第8話:父として
訓練場の熱気が引き、冷たい月光が静まり返った司令部天幕。
九十八代目かぐや姫は、乃木と二人きりになると、重い口を開いた。
「閣下……。兵たちには、決して明かせぬ真実がございます。あの野卑な反乱軍――彼らがなぜ、これほどまでに我らを憎むのかを」
かぐや姫が提示したホログラム投影機が、数千年前の「月の記憶」を映し出す。そこにいたのは、今のような怪物ではなく、小さく愛らしい、知性を持たぬ原生ツキウサギたちであった。
「我ら月の民は、高度な科学と引き換えに、肉体の頑健さを失いました。そこで、彼ら原生ウサギに遺伝子操作を施し、言葉を与え、道具を持たせたのです。……すべては、我らの代わりに『餅(エネルギー触媒)』を搗き、過酷な労働を担わせるために」
乃木の眉間に深い皺が寄る。
「……つまり、彼らは貴公らの『僕』として、意図的に造られたと?」
「はい。彼らには独自の文化も、家族も、神への信仰すらありました。しかし、数世紀前、月の資源が枯渇し始めた際、当時の政府は彼らの食料配給を断ち、廃棄を決定したのです……。生き残った彼らが、復讐の鬼と化すのは、当然の理でした。彼らにも、守るべき同胞と『義』があるのです」
乃木は、天幕の隙間から見える、訓練で疲れ果てて眠るバニー兵たちの姿を黙って見つめた。
イヂーチは軍刀を抱いたまま、サーハとコダーマは互いの体温を分け合うように寄り添って寝息を立てている。
「……義、か。本官にとっては、馴染み深い言葉だ」
乃木の脳裏に、地球での光景が蘇る。
日露の戦役で、敵国ロシアの将軍ステッセルと交わした「水師営の会見」。敵であれ、義を貫いた者には敬意を払う。それが乃木の信条だった。
しかし、同時に胸を締め付けるのは、旅順の山々に消えていった二人の愛息、勝典と保典の面影であった。
(……あの時、本官は父として彼らを止めることができた。だが、将軍として彼らを死地へ送った)
目の前で寝入っているこの娘たちは、もはや単なる異星の兵士ではない。
乃木が厳しく叱り、共に砂にまみれた日々を経て、彼女たちは乃木にとって「失われた息子たち」であり、同時に「守るべき赤子」そのものとなっていた。
「閣下、彼らに義がある以上、我らがしていることは……」
かぐや姫の声が震える。
乃木は、ゆっくりと首を振った。
「姫君。敵に義があるからとて、目の前の我が子を差し出す親がどこにおりますか。……彼らの怨嗟は、すべて、この本官が背負おう」
乃木は天幕を出て、空に浮かぶ巨大な「青い星」を見上げた。
かつて殉死したはずの自分が、なぜこの異境に呼び寄せられたのか。その答えが、今、すとんと胸に落ちた。
「……本官は、一度死んだ身だ。名誉も、余生も、とうに置いてきた」
乃木は、地球光に透ける己の掌を握りしめた。赤黒く光る割腹の傷跡が、決意に呼応して激しく脈動する。
(陛下……。静子……。見ておいてくだされ。希典、今度こそ、一人の若者も無駄には死なせませぬ。我が魂を、この月の地で果てさせようとも……!)
乃木は、純白の布を取り出した。
霊体と共に実体化した「白襷」である。
彼はそれを、静かに、だが力強く己の肩に掛けた。
「イヂーチよ、起きろ。……サーハ、コダーマもだ」
その声に、娘たちが跳ね起きる。
「か、閣下!? こんな夜更けに……」
「これより、最終訓練を行う!一人の脱落者も出さぬ。……いいな、貴公らッ!!」
「「「はいッ!!」」」
乃木の瞳には、迷いは消えていた。
敵の悲劇を知り、なおも愛する娘たちのために「悪鬼」となる道を選んだ老将。
その背中は、明け方の冷たい光を浴びて、誰よりも神々しく、そして誰よりも孤独に輝いていた。




