蒼唯 [4]
多くの家が立ち並ぶ住宅街の中でも、蒼唯は自分の家が一番素敵だと思っている。真っ白な壁に、ネイビーにクリーム色の差し色が入った屋根。あまり広くない庭には、色とりどりの季節の花々が植えられている。
太陽の光を吸ったような淡い黄色のバラと、風に揺れるラベンダーが晴れやかに咲いている。五月らしさが香る、小さな園だ。
その庭も通り過ぎ、玄関の扉を開けると、リビングからやさしい甘い香りが漂っていた。
ふんわりとした砂糖とアールグレイの匂いだ。
今日のおやつは紅茶のシフォンケーキだと蒼唯は予想する。
「お母さーん、ただいまー」
「おかえり、蒼唯。」
蒼唯の母──一美が、シフォンケーキのように柔らかな笑みと声音で振り返った。
「おやつはシフォンケーキよ。なんと今回はアールグレイの茶葉も入れて、紅茶の香りがするのよ〜。って、もう分かっちゃってるわよね」
一美は長閑に笑う。そして何故か下手くそなウインクをした後、もう少しで焼き上がるから待っててね、とミトンを手に嵌めた。
蒼唯は、鼻歌でも歌い出しそうなくらいに上機嫌な、一美の背中を眺めた。
シンプルな薄緑色のエプロンがよく似合っている。
うなじの辺りでまとめているダークブラウンの髪は、動物園にいたポニーの尻尾のようであった。一美が少し動くたび、毛先が跳ねながら揺れる。
「お待たせ〜。蒼唯の好きなホイップクリームもつけちゃった。一緒に食べよう。」
間延びした口調とともに、一人分にカットされたシフォンケーキと少しのホイップクリームが載った皿を二つ、一美はダイニングテーブルの上に置いた。
ケーキからは、心地良いやわらかさを纏った香りと、もやのような湯気が薄く立ち昇っている。
鼻腔を擽るアールグレイの匂いに、蒼唯は一瞬、得も言われぬ幸福に浸った。
一美は、蒼唯と向かい合せに座り、今日の学校はどうだったかと訊く。
学校から帰ってきて、母が作ったスイーツを食べながらどんな一日だったかを話すのが、蒼唯の日課だ。
「今日はね、あおいが苦手な社会と体育があったよ。日本の都道府県を教わったんだ。あおいたちが住んでる神奈川県って、関東地方なんだね。」
「そうよ〜。お隣は東京と山梨県よね。」
なんて穏やかに話しながら、蒼唯は、一美と二人きりの時間を過ごす。
きっと、一美は「良いお母さん」なのだろう。
愛情や平穏を与えてくれること、それらを知らない人からすれば、羨ましくてたまらないような幸福だ。
家庭環境や経済状況においては、蒼唯は恵まれているといっても良い。
でも、そんな、幸せな家庭、というごく小さな共同体ですら、蒼唯のまっさらな心に細かな切創を残した。
「今日の給食はね、麻婆豆腐だったよ。いっぱいおかわりしたんだぁ」
蒼唯は食べることが好きだ。
食べること、食べたものが己の身体をつくること、そういった栄養学や化学に興味があった。
「蒼唯は本当に食べることが好きよね。··········でも、蒼唯は女の子なんだから、あんまりガツガツ食べちゃダメよ。」
はしたないわよ、と、一美は変わらず穏やかな口調で窘める。
女の子なんだから。
脳内でその言葉を反芻した瞬間、蒼唯の心の中で嵐のように吹き荒び、無数の切り傷を生んだ。
(···········お母さんに悪意なんて、微塵もない。)
理解しているからこそ、尚更抗えない。
(あおいのためを思ってそう言ってるんだ。みんなに変な子って思われて、独りぼっちにならないように。)
でも。
そんなこと分かっていても。
蒼唯には、それがとてつもない違和感で。
ひどくやるせなく、悔しく、絶望する。
お母さんやまわりの人たちから投げかけられる「女の子なんだから」が、蒼唯の心臓を刺すための鋭いナイフのように感じる。
突き刺されるたび、蒼唯の苦しさと比例して、嘘の笑顔が上手くなる。
(··········笑わないと。じゃないと、心配されちゃう。)
もはや本能であり、いつの間にか身に付いた反射でもあった。
(おかしい子かも、って、思われちゃう)
「········えへへ、そうだね。気をつけるよ。」
この恐怖と不満と本音が、誰にも知られないように、気をつけるよ。
第一章蒼唯編、および第一章「10歳、2010年」完結となります。お読みくださりありがとうございます。
次話より第二章が始まります。これからも、湖緒と蒼唯の物語を見届けていただけると幸いです。
毎週水曜日と日曜日に更新するって言っていたのに、全然更新できていなくて本当にすみません!!!
次章からはきちんと宣告(?)通りに更新できるよう、頑張ります。




