第34話:チアの世界
目を開けると、そこは、どこまでも続く氷の荒野だった。
「……ここは」
ルートは、杖を構えたまま、静かに周囲を観察する。
(様子を伺う。変に手を出したらよくない。先手を打つのはこの状況ではあだとなる)
冷静に思考を巡らせるルートの前に、静かに、もう一人のルートが姿を現した。だが、その目には、これまで見たことのない、昏い光が宿っている。
「……」
ルートは、何も言わなかった。ただ、じっと相手を観察する。
「――分析か。相変わらず、頭でっかちだな」
幻影のルートが、口の端を歪める。
「お前は結局、誰かの道具でしかない」
「……何のつもりだ」
「世界2位? 笑わせるな」
幻影の声が、氷のように冷たく響く。
「お前はずっと……ずっと……ずっと……。上等な駒であれ。それがお前に必要な首輪だ」
「……」
ルートは、あえて言葉を発さなかった。挑発に乗るな、と、頭の中で自分に言い聞かせる。だが、幻影の言葉は、容赦なく続いた。
「じゃないと……人を殺しかねないだろ。そんなこと、お前もわかってるはずだ。自分は猛獣だって」
「……っ」
わずかに、ルートの肩が強張った。
「あの記憶、忘れたふりをしてるだけだろう。……お前が本当に見たもの。エナガの、生まれの秘密。あれを知った時、お前は何を思った」
「黙れ」
「否定できないよな。……お前は、あの時、少しでも思っただろう。もしエナガが本当に危険な存在だったら、殺さなきゃいけないかもしれない、って」
「――黙れと言っている」
「思ったはずだ。だって、お前は、その為の技を託されてたんだから。忘れるはずがない」
幻影の声が、じわじわと、ルートの心の一番深いところを抉っていく。
「お前は、友情なんかより先に、"駒としての役割"を考えた。違うか?」
「……」
ルートは、答えられなかった。反論しようとしても、言葉が出てこない。事実の一部が、あまりにも正確に、心臓を貫いていた。
「……お前がエナガを守りたいと思う気持ちすら、本当は、罪悪感の裏返しでしかないんじゃないか? 自分が殺しかけた分、取り繕おうとしてるだけだろう」
「……ちがう」
声が、震える。
「……そんなこと、」
「じゃあ言ってみろ。お前は、本当に誰かを守れる人間か? 一番大事な場面で、迷わず動けるのか?」
幻影が、一歩、二歩と近づいてくる。ルートは、後ずさりそうになる自分を、必死で押しとどめた。
「お前は、いつだって計算してるだけだ。感情なんて、二の次だ。……それが、お前の正体だ」
「……」
視界が、揺らぐ。過去の記憶が、次々と蘇ってくる。世界2位という重圧。デマを信じてエナガに刃を向けた夜。あの記憶を隠したまま、平然と食卓を囲んできた日々。
「……そうかもしれない」
ルートの口から、掠れた声が漏れた。
「俺は、いつも、計算してばかりだ。感情より先に、損得を考えてしまう。……それで、何度も間違えた」
幻影が、満足げに笑う。
「なら」
「――だが」
ルートの目に、光が戻る。
「それでも、俺は選んだ。エナガの前で、無様に泣いた。あけびに、お前らしくないって笑われた。……あの時感じた気持ちは、計算なんかじゃなかった」
「……」
「駒だったのかもしれない。利用されてたのかもしれない。……でも、それでも」
ルートは、杖をぐっと握りしめる。
「俺は俺だ!! 誰の道具でもない!! お前が何を言おうと、俺はもう、あの家に、あいつらのところに帰るって決めてる!!」
叫んだ瞬間、幻影の姿が、ピシリ、ピシリと、氷が割れるような音を立てて崩れ始めた。
「――駒なんかじゃない」
もう一度、はっきりと、ルートは言い切った。
氷の荒野が、光の粒子となって溶けていく。膝から力が抜け、ルートは、その場に崩れ落ちた。
「……はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、拳を握りしめる。手は、まだ、かすかに震えていた。だが、その目には、もう迷いはなかった。
「……行くぞ」
ルートは、ゆっくりと立ち上がり、戦場へと続く光の中へ、歩き出した。




