプレイが、爆発的な勢いで更新され始める。
『待ってました!』
『今夜は花見配信?』
『っていうか外!? この時間、普通に不審者だろww』
『狐面様、今夜もミステリアスで助かる』
画面を流れる無数のコメント。琥珀は、画面の向こう側にいる数万人の観客に向かって、面の下で小さく口角を上げた。
「こんばんは。あやかし専門VTuberの琥珀です。今夜は少し、空気が重い。……ほら、カメラ越しでもわかるかな? 桜の花びらが、風もないのにあっち側に流れていく」
琥珀が指差した先。そこには、街灯の光さえ届かない暗がりに、ぼうっと佇む「影」があった。
それは通行人のようにも見えるが、足元は桜の絨毯に沈み込み、実体がない。
琥珀が歩みを止めると、背後からふわりと、巨大な「尾」のような影が揺れた。それはコートの裾から伸びているようにも、あるいはただの光の加減のようにも見えたが、視聴者たちはそれを「高性能なフルトラッキングの演出」だと信じて疑わない。
『おおお、尻尾の揺れ方エグい』
『このモデル、いくら掛かってんだよ』
『演出神すぎる』
「ふふ、これは特注だからね」
琥珀は冗談めかして笑う。
だが、その声はどこか寂しげだ。
彼女はこの街で、唯一の「混じりもの」だった。妖怪の血を引きながら、妖怪の里では「尻尾が一本しかない」と蔑まれて追放され。かといって、人間の世界では、この隠しきれない妖気を隠すために、常に「狐の面」を被っていなければならない。
そんな彼女にとって、ディスプレイの向こう側だけが、唯一、素の自分を「最高の演出」として受け入れてくれる場所だった。
「さあ、お仕事の時間だ。……あそこにいる『迷子』に、帰り道を教えてあげよう」
琥珀は一歩、踏み出す。
桜の並木道が、まるで彼女を祝福するように、あるいは拒絶するように、激しく乱れ舞った。
これは、誰にもなれない半妖の少女が、嘘と真実が入り混じる「配信」という魔法を使って、夜の東京に潜む傷跡を癒していく物語。
月は高く、夜はまだ、始まったばかりだ。
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