セッション19.逆転
オルドリン・ドームと自宅マンションとはコロニーの正反対にある。つまり最も遠い位置関係にあり、直線でも2キロほど離れていた。加えて、オルドリンの内部は数千人、もしかすると数万人の人で埋め尽くされていた。リクは人込みに前進を阻まれてしまった。
「バッテリーが次々と落ちています。こちらの戦力が3割ほどダウンしました」
ナカモトが連絡を入れてきたのは、リクがようやくオルドリン・ドームを出て、隣のジェミニ・ドームに入った頃だった。ジェミニの混雑ぶりも尋常ではなかった。
「それで、争奪戦はどうなっていますか」
「メインチェーンの長さでいくと、55対45といったところです。あと5%以上取られたら、メインチェーンは奪われます」
「残された時間はどのくらいありますか」
「ハマダさんのコンピューターをフル稼働していますが、それでもあと5分もつかどうか。もうダメかもしれません」
ナカモトの声は沈んでいた。
「諦めてはいけません」
「しかし…ここまで来てしまうと厳しいと言わざるを得ない。ところで、タカシマさんはどうなっていますか」
この期に及んでもナカモトはレイの安否を気にしている。リクの脳裏にレイの笑顔が浮かんだ。
リクは人の波をかき分けながら答えた。どんなに進んでも人の壁がリクを妨げた。必死に足を動かしているのに、前に進むことができない。まるで夢の中で足掻いているかのようだった。月のコロニーにこれほどの人がいたとは…リクは改めて慄然とした。
「敵のアジトらしき場所は特定したんです。今、そこに行こうとしているのですが、群衆に阻まれてなかなか前に進めません。ハマダさんも向かっています」
「5分以内に着くのは難しいですね」
「恐らく」
ナカモトは沈黙した。
「諦めないでください、ナカモトさん。今から私が言うことを良く聞いて、実行してください。私の会社に私の本名で連絡をしてください。それが合言葉なっています。本名を告げたら電話は私の上席につながります。そこで「キズミさんの上司の方ですか」と聞けば大丈夫です。そして、私の言うことを正確にその上司に伝えてください。さらに、ナカモトさんにはやってもらいたいことがあります」
リクが自宅マンションに辿り着いたのは、その30分後で、すでに敵は54%を獲得し、メインチェーンを乗っ取っていた。それは、月のサイバー空間の中にあった天文学的な「ルナ」の全てが敵の手に渡ってしまったことを意味する。
「カワダ様」
マンションの入口ではハマダさんが待っていた。
「5階の住人の方の詳しい素性は存じ上げません。とてつもない富豪としか知らされておりません。コンシェルジュを通さずに出入りできますので、顔をお見掛けしたのもほんの1、2度程度です。随分とお若い方に見えました」
「まさか自分の頭の上にいたとは…。敵も驚いたでしょうね。タカシマさんがハマダさんの会社の社員だということを知って」
「だからこそタカシマをさらわなければならなかったし、総攻撃を早める必要があったのですね」
「ハマダさんもグルだと思われた訳ですね」
ハマダさんは小さく笑った。
「それは本望でございますよ。さあ、カワダ様、悪い奴らはさっさとやっつけてしまいましょう」
最上階直通のエレベーターはロックされていて使えなかった。一瞬途方に暮れた表情をみせたリクに向かってハマダさんが言った。
「5階に行く手段は、エレベーターだけではございません。さあ、こちらへ」
最上階に向けて延びる非常階段を登って、リクとハマダさんは敵の本拠に乗り込んだ。
「言われた通りにやりましたよ」
ナカモトから連絡が入ったのは、リクが敵のアジトを潰し、レイを救い出した後、すぐだった。
「あなたの会社はすぐに動いてくれました。まず、最初にしたのが通電していた二つのドームの強制停電でしたね」
「凄い数の人が集まっていたから、パニックは大丈夫でしたか」
「その代わりにこちら側のドームの通電が再開されましたから。群衆は比較的落ち着いていましたよ」
「次の作戦は…」
「こちらも上首尾です。奴らはメインチェーンを奪った後、それを延伸するために、かなりの取引を発生させてマイニングを続けていました。こちらの戦力が弱っていたので、ほぼ独走状態で、一時は60%近くを抑えられてしまいました」
「でも…」
「2つのドームを停電させたので、今度は相手側の戦力が徐々に落ちていきました。カワダさんが敵の司令塔を潰してくれたのも大きい。タカシマさんのマップがあったので、赤い大きなポイントを物理的に潰して回ったのも効果的でしたね」
「それで…」
「現在は53%を取り返しましたよ。メインチェーンは復活しました。チェーンを乗っ取った後に、奴らがチェーンを延ばそうとして投入した全ての資産は逆に失われました。わずかな時間でしたがそれは相当な額ですよ。小さな国が1つ、2つ買えるくらいの莫大な資産です。こちらの取引記録は完全に元に戻しました。『ルナ』は守られました」
「首謀者は逮捕しましたよ。タカシマさんも無事です」
ナカモトの安堵のため息が感じられた。
「どんな奴だったのですか」
「詳しく調べてみないと分かりませんが、かなりの大富豪で、相当なオタクです」
「オタク?」
「コンピューターシステムに詳しいマニアですよ。政治的な背景はなさそうだし、マフィアとの繋がりもなさそうです。共犯はいそうにありません。完全な個人的な犯行だと思われます。奴にとってはゲームの感覚だったのかもしれません。我々が乗り込んだ時、シャンパンで乾杯していましたよ。たった一人で」
「そんな奴が月コロニーの経済を丸ごと破壊しかけたというのですか。数十万の命さえ危険に晒して」
ナカモトが珍しく感情を露わにした。リクも同じ気持ちだったが、感情の爆発は先ほどの逮捕の時に済ませた。奴に食らわせた右ストレートで解消していた。
「ありがとうございました、カワダさん」
ナカモトとの通話を終えたリクの傍らに、レイがいた。ふらつく身体を横でハマダさんが支えていた。
「僕の方こそ、こんな危険な目に逢わせてすまなかった」
リクは頭を下げた。
「でも、君が徹夜でプログラミングしてくれたAIのおかげで、この場所が分かったんだ」
レイはわずかに唇を緩ませた。
「もっとも最初は敵の罠にだまされかけたけどね」
レイの隣でハマダさんが晴れ晴れとした笑顔を見せていたのが、リクには何よりうれしかった。




