依頼に向けて
「ルーチェちゃぁん! 動けるようになったのねぇん!」
ルーチェがピエノパッチに入ると、いきなり粘っこい女性の声が耳に飛び込んできた。店の喧噪よりもそれははっきりと聞こえる。視線を向けると、客席側に一人の人物がルーチェを見ていた。パッと見た限り、男性とも女性ともとれる容姿。白のワイシャツに黒のベストにネクタイ。黒のズボンの上には茶色のカフェエプロン。その人の近くにはポラーレとアナリズがいた。
その女性は二人を押しのけ、ルーチェへと両手を広げて走ってきた。階段を下りてすぐのドアのところで動けずにいるルーチェ。近くの壁に手をついて身構える。カウンターを通り抜けた女性がルーチェへと飛びつこうとしていた。
「マスター! 落ち着いて!」
ルーチェの前にオリチェが立ちはだかって、マスターと呼ばれた女性の動きをさえぎった。
「えっ、あっ!」
「ちょっ!? マスター!」
加速していたマスターは止まれるはずもなく、オリチェにぶつかった。二人はそのまま一緒になって床に倒れ込んでいった。ルーチェの足元に二人が倒れてきた。イタタッ、と小さくいいながら起き上がってきたのは、上になっていたマスターだった。
「ルーチェちゃぁん。良かったわぁん。元気になったのねぇん」
「ま、マスター。ルーチェさんの心配もいいですけど、オリチェのこと忘れないでください……」
マスターの下で抗議の声を上げたオリチェ。少しずれたメガネの位置を倒れたまま片手で直していた。もう一方の手で、覆いかぶさっていたマスターの身体を押し上げていた。
「ごめんねぇ、オリチェちゃぁん。でもぉ、いきなり目の前にあらわれたらぁ、危ないじゃなぁい?」
「何言ってるんですか? マスター!?」
声を荒げながら、オリチェはマスターを押しのけて身体を起こした。マスターもオリチェの上から避けて、横へと座った。重さが抜けたオリチェは埃を払いながら立ち上がった。すぐに座り込んだままのマスターに上から顔を近づけた。両手はオリチェ自身の腰に握りこぶしの形であてられていた。
「ルーチェさんはケガ人です。今日は動けるようになりましたけど、昨日までずっと寝ていたんですよ! そんな人に飛びついたらケガだけじゃすまないでしょう? 嬉しいのはわかりますけど、落ち着いてください!」
オリチェの言葉がルーチェの耳にも届く。しかし、客席の様子に変化はなかった。オリチェの声はカウンターの内側だけで聞こえていた。ルーチェからはオリチェの顔が見えず、背中しか見えない。ただ、その肩はわずかに震えていた。
「そ、そうねぇん。ルーチェちゃぁんごめんなさぁい」
座ったままだったが、姿勢だけは整えて頭を下げたマスター。
「マスター。それオリチェにもいってくださいね」
釘を刺したオリチェ。マスターはオリチェにも頭を下げた。
「わかってくれたのなら」
そう言ってオリチェはマスターに手を伸ばした。マスターは顔をあげ、手を見た後にオリチェの顔を見た。オリチェが頷いた。マスターはゆっくりと手をつかんだ。つかんだのを確認したオリチェがマスターを引っ張り起こした。




