第38話:戦果と受け入れ
魔王討伐から、数日が経っていた。
弟子たちを含めた賑やかな毎日が戻り、家の中には、いつも通りの温かさが満ちていた。だが、その日常の片隅に、まだ誰にも触れられていない箱が、一つだけあった。
魔王の居城から持ち帰った、古い書物。
エナガは、その存在を、なんとなく気にかけながらも、開く決心がつかずにいた。
夕食を終えたある夜。子どもたちが寝静まった後、書斎に、灯りがついていた。
「……起きてたのか」
ドアを開けたのは、ルートだった。中には、既に、エナガと師匠の姿があった。
テーブルの上には、あの書物と、もう一枚――あけびが拾い、以前チアの椅子の下から見つかった、あのメモが並べて置かれている。
「あけびも呼んだ方がいいかしら」
「……いや、俺が呼んできた」
そう言ったルートの後ろから、あけびが、眠そうに目をこすりながら顔を出す。
「なんか、大事な話があるって、ルートが……」
四人が、テーブルを囲んで座った。
「……開けてみる」
エナガが、静かに書物のページをめくる。古いディア族の文字が、ページいっぱいに並んでいた。
「……ううん、全然。師匠、これ読める?」
師匠は書物を受け取り、目を細めてページをめくっていく。その表情が、途中でぴたりと止まった。
「………………」
「師匠?」
「……エナガ。お前を拾った日のこと、覚えてるか」
「もちろん覚えてるよ。泣きながら歩いてたって、前に聞いたし……」
「あの時、私はお前に魔力を分けた。理由は、正直自分でもよく分かってなかった。ただ、そうしなきゃいけない気がしたんだ」
師匠は、書物の一節を指でなぞる。
「ここに書いてある。……"魔力の由来が上書きされれば、繋がりは薄れる"」
沈黙が落ちる。
あけびが、恐る恐る聞いた。
「……繋がりって、何の話?」
チアが、静かに口を開く。
「……エナガ。俺があの時、お前にディア・モーゼを撃った理由、覚えてるか」
「……覚えてるわよ。忘れるわけないでしょ、殺されかけたんだから」
「あれは、魔王の魔力を対象にする禁忌魔法だった。お前に効くように作られてた、っていうのは……」
チアの声が、少しずつ震えていく。
「お前の中に、最初から魔王の魔力があったから、なんじゃないのか」
誰も、何も言えなかった。
「……待って」
エナガが、震える声で言う。
「あんた、いつからそれ、知ってたの」
チアは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと、目を伏せる。
「……砦で、見た」
「……え」
「あの時、"何もなかった"って言った。……嘘だった」
チアは、両手を強く握りしめた。
「装置に、映像が映ってた。お前の、小さい頃の姿が。……修行してる時の。師匠と一緒にいる時の。何もかも、全部」
「……」
「あれは、監視の記録だった。魔王が、ずっと……お前を通して、見てたんだ」
エナガの手が、テーブルの上で、小さく震え出す。
「私、ずっと見られてたってこと? 生まれた時から?」
師匠が、書物をそっと閉じた。
「……お前が今ここにいるのは、あの時私が魔力を分けてやったからだ。あれのおかげで、お前は"あいつ"から、少しずつ見えなくなっていった」
「……じゃあ、私は」
エナガの声が、かすかに揺れる。
「私はずっと、それに気づかないまま、あんたたちと……」
言葉が続かない。
あけびが、何も言わずにエナガの肩に手を置いた。
チアは、目を逸らさずにエナガを見ていた。
「……気づかなかったのは、お前のせいじゃない」
「……あんたは、知ってたんでしょ。……なんで、言わなかったの」
「言えなかった」
チアの声が、初めて、はっきりと震えた。
「言ったら、お前が壊れるかもしれないと思った。……それに、正直、俺も、どう受け止めればいいか分からなかった」
「……」
エナガは、しばらく、何も言わなかった。ただ、自分の手のひらを、じっと見つめていた。
「師匠は……いつから、知ってたの」
「……お前を拾う、ずっと前からだ」
師匠は、静かに答えた。
「新型の……実験体が作られてる、という話は、聞いていた。だから、対策として、ディア・モーゼを作った。友好的な世界2位に、託しておいた」
「……その実験体が、私だって、いつ分かったの」
「拾った時には、もう、分かっていた」
「……なんで、拾ったの」
エナガの声が、初めて、涙で滲んだ。
「なんで、育てたの。危ないかもしれないって、分かってたのに」
師匠は、少しの沈黙のあと、静かに答えた。
「……お前が、泣いてたからだ。理由なんて、それだけで、十分だった」
「……」
エナガの目から、涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。
「私、まがいものなんでしょ。……本物のディア族じゃない。だから、こんな風に、優しくなれただけなんでしょ」
「――それの何が悪い」
師匠が、静かに、しかしはっきりと言った。
「まがいものだろうと、本物だろうと、関係あるか。お前は、お前として、ここまで生きてきた。それだけで、十分だ」
「……」
あけびが、エナガの肩を抱き寄せる。
「僕たちにとって、エナガは、エナガだよ。それ以外の何者でもない」
チアも、静かに頷いた。
「……悪かった。ずっと、黙ってて」
エナガは、しばらく、声を殺して泣いていた。誰も、それを急かさなかった。
夜が、静かに、深まっていく。書斎の灯りだけが、四人の姿を、優しく照らし続けていた。




